春の月明かり

ネモフィラ咲く場所

 4月。

 新しい制服の袖に、まだ少しだけ慣れない朝だった。

 和泉明凛は、鶴崎中学校の三年生になった。

 校門をくぐると、春の風が頬を撫でた。校庭の桜は少しずつ花を落とし、地面には薄いピンク色の花びらが散っている。

 今日から、新しいクラス。

 仲のいい友達とは一緒になれるだろうか。
 どんな人たちと、一年間を過ごすのだろう。

 そんなことを考えながら、明凛は昇降口へ向かった。

 クラス分けの紙の前には、たくさんの生徒が集まっていた。

「明凛、何組だった?」

 後ろから友達に声をかけられ、明凛は掲示された名前を探した。

「あった。三組!」

「ほんと? 私も一緒!」

 友達と同じクラスだとわかり、明凛はほっと息をついた。

 教室に入ると、窓から春の光が差し込んでいた。

 新しい席を確認して、自分の机を探す。

 窓側から数えて、後ろから三番目。

 明凛が椅子を引こうとしたとき、隣の席に男の子が座っていることに気づいた。

 黒い髪に、落ち着いた表情。

 机の上には、まだ何も置かれていない。

 彼は明凛に気づくと、顔を上げた。

「……おはよう」

「あ、おはよう」

 それだけの短い挨拶。

 彼はまた前を向き、明凛も自分の席に座った。

 そのときは、まだ知らなかった。

 この隣の席が、これからの一年間で、少しずつ特別な場所になっていくことを。


 始業式が終わり、教室では担任の先生の話が続いていた。

 自己紹介の時間になると、ひとりずつ立ち上がって名前や部活動を話していく。

 明凛の番が来た。

「和泉明凛です。美術部に入っています。よろしくお願いします」

 少し緊張しながら頭を下げると、クラスメイトたちから拍手が起こった。

 次は、隣の男の子だった。

 彼は椅子から立ち上がり、教室を見渡した。

「神志那麗です。園芸部です。よろしくお願いします」

 それだけ言うと、静かに座った。

 神志那麗。

 明凛は心の中で、その名前を繰り返した。

 園芸部。

 花を育てる部活だっただろうか。

 そんなことを考えているうちに、自己紹介は終わった。

 休み時間になると、教室は一気に賑やかになった。

 友達同士で話す声。
 新しいクラスのこと。
 春休みの思い出。

 明凛も友達と話していたが、ふと隣を見ると、麗は窓の外を眺めていた。

 その視線の先には、校舎のそばにある花壇が見えた。

 春の花が、風に揺れている。

 麗は何かを確かめるように、しばらく花壇を見つめていた。

 明凛は、なんとなく気になった。

 けれど、声をかけることはできなかった。


 放課後。

 美術部の活動が始まると、明凛は美術室へ向かった。

 窓際には画材が並び、机の上にはスケッチブックや鉛筆が置かれている。

 明凛は自分の席に座り、スケッチブックを開いた。

 今年はどんな絵を描こう。

 花も描きたい。

 空も描きたい。

 春の景色を、できるだけたくさん残しておきたい。

 そんなことを考えながら、窓の外へ目を向けた。

 美術室の窓からは、校舎のそばにある花壇が見える。

 そこに、見覚えのある姿があった。

 神志那麗だった。

 園芸部の活動をしているらしい。

 しゃがみ込んで、花壇の土を確かめている。

 少し離れたところには、じょうろが置かれていた。

 麗は苗のそばに手を伸ばし、葉の様子をひとつずつ見ていた。

 その動きは、教室で見たときよりもずっと自然だった。

 明凛は、思わず手を止めた。

 教室ではあまり話さない男の子。

 でも、花壇の前にいる彼は、何かを大切にしているように見えた。

「明凛、手止まってるよ」

 同じ美術部の同級生に声をかけられ、明凛は慌ててスケッチブックへ視線を戻した。

「あ、ごめん」

「何見てたの?」

「ううん、ちょっと花壇を」

「園芸部の人たち、今日も活動してるね」

「……うん」

 明凛は、もう一度だけ窓の外を見た。

 麗は、花壇の世話を続けていた。

 明凛は鉛筆を動かし始めた。

 けれど、さっき見た花壇の景色が、まだ頭から離れなかった。


 それから何日かが過ぎた。

 新しいクラスにも、少しずつ慣れてきた。

 明凛は麗と隣の席で過ごすうちに、いくつかのことを知った。

 麗は、授業中にあまり目立つことはない。

 休み時間も、大勢で騒ぐより、静かに過ごしていることが多かった。

 けれど、花の話になると少し違った。

 ある日の昼休み。

 明凛が窓の外の花壇を眺めていると、麗が隣から声をかけた。

「花、好きなの?」

「え?」

 突然の質問に、明凛は振り返った。

「花壇、よく見てるから」

「あ……うん。絵を描くのが好きだから、花もよく描くよ」

「そうなんだ」

 麗は窓の外を見た。

「園芸部で、いろいろ育ててるよ」

「そうなんだ。何を育ててるの?」

「チューリップとか。ほかにも、いろいろ」

 明凛は少し身を乗り出した。

「チューリップ、好きだな。色がきれいで」

「赤もあるし、黄色もあるよ。ピンクや白も」

「そんなにあるんだ」

「うん。咲く時期も、少しずつ違うから」

 麗は、窓の向こうの花壇を見つめた。

「花って、同じように見えても、毎日ちょっとずつ変わるんだよ」

 明凛は、その言葉が気になった。

「毎日?」

「つぼみが大きくなったり、花びらが開いたり。昨日と今日で、全然違うこともある」

「へえ……」

「だから、写真を撮ってる」

「写真?」

 麗は小さく頷いた。

「育てた花を、できるだけ残しておきたくて」

 明凛は、思いがけない趣味に驚いた。

「神志那くん、写真も撮るんだ」

「うん。花だけだけど」

「見てみたいな」

 口にしてから、明凛は少し恥ずかしくなった。

 でも麗は、嫌そうな顔をしなかった。

「いいよ」

 その短い返事が、明凛には少しだけ嬉しかった。


 その日の放課後。

 園芸部の活動が終わるころ、明凛は美術室の窓から花壇を眺めていた。

 麗が、じょうろを片づけている。

 明凛はスケッチブックを閉じ、少し迷ってから美術室を出た。

 花壇の近くまで行くと、麗が気づいた。

「和泉さん?」

「お疲れさま」

「お疲れさま」

 明凛は花壇を見渡した。

 赤いチューリップ。

 黄色い花。

 ピンク色の小さな花。

 白い花びらを広げた花もあった。

 色とりどりの花が、春の風に揺れている。

「いろんな花があるんだね」

「うん。園芸部で育ててる」

「これも?」

 明凛は、赤いチューリップを指さした。

「そう。これは、つぼみのときから育ててた」

「つぼみのときから?」

「うん」

 麗は、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「写真、見る?」

「いいの?」

「うん」

 麗は画面を操作して、明凛に見せた。

 最初に映っていたのは、土から小さく顔を出した芽だった。

 次の写真には、少し伸びた葉。

 その次には、固く閉じたつぼみ。

 そして、赤い花びらが開き始めた写真。

 最後には、花壇の中で、赤いチューリップが大きく咲いていた。

「すごい……」

 明凛は、画面を覗き込んだ。

「こんなに変わるんだね」

「うん。毎日見てると、少しずつだけど」

 麗は次の写真を見せた。

 黄色い花。

 ピンク色の花。

 白い花。

 紫色の花。

 どれも、つぼみのときから、咲いたときまで撮られていた。

 中には、花壇いっぱいに咲いた花を、少し離れたところから撮った写真もあった。

 朝露がついた花びら。

 雨に濡れて、少しうつむいた花。

 風に揺れて、花びらが重なった瞬間。

 同じ花でも、写真によって表情が違っていた。

「全部、神志那くんが撮ったの?」

「うん」

「すごいね。写真、上手」

「そんなことないよ」

 麗は少し照れたように、画面を見た。

「でも、残しておきたいんだ」

「どうして?」

 麗は少し考えてから答えた。

「花って、ずっと同じ姿じゃないから」

 明凛は黙って聞いていた。

「咲いたと思ったら、いつか枯れるし。次の年には、また違う花が咲く」

 麗は画面を指で送った。

「でも、写真があれば、そのときのことを思い出せるから」

「そのときのこと?」

「この花を育ててたとき、どんな天気だったとか。水をあげたとき、つぼみが少し開いてたとか」

 麗は、ひとつの写真で指を止めた。

 まだ小さな芽が、土の中から顔を出している。

「こういうのを見ると、ああ、ここから育ったんだなって思う」

 明凛は、その写真をじっと見つめた。

 花が咲いた瞬間だけではなく、咲くまでの時間も大切にしている。

 麗は、そういう人なのかもしれない。

「……なんか、いいね」

「え?」

「花が咲いたところだけじゃなくて、咲くまでのことも残してるの」

 麗は、少しだけ目を細めた。

「うん。そこも好きだから」

 その言葉が、明凛の胸に静かに残った。

 好きだから。

 麗は、花を育てることが好きなのだ。

 毎日様子を見て、水をあげて、写真を撮って。

 咲くまでの時間も、咲いたあとの姿も、大切にしている。

 明凛は、もう一度画面を見た。

「私も、絵で残したいな」

「絵?」

「うん。写真とは違うけど、描いてるときの気持ちも一緒に残る気がするから」

 麗は明凛を見た。

「それ、いいね」

 ほんの少しだけ、二人の間に沈黙が流れた。

 けれど、その沈黙は気まずくなかった。

 花壇の向こうで、春の風が吹いていた。


 四月の終わりが近づいたころ。

 花壇に、小さな青い花が咲いた。

 美術室で絵を描いていた明凛は、窓の外にその花を見つけた。

 淡い青色の花びら。

 中心に向かって、白くなっている。

 風に揺れるたび、小さく揺れていた。

「……あれ、なんの花だろう」

 明凛がつぶやくと、隣の席にいた麗が窓の外を見た。

「ああ、ネモフィラ」

「ネモフィラ?」

「うん。咲いたんだ」

 麗は、少し嬉しそうに言った。

「この前から、つぼみができてたんだよ」

「そうだったんだ」

 明凛は窓の外を見つめた。

 青い花は、春の空を小さく切り取ったようだった。

「きれいだね」

「うん」

 麗は、花壇を見ながら言った。

「ネモフィラって、花言葉もあるんだよ」

「花言葉?」

「よく知られてるものだと、『可憐』とか」

「へえ……」

「ほかにも、いくつかあるよ」

 麗はそう言って、少しだけ笑った。

「花って、見た目だけじゃなくて、そういう意味もあるから面白いんだ」

 明凛は、ネモフィラを見つめたまま、ゆっくり頷いた。

 花言葉。

 花に、言葉がある。

 直接言わなくても、花を渡すことで気持ちを伝えられることがある。

 そんなことを考えると、花壇に咲く小さな青い花が、さっきよりも少し特別に見えた。

「神志那くんも、花言葉で花を選んだりするの?」

「うん。たまに」

「誰かにあげるとき?」

「そういうときもある」

 麗は、ネモフィラへ視線を戻した。

「その花に合う言葉があったら、いいなって思うから」

 明凛は、なぜだかそれ以上聞けなかった。

 誰にあげるのだろう。

 どんな気持ちを込めるのだろう。

 気になったけれど、聞いてしまうのは少し違う気がした。


 その日の放課後。

 明凛は、いつもより少し早く美術室を出た。

 花壇のそばには、麗がいた。

 ネモフィラの周りを確かめながら、土に水をあげている。

 明凛は、少し離れたところで立ち止まった。

「神志那くん」

 麗が振り返った。

「和泉さん。どうしたの?」

「ネモフィラ、描いてもいい?」

「もちろん」

 麗は、花壇の端を指さした。

「ここからだと、よく見えるよ」

「ありがとう」

 明凛はスケッチブックを開いた。

 鉛筆を持ち、青い花を見つめる。

 花びらの形。

 中心の白い部分。

 細い茎。

 風に揺れる様子。

 ひとつずつ、目で追いながら描いていく。

 けれど、何度か鉛筆を止めてしまった。

 花を描こうとしているのに、視線が別のところへ向かってしまう。

 ネモフィラの隣で、麗が花壇を整えていた。

 土をならす手。

 花を傷つけないように、そっと伸ばす指。

 水をあげたあと、花の様子を確かめる横顔。

 明凛は、思わずその姿を見つめた。

 どうしてだろう。

 花だけを描きたいはずなのに。

 麗も一緒に描いてみたい。

 そう思った。

 でも、どうしてそんなことを思ったのか、自分でもよくわからなかった。

「和泉さん?」

 声をかけられ、明凛ははっとした。

「あ、ごめん。何?」

「絵、描けた?」

「まだ……」

 明凛はスケッチブックを見下ろした。

 そこには、ネモフィラの花がいくつか描かれていた。

 けれど、まだ完成には遠かった。

「ねえ、神志那くん」

「うん?」

「……ちょっと、お願いしてもいい?」

「なに?」

 明凛は、少し迷った。

 こんなことを頼んで、変に思われないだろうか。

 けれど、口にしてみたかった。

「神志那くんも、一緒に描いてみたい」

「僕を?」

「うん。ネモフィラと一緒に」

 麗は少し驚いたように目を開いた。

 明凛は慌てて言葉を足した。

「花壇の世話をしてるところが、なんか……絵になるなって思って」

 麗は、しばらく黙っていた。

 明凛は、スケッチブックをぎゅっと握った。

 断られても仕方ない。

 そう思っていたとき、麗が小さく頷いた。

「いいよ」

「ほんと?」

「うん。どうすればいい?」

 明凛は、ほっと息をついた。

「そこに座ってくれる? ネモフィラが見えるところ」

「わかった」

 麗は花壇のそばに腰を下ろした。

 青いネモフィラが、すぐ隣で揺れている。

 明凛はスケッチブックを構えた。

 鉛筆を動かす。

 麗の髪。

 制服の襟。

 花壇のそばに座る姿。

 そして、隣に咲くネモフィラ。

 描いているうちに、明凛は少しずつ夢中になっていった。

 花だけを描いているときとは違う。

 麗の姿を描くたびに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。

 それでも、鉛筆を止めたくなかった。

 今、この瞬間を残しておきたかった。

 麗がここにいて、ネモフィラが咲いていて、春の風が吹いている。

 この景色を、忘れたくないと思った。


「……できた」

 明凛は、鉛筆を置いた。

 スケッチブックの中には、ネモフィラと、そのそばに座る麗が描かれていた。

 麗は立ち上がり、明凛の隣に来た。

「見てもいい?」

「うん」

 明凛は、少し恥ずかしくなりながらスケッチブックを見せた。

 麗は、しばらく絵を見つめていた。

「……すごい」

「え?」

「僕、こんなふうに見えてるんだ」

 明凛は、少しだけ笑った。

「変だった?」

「ううん」

 麗は首を横に振った。

「きれいだね」

 その言葉に、明凛の頬が少し熱くなった。

「ありがとう」

「描いてくれて、ありがとう」

 麗は、もう一度絵を見た。

「なんか、嬉しい」

 明凛は顔を上げた。

「ほんと?」

「うん」

 その返事を聞いて、明凛の胸の奥が、ふわりと温かくなった。

 絵を褒めてもらえたからだろうか。

 それとも、麗が嬉しいと言ってくれたからだろうか。

 自分でも、よくわからなかった。

 ただ、もう一度描いてみたいと思った。

 今度は、ネモフィラだけではなく。

 花壇の前にいる麗を。

 花に水をあげている麗を。

 何かを大切にしているときの、あの横顔を。

 もっと、描いてみたい。

 明凛は、スケッチブックをそっと閉じた。


 帰り支度をしていると、麗がスマートフォンを取り出した。

「そうだ」

「ん?」

「今日のネモフィラ、写真撮っておこう」

 麗は花壇のほうへ向き直った。

 青い花が、夕方の光の中で揺れている。

 麗は少ししゃがみ、花の高さに合わせてスマートフォンを構えた。

 画面の中に、ネモフィラが映る。

 その向こうには、明凛が描いたスケッチブックがあった。

 麗は一度、明凛のほうを見た。

「和泉さん」

「なに?」

「今日のことも、覚えておきたいから」

 明凛は、少しだけ目を丸くした。

「今日のこと?」

「うん。ネモフィラが咲いた日」

 麗は、花へ視線を戻した。

「それに、絵を描いてもらった日」

 明凛は、何も言えなかった。

 麗は写真を撮った。

 小さな音が、夕方の花壇に響いた。

 その一枚の中に、春の花と、今日という日が残された。

 花が咲いたこと。

 二人で話したこと。

 明凛が麗を描いたこと。

 いつか、この花が枯れてしまっても。

 写真を見れば、今日のことを思い出せる。

 麗は、そう思っていた。

 明凛もまた、スケッチブックを胸に抱えながら、花壇を見つめていた。

 青いネモフィラ。

 春の風。

 隣にいる、神志那麗。

 まだ、恋という言葉を知らないわけではなかった。

 けれど、自分の胸に芽生え始めた気持ちが、それなのかどうかは、わからなかった。

 ただ、明日もまた、この花壇を見に来たいと思った。

 麗がいる場所へ。

 ネモフィラが咲く場所へ。

 明凛は、そっとスケッチブックを抱きしめた。

 春は、まだ始まったばかりだった。
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