追放聖女の帰還
 アズレイトは本気だ。本気で怒っている。

 でもサーシャは、アズレイトがどうして怒っているのかわからない。

「ご、ごめんなさい」

 震える声で謝罪の言葉を紡いたサーシャを見て、アズレイトは猫のように目を細めた。

「むやみに謝るのはおやめください。あいにく、わたくしは謝罪など求めておりませんから。それとサーシャさまが謝れば謝るほど、わたくしは自制が利かなくなりますので、ご注意を」

 そんな警告をされたって、どうしていいのかわからない。

 混乱を極めたサーシャはアズレイトから顔を背けたい。しかし顎を掴むアズレイトの手が邪魔で、目を逸らしたくても逸らすことができない。

「サーシャさま、私は確かに種馬ですよ。でもですね、相手を選ぶ種馬なんです。そして私はあなたの種馬になれてとても嬉しく思っています。なぜか……わかりますか?サーシャさま」
「し、知らないっ、わからないよ!」

 耳元で囁かれると、アズレイトの息遣いまで感じられる。彼の声は掠れていて、ひどく熱を帯びていた。

 アズレイトは苛立ってはいるけれど、怒っているわけではない。そこまではわかるけれど、どうしてこんな態度を取るのかなんて考えたくもない。

 ただただ怖くて、サーシャはブンブンと首を横に振ることしかできない。

 その仕草をアズレイトは都合よく解釈した。

「ああ、なるほど。言葉として聞きたいということですか?良いですよ、サーシャさま。いくらでも言ってあげますよ。それであなたがわたくしを受け入れてくれるなら」
「聞きたくない!放してっ。嫌!」

 急に知らない人みたいになったアズレイトが、怖くて怖くてたまらない。

 でも、黙っていればアズレイトは好き勝手に事を進めてしまいそうだ。 

 サーシャはベッドまで3歩の距離にいる。足の長いアズレイトなら2歩で余裕だ。

 そんな状況でアズレイトは意味深な視線をベッドへ向け、そしてすぐにサーシャに視線を戻す。

「馬車の準備はもうすぐ整うので、最後まではできませんが、でも精一杯、優しくします。わたくしが今、どんな気持ちでいるのか……っ!」

 アズレイトは途中で言葉を止めて、小さく息を呑んだ。サーシャがポロポロと涙を流していたから。

「……サーシャさま」

 名を呼ばれたと同時に、拘束されていた両手が自由になった。

「泣かないでください。サーシャさま。お願いします」   

 そう言いながらアズレイトは手を伸ばして、汗と涙で頬に張り付いてしまったサーシャの横髪をそっと撫でた。

「わたくしが悪かったです。お願いです……どうか泣かないでください」

 まるでアズレイト自身が泣いているかのような悲しげな声で、サーシャの頬に伝った涙を親指の腹でそっと拭う。

 目眩がしそうな優しい触れ方が嫌でサーシャは、自由になった手でアズレイトの手を払い除けた。

「こんなふうに触れることすら……駄目ですか?」

 さらに悲痛な声でアズレイトはサーシャに問うた。でも、サーシャは答えない。もうこれ以上なにも聞きたくないと言わんばかりに顔を横に振る。

 そうすれば、やっとアズレイトは一歩サーシャから身を引いた。でも、今度はサーシャが引き寄せられてしまった。

「嫌がるあなたに、こんなことをするなんて、わたくしは種馬失格ですね」

 自嘲気味に笑うアズレイトの腕の中にいても、サーシャは無言を貫いた。

(馬鹿じゃないの!)

 本気で嫌なら、叫び声をあげて人を呼ぶ。それか種馬にとって命とも言える急所を攻撃する。お宝が一生下を向き続けるくらい、えげつない罵倒だってするだろう。

 アズレイトは頭は悪くない。だからサーシャがそういったことを一切していないのは、どういう意味なのか、ちょっと考えればわかるはずなのに。

「た、種馬失格って自覚しているなら、自分から辞退してよ」
「はっ、誰がそんなことするもんか」
「っ……!」

 王子とは思えない柄の悪い言葉が聞こえてきて、サーシャは目を丸くする。

 思わず顔をあげれば、ごく自然にアズレイトと目が合った。緑を含んだグレーの瞳は、一生懸命サーシャに言葉にできない何かを語りかけている。それが辛くてサーシャは目を逸らした。

 そうすれば更にぎゅっと抱き締められてしまう。一体何を考えているんだか。

 アズレイトがサーシャを抱き締めていた時間は一瞬だった。互いの温もりを感じる前にすぐに腕を解き、サーシャと距離を取る。

 そして膝を突くと、宙ぶらりんになっているサーシャの手を取った。 

「サーシャさま、一つだけお願いがあります」

 切実な目で訴えられても、すぐには頷けない。

 内容によると、はっきり声に出して言えばアズレイトは小さく頷いてから口を開いた。

「お願いです。サーシャさまがご自宅に戻るまで、わたくしに猶予を与えてください。ご自宅に到着した際に改めてうかがいます。わたくしがあなたの種馬になり得る存在かどうか」
「……つまり、アズは私の帰路にくっついて来るっていうこと?」
「そりゃあ、そうですよ。一緒にいなければ、あなたを口説くことができないじゃないですか」

 アズレイトは姿勢を崩さず、何を言っているんだと言いたげな表情になった。

(ったく、それが駄目なんだってば!!)

 そう言えないサーシャは、唇を強く噛み締める。胸の内に秘めた言葉が溢れないように。

「お願いです、サーシャさま。どうかお傍に……」

 黙っているサーシャに、アズレイトは再び懇願する。かすれた声は、無様に命乞いをする罪人より切羽詰まったものだ。

 答えは変わらない。「駄目」これ一択だ。

 だって、自宅に戻ってからこの言葉を伝えることができないから。今ここで別れないと、アズレイトの心に傷を残してしまうから。

 でもサーシャは、束の間の幸せを選んでしまった。

「わかった。でも、さっきみたいなことしたら、即刻帰ってもらうからねっ」
「……ぜ、善処します」
「ちゃんと約束して!」
「───はい、わかりました」

 気が遠くなるほど間を開けてアズレイトが返事をしたと同時に、ノックの音が部屋に響いた。馬車の準備が整ったのだ。

「では、参りましょう。サーシャさま」

 立ち上がったアズレイトは、何事も無かったかのように清潔な笑みを浮かべて入口付近に置いてあるサーシャの竪琴を持ち上げると、反対側の手で扉を開けた。

 ずっと帰りたかったはずなのに、サーシャはアズレイトに促されても動こうとしない。

(きっと遠くない未来、アズは自分の選択を後悔するだろう)

 その時はどうか自分を責めないで欲しい。

「サーシャさま?」

 怪訝な顔になったアズレイトに、サーシャは「なんでもない」と呟くと、足を引きずるようにして廊下へと出た。
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