君のとなり〜拓実と〜

最終章 君のとなり

 卒業式の日。

 体育館に並んだ椅子を見つめながら、私は静かに息を吐いた。

 今日で、この学校ともお別れ。

 入学した日のことが、ついこの前のことみたいに思える。

 あの日は、新しい制服に袖を通しただけで嬉しくて、これから始まる三年間がどんなものになるのか、期待と少しの不安を抱えていた。

 それが、気づけば今日。

 笑ったり、泣いたり、悩んだり。

 新体操に夢中になって、何度も壁にぶつかって、それでも最後まで手具を握り続けた。

 恋をして、大切な人と出会った。

 嬉しいだけじゃなく、会いたいのに会えない寂しさも知った。

 自分の弱さに負けそうになったこともあった。

 それでも、ひとつずつ乗り越えてきた。

 振り返れば、三年間は長かったようで、あっという間だった。

 卒業証書を受け取ったとき、胸の奥がいっぱいになった。

 高校生の私が、今日で終わる。

 寂しい。

 でも、それだけじゃない。

 これから始まる未来を思うと、少しだけ胸が高鳴った。



 式が終わり、校庭へ出る。

 そこには、たくさんの友達や後輩たちが集まっていた。

「瑠夏先輩、卒業おめでとうございます!」

「瑠夏先輩、大学行っても頑張ってください!」

「ありがとう」

 後輩たちの笑顔に囲まれて、自然と笑顔になる。

 何度も写真を撮って、何度も「またね」と言い合った。

 この校庭で、みんなと笑っていられることが嬉しかった。

 ここで過ごした時間が、本当に終わるんだと思うと、少しだけ寂しい。

 でも、泣いてしまうより、笑っていたかった。

 そんな中、少し離れたところに翔がいた。

「翔くん」

「瑠夏」

 呼ぶと、翔がこちらへ歩いてくる。

「卒業、おめでとう」

「翔くんも。おめでとう」

 向かい合って笑う。

 中学生の頃から、ずっと一緒だった。

 たくさん笑って、たくさん話して。

 楽しいことも、苦しいことも、いつの間にか隣にいるのが当たり前になっていた。

 そんな翔と、今日で同じ高校を卒業する。

「瑠夏は、これから関東だな」

「うん」

「大学、頑張れよ」

「翔くんもね。スポーツトレーナーになるんでしょ?」

「うん。だから、これからも勉強しないとな」

 翔が少し照れたように笑った。

「瑠夏も、大学とかモデルとか。いろいろ大変そうだけど」

「うん。でも、自分で決めたことだから」

「そっか」

 少しだけ沈黙が落ちる。

 今までなら、こんなふうに言葉が途切れても、またすぐにくだらない話をしていた。

 でも今日は違う。

 私たちは、それぞれ別の場所へ進む。

 それが少し寂しくて。

 それでも、嬉しかった。

 翔が手を差し出した。

「じゃあ、お互い頑張ろう」

「うん」

 私はその手を握った。

 長い時間を一緒に過ごした人。

 これから先、今までのように隣にいることはなくなる。

 でも、この人と過ごした時間までなくなるわけじゃない。

「また、どこかで会えたらいいね」

「うん」

 手を離す。

「元気でな、瑠夏」

「翔くんも。頑張ってね」

「瑠夏もな」

「うん」

 翔が友達のところへ戻っていく。

 私は、その背中を見つめた。

 少しだけ胸が痛んだ。

 でも、それは戻りたいという痛みじゃない。

 長い時間を一緒に過ごした大切な人を、ちゃんと送り出すための痛みだった。

「ありがとう」

 小さく呟く。

 翔には聞こえない。

 それでいい。

 私は校庭を見渡した。

 友達が笑っている。

 後輩たちが手を振っている。

 先生が遠くからこちらを見ている。

 この景色を、きっと私は忘れない。

 胸いっぱいに息を吸う。

 そして、私は前を向いた。



 卒業式から、数日が経った。

「忘れ物ない?」

「うん、大丈夫」

 玄関で、お母さんが私の小さなバッグを確認する。

 大きな引っ越し荷物は、もう先に送ってある。

 向こうの部屋には、これから始まる生活のための荷物が届くことになっている。

「引っ越し屋さん、3時に来るからね」

「分かってる」

「向こうに着いたら、ちゃんと連絡するのよ」

「うん」

 いつもの会話。

 いつもの玄関。

 なのに、今日だけは少し違って見える。

 ここから学校へ通った。

 ここへ帰ってきた。

 嬉しい日も、泣いた日も、全部ここにあった。

 今日からは、自分で選んだ場所で暮らす。

 少しだけ寂しい。

 でも、怖くはなかった。

 私は、未来へ進む。

「……じゃあ、行ってきます」

「瑠夏」

 振り返る。

「いってらっしゃい」

「うん」

 笑って、家を出る。

 ドアが閉まる。

 その向こうで、お母さんが小さく息を吐いた。

「なんだか、お嫁に行くみたいね」

「……まぁ」

 お父さんは玄関を見つめたまま、少し笑った。

「拓実くんなら、安心だな」

「そうね」

 二人の声は、もう瑠夏には届かない。



 新幹線の窓から、流れていく景色を眺める。

 見慣れた街が、少しずつ遠ざかっていく。

 高校生活が終わったんだ。

 そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。

 いろんなことがあった。

 楽しいことだけじゃなかった。

 新体操に夢中になって、限界まで頑張ったこと。

 受験勉強に追われて、余裕がなくなったこと。

 そんなとき、拓実が帰ってきてくれた。

 会って、話して。

 ぎゅっと抱きしめてもらう。

 その腕の中にいると、張りつめていたものがほどけていくようで、また頑張れる気がした。

 大切なときには、ちゃんと帰ってきてくれた。

 だからこそ、普段は会いたいときに会えないことが寂しかった。

 隣にいてほしいと思っても、すぐには会えない。

 触れたいと思っても、距離がある。

 それでも私は、自分の毎日を頑張ってきた。

 新体操も。

 受験も。

 そして、これからの未来も。

 関東の大学へ進むのは、拓実がいるからじゃない。

 私が、自分で選んだ道。

 その先に拓実がいる。

 それが、ただ嬉しかった。

 窓の外の景色が変わっていく。

 もうすぐ、関東。

 そして――拓実に会える。

 そう思うと、自然と口元が緩んだ。



 やがて、新幹線が駅へ滑り込んだ。

 扉が開く。

 私は小さなバッグを持って、ホームへ降りた。

 以前、拓実と一緒に来たことのある駅。

 今日は、その拓実が私を待っている。

 駅の中へ進む。

 たくさんの人が行き交っている。

 私は辺りを見回した。

 どこにいるんだろう。

 約束した場所は分かっている。

 それでも、人の波の中ではなかなか姿を見つけられない。

 そのときだった。

「瑠夏!」

 聞き慣れた声がした。

 胸が、大きく跳ねる。

「……え?」

 振り向く。

 人の波の奥。

 そこに――拓実がいた。

「拓実……!」

 目が合う。

 拓実が笑った。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がいっぱいになった。

 大切な日に帰ってきてくれたときも。

 ぎゅっと抱きしめてくれたときも。

 離れていて寂しかった日も。

 会いたいと思いながら、自分の道を頑張ってきた時間も。

 全部が、今この瞬間につながっている。

 拓実が、両腕を広げた。

 何も言わない。

 ただ、私を見ている。

 でも、分かった。

 ――おいで。

 そう言っているように見えた。

 胸が熱くなる。

 もう、止まれなかった。

 私は走り出した。

 人の波を抜ける。

 小さなバッグが揺れる。

 それでも、足を止めない。

 目の前にいる拓実だけを見て。

 あと少し。

 あと少し。

「拓実……!」

 その胸に、飛び込んだ。

 すぐに、拓実の腕が私の背中を包む。

 ぎゅっと抱きしめられる。

 その瞬間、張りつめていたものが、ふっとほどけた。

 この温もり。

 この腕の中。

 何度も安心させてもらった場所。

 私は拓実の背中に腕を回した。

 もう少しだけ強く。

 離れていた時間を確かめるように。

 拓実の胸に顔を埋める。

 涙が頬を伝った。

 しばらく、何も言わなかった。

 ただ抱きしめ合っていた。

 やがて、拓実が耳元で囁く。

「……会いたかった」

 その声に、胸がいっぱいになる。

 私も、同じだった。

 会いたいときに会えないことが、ずっと寂しかった。

 それでも、今日まで頑張ってきた。

 自分で選んだ未来へ進んで、その先で――やっと拓実のところまで来た。

「私も……」

 それだけ言うと、また涙がこぼれた。

 拓実の腕に、そっと力がこもる。

 私はその温もりの中で、目を閉じた。

 もう、遠くない。

 これから始まる毎日は、きっと今までとは違う。

 嬉しい日も、苦しい日も、また会いたくなる日もあるだろう。

 それでも、今度はもっと近くにいられる。

 拓実から贈られたリボンのブレスレットが、瑠夏の手首で小さく揺れている。

 これからもずっと、君のとなりにいたい。

――高校編・完。
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