春の月明かり
ネモフィラ咲く場所
4月。
新しい制服の袖に、まだ少しだけ慣れない朝だった。
和泉明凛は、鶴崎中学校の三年生になった。
校門をくぐると、春の風が頬を撫でた。校庭の桜は少しずつ花を落とし、地面には薄いピンク色の花びらが散っている。
今日から、新しいクラス。
仲のいい友達とは一緒になれるだろうか。
どんな人たちと、一年間を過ごすのだろう。
そんなことを考えながら、明凛は昇降口へ向かった。
クラス分けの紙の前には、たくさんの生徒が集まっていた。
「明凛、何組だった?」
後ろから友達に声をかけられ、明凛は掲示された名前を探した。
「あった。三組!」
「ほんと? 私も一緒!」
友達と同じクラスだとわかり、明凛はほっと息をついた。
教室に入ると、窓から春の光が差し込んでいた。
新しい席を確認して、自分の机を探す。
窓側から数えて、後ろから三番目。
明凛が椅子を引こうとしたとき、隣の席に男の子が座っていることに気づいた。
黒い髪に、落ち着いた表情。
机の上には、まだ何も置かれていない。
彼は明凛に気づくと、顔を上げた。
「……おはよう」
「あ、おはよう」
それだけの短い挨拶。
彼はまた前を向き、明凛も自分の席に座った。
そのときは、まだ知らなかった。
この隣の席が、これからの一年間で、少しずつ特別な場所になっていくことを。
始業式が終わり、教室では担任の先生の話が続いていた。
自己紹介の時間になると、ひとりずつ立ち上がって名前や部活動を話していく。
明凛の番が来た。
「和泉明凛です。美術部に入っています。よろしくお願いします」
少し緊張しながら頭を下げると、クラスメイトたちから拍手が起こった。
次は、隣の男の子だった。
彼は椅子から立ち上がり、教室を見渡した。
「神志那麗です。園芸部です。よろしくお願いします」
それだけ言うと、静かに座った。
神志那麗。
明凛は心の中で、その名前を繰り返した。
園芸部。
花を育てる部活だっただろうか。
そんなことを考えているうちに、自己紹介は終わった。
休み時間になると、教室は一気に賑やかになった。
友達同士で話す声。
新しいクラスのこと。
春休みの思い出。
明凛も友達と話していたが、ふと隣を見ると、麗は窓の外を眺めていた。
その視線の先には、校舎のそばにある花壇が見えた。
春の花が、風に揺れている。
麗は何かを確かめるように、しばらく花壇を見つめていた。
明凛は、なんとなく気になった。
けれど、声をかけることはできなかった。
放課後。
美術部の活動が始まると、明凛は美術室へ向かった。
窓際には画材が並び、机の上にはスケッチブックや鉛筆が置かれている。
明凛は自分の席に座り、スケッチブックを開いた。
今年はどんな絵を描こう。
花も描きたい。
空も描きたい。
春の景色を、できるだけたくさん残しておきたい。
そんなことを考えながら、窓の外へ目を向けた。
美術室の窓からは、校舎のそばにある花壇が見える。
そこに、見覚えのある姿があった。
神志那麗だった。
園芸部の活動をしているらしい。
しゃがみ込んで、花壇の土を確かめている。
少し離れたところには、じょうろが置かれていた。
麗は苗のそばに手を伸ばし、葉の様子をひとつずつ見ていた。
その動きは、教室で見たときよりもずっと自然だった。
明凛は、思わず手を止めた。
教室ではあまり話さない男の子。
でも、花壇の前にいる彼は、何かを大切にしているように見えた。
「明凛、手止まってるよ」
同じ美術部の同級生に声をかけられ、明凛は慌ててスケッチブックへ視線を戻した。
「あ、ごめん」
「何見てたの?」
「ううん、ちょっと花壇を」
「園芸部の人たち、今日も活動してるね」
「……うん」
明凛は、もう一度だけ窓の外を見た。
麗は、花壇の世話を続けていた。
明凛は鉛筆を動かし始めた。
けれど、さっき見た花壇の景色が、まだ頭から離れなかった。
それから何日かが過ぎた。
新しいクラスにも、少しずつ慣れてきた。
明凛は麗と隣の席で過ごすうちに、いくつかのことを知った。
麗は、授業中にあまり目立つことはない。
休み時間も、大勢で騒ぐより、静かに過ごしていることが多かった。
けれど、花の話になると少し違った。
ある日の昼休み。
明凛が窓の外の花壇を眺めていると、麗が隣から声をかけた。
「花、好きなの?」
「え?」
突然の質問に、明凛は振り返った。
「花壇、よく見てるから」
「あ……うん。絵を描くのが好きだから、花もよく描くよ」
「そうなんだ」
麗は窓の外を見た。
「園芸部で、いろいろ育ててるよ」
「そうなんだ。何を育ててるの?」
「チューリップとか。ほかにも、いろいろ」
明凛は少し身を乗り出した。
「チューリップ、好きだな。色がきれいで」
「赤もあるし、黄色もあるよ。ピンクや白も」
「そんなにあるんだ」
「うん。咲く時期も、少しずつ違うから」
麗は、窓の向こうの花壇を見つめた。
「花って、同じように見えても、毎日ちょっとずつ変わるんだよ」
明凛は、その言葉が気になった。
「毎日?」
「つぼみが大きくなったり、花びらが開いたり。昨日と今日で、全然違うこともある」
「へえ……」
「だから、写真を撮ってる」
「写真?」
麗は小さく頷いた。
「育てた花を、できるだけ残しておきたくて」
明凛は、思いがけない趣味に驚いた。
「神志那くん、写真も撮るんだ」
「うん。花だけだけど」
「見てみたいな」
口にしてから、明凛は少し恥ずかしくなった。
でも麗は、嫌そうな顔をしなかった。
「いいよ」
その短い返事が、明凛には少しだけ嬉しかった。
その日の放課後。
園芸部の活動が終わるころ、明凛は美術室の窓から花壇を眺めていた。
麗が、じょうろを片づけている。
明凛はスケッチブックを閉じ、少し迷ってから美術室を出た。
花壇の近くまで行くと、麗が気づいた。
「和泉さん?」
「お疲れさま」
「お疲れさま」
明凛は花壇を見渡した。
赤いチューリップ。
黄色い花。
ピンク色の小さな花。
白い花びらを広げた花もあった。
色とりどりの花が、春の風に揺れている。
「いろんな花があるんだね」
「うん。園芸部で育ててる」
「これも?」
明凛は、赤いチューリップを指さした。
「そう。これは、つぼみのときから育ててた」
「つぼみのときから?」
「うん」
麗は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「写真、見る?」
「いいの?」
「うん」
麗は画面を操作して、明凛に見せた。
最初に映っていたのは、土から小さく顔を出した芽だった。
次の写真には、少し伸びた葉。
その次には、固く閉じたつぼみ。
そして、赤い花びらが開き始めた写真。
最後には、花壇の中で、赤いチューリップが大きく咲いていた。
「すごい……」
明凛は、画面を覗き込んだ。
「こんなに変わるんだね」
「うん。毎日見てると、少しずつだけど」
麗は次の写真を見せた。
黄色い花。
ピンク色の花。
白い花。
紫色の花。
どれも、つぼみのときから、咲いたときまで撮られていた。
中には、花壇いっぱいに咲いた花を、少し離れたところから撮った写真もあった。
朝露がついた花びら。
雨に濡れて、少しうつむいた花。
風に揺れて、花びらが重なった瞬間。
同じ花でも、写真によって表情が違っていた。
「全部、神志那くんが撮ったの?」
「うん」
「すごいね。写真、上手」
「そんなことないよ」
麗は少し照れたように、画面を見た。
「でも、残しておきたいんだ」
「どうして?」
麗は少し考えてから答えた。
「花って、ずっと同じ姿じゃないから」
明凛は黙って聞いていた。
「咲いたと思ったら、いつか枯れるし。次の年には、また違う花が咲く」
麗は画面を指で送った。
「でも、写真があれば、そのときのことを思い出せるから」
「そのときのこと?」
「この花を育ててたとき、どんな天気だったとか。水をあげたとき、つぼみが少し開いてたとか」
麗は、ひとつの写真で指を止めた。
まだ小さな芽が、土の中から顔を出している。
「こういうのを見ると、ああ、ここから育ったんだなって思う」
明凛は、その写真をじっと見つめた。
花が咲いた瞬間だけではなく、咲くまでの時間も大切にしている。
麗は、そういう人なのかもしれない。
「……なんか、いいね」
「え?」
「花が咲いたところだけじゃなくて、咲くまでのことも残してるの」
麗は、少しだけ目を細めた。
「うん。そこも好きだから」
その言葉が、明凛の胸に静かに残った。
好きだから。
麗は、花を育てることが好きなのだ。
毎日様子を見て、水をあげて、写真を撮って。
咲くまでの時間も、咲いたあとの姿も、大切にしている。
明凛は、もう一度画面を見た。
「私も、絵で残したいな」
「絵?」
「うん。写真とは違うけど、描いてるときの気持ちも一緒に残る気がするから」
麗は明凛を見た。
「それ、いいね」
ほんの少しだけ、二人の間に沈黙が流れた。
けれど、その沈黙は気まずくなかった。
花壇の向こうで、春の風が吹いていた。
四月の終わりが近づいたころ。
花壇に、小さな青い花が咲いた。
美術室で絵を描いていた明凛は、窓の外にその花を見つけた。
淡い青色の花びら。
中心に向かって、白くなっている。
風に揺れるたび、小さく揺れていた。
「……あれ、なんの花だろう」
明凛がつぶやくと、隣の席にいた麗が窓の外を見た。
「ああ、ネモフィラ」
「ネモフィラ?」
「うん。咲いたんだ」
麗は、少し嬉しそうに言った。
「この前から、つぼみができてたんだよ」
「そうだったんだ」
明凛は窓の外を見つめた。
青い花は、春の空を小さく切り取ったようだった。
「きれいだね」
「うん」
麗は、花壇を見ながら言った。
「ネモフィラって、花言葉もあるんだよ」
「花言葉?」
「よく知られてるものだと、『可憐』とか」
「へえ……」
「ほかにも、いくつかあるよ」
麗はそう言って、少しだけ笑った。
「花って、見た目だけじゃなくて、そういう意味もあるから面白いんだ」
明凛は、ネモフィラを見つめたまま、ゆっくり頷いた。
花言葉。
花に、言葉がある。
直接言わなくても、花を渡すことで気持ちを伝えられることがある。
そんなことを考えると、花壇に咲く小さな青い花が、さっきよりも少し特別に見えた。
「神志那くんも、花言葉で花を選んだりするの?」
「うん。たまに」
「誰かにあげるとき?」
「そういうときもある」
麗は、ネモフィラへ視線を戻した。
「その花に合う言葉があったら、いいなって思うから」
明凛は、なぜだかそれ以上聞けなかった。
誰にあげるのだろう。
どんな気持ちを込めるのだろう。
気になったけれど、聞いてしまうのは少し違う気がした。
その日の放課後。
明凛は、いつもより少し早く美術室を出た。
花壇のそばには、麗がいた。
ネモフィラの周りを確かめながら、土に水をあげている。
明凛は、少し離れたところで立ち止まった。
「神志那くん」
麗が振り返った。
「和泉さん。どうしたの?」
「ネモフィラ、描いてもいい?」
「もちろん」
麗は、花壇の端を指さした。
「ここからだと、よく見えるよ」
「ありがとう」
明凛はスケッチブックを開いた。
鉛筆を持ち、青い花を見つめる。
花びらの形。
中心の白い部分。
細い茎。
風に揺れる様子。
ひとつずつ、目で追いながら描いていく。
けれど、何度か鉛筆を止めてしまった。
花を描こうとしているのに、視線が別のところへ向かってしまう。
ネモフィラの隣で、麗が花壇を整えていた。
土をならす手。
花を傷つけないように、そっと伸ばす指。
水をあげたあと、花の様子を確かめる横顔。
明凛は、思わずその姿を見つめた。
どうしてだろう。
花だけを描きたいはずなのに。
麗も一緒に描いてみたい。
そう思った。
でも、どうしてそんなことを思ったのか、自分でもよくわからなかった。
「和泉さん?」
声をかけられ、明凛ははっとした。
「あ、ごめん。何?」
「絵、描けた?」
「まだ……」
明凛はスケッチブックを見下ろした。
そこには、ネモフィラの花がいくつか描かれていた。
けれど、まだ完成には遠かった。
「ねえ、神志那くん」
「うん?」
「……ちょっと、お願いしてもいい?」
「なに?」
明凛は、少し迷った。
こんなことを頼んで、変に思われないだろうか。
けれど、口にしてみたかった。
「神志那くんも、一緒に描いてみたい」
「僕を?」
「うん。ネモフィラと一緒に」
麗は少し驚いたように目を開いた。
明凛は慌てて言葉を足した。
「花壇の世話をしてるところが、なんか……絵になるなって思って」
麗は、しばらく黙っていた。
明凛は、スケッチブックをぎゅっと握った。
断られても仕方ない。
そう思っていたとき、麗が小さく頷いた。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん。どうすればいい?」
明凛は、ほっと息をついた。
「そこに座ってくれる? ネモフィラが見えるところ」
「わかった」
麗は花壇のそばに腰を下ろした。
青いネモフィラが、すぐ隣で揺れている。
明凛はスケッチブックを構えた。
鉛筆を動かす。
麗の髪。
制服の襟。
花壇のそばに座る姿。
そして、隣に咲くネモフィラ。
描いているうちに、明凛は少しずつ夢中になっていった。
花だけを描いているときとは違う。
麗の姿を描くたびに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
それでも、鉛筆を止めたくなかった。
今、この瞬間を残しておきたかった。
麗がここにいて、ネモフィラが咲いていて、春の風が吹いている。
この景色を、忘れたくないと思った。
「……できた」
明凛は、鉛筆を置いた。
スケッチブックの中には、ネモフィラと、そのそばに座る麗が描かれていた。
麗は立ち上がり、明凛の隣に来た。
「見てもいい?」
「うん」
明凛は、少し恥ずかしくなりながらスケッチブックを見せた。
麗は、しばらく絵を見つめていた。
「……すごい」
「え?」
「僕、こんなふうに見えてるんだ」
明凛は、少しだけ笑った。
「変だった?」
「ううん」
麗は首を横に振った。
「きれいだね」
その言葉に、明凛の頬が少し熱くなった。
「ありがとう」
「描いてくれて、ありがとう」
麗は、もう一度絵を見た。
「なんか、嬉しい」
明凛は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
その返事を聞いて、明凛の胸の奥が、ふわりと温かくなった。
絵を褒めてもらえたからだろうか。
それとも、麗が嬉しいと言ってくれたからだろうか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ、もう一度描いてみたいと思った。
今度は、ネモフィラだけではなく。
花壇の前にいる麗を。
花に水をあげている麗を。
何かを大切にしているときの、あの横顔を。
もっと、描いてみたい。
明凛は、スケッチブックをそっと閉じた。
帰り支度をしていると、麗がスマートフォンを取り出した。
「そうだ」
「ん?」
「今日のネモフィラ、写真撮っておこう」
麗は花壇のほうへ向き直った。
青い花が、夕方の光の中で揺れている。
麗は少ししゃがみ、花の高さに合わせてスマートフォンを構えた。
画面の中に、ネモフィラが映る。
その向こうには、明凛が描いたスケッチブックがあった。
麗は一度、明凛のほうを見た。
「和泉さん」
「なに?」
「今日のことも、覚えておきたいから」
明凛は、少しだけ目を丸くした。
「今日のこと?」
「うん。ネモフィラが咲いた日」
麗は、花へ視線を戻した。
「それに、絵を描いてもらった日」
明凛は、何も言えなかった。
麗は写真を撮った。
小さな音が、夕方の花壇に響いた。
その一枚の中に、春の花と、今日という日が残された。
花が咲いたこと。
二人で話したこと。
明凛が麗を描いたこと。
いつか、この花が枯れてしまっても。
写真を見れば、今日のことを思い出せる。
麗は、そう思っていた。
明凛もまた、スケッチブックを胸に抱えながら、花壇を見つめていた。
青いネモフィラ。
春の風。
隣にいる、神志那麗。
まだ、恋という言葉を知らないわけではなかった。
けれど、自分の胸に芽生え始めた気持ちが、それなのかどうかは、わからなかった。
ただ、明日もまた、この花壇を見に来たいと思った。
麗がいる場所へ。
ネモフィラが咲く場所へ。
明凛は、そっとスケッチブックを抱きしめた。
春は、まだ始まったばかりだった。
新しい制服の袖に、まだ少しだけ慣れない朝だった。
和泉明凛は、鶴崎中学校の三年生になった。
校門をくぐると、春の風が頬を撫でた。校庭の桜は少しずつ花を落とし、地面には薄いピンク色の花びらが散っている。
今日から、新しいクラス。
仲のいい友達とは一緒になれるだろうか。
どんな人たちと、一年間を過ごすのだろう。
そんなことを考えながら、明凛は昇降口へ向かった。
クラス分けの紙の前には、たくさんの生徒が集まっていた。
「明凛、何組だった?」
後ろから友達に声をかけられ、明凛は掲示された名前を探した。
「あった。三組!」
「ほんと? 私も一緒!」
友達と同じクラスだとわかり、明凛はほっと息をついた。
教室に入ると、窓から春の光が差し込んでいた。
新しい席を確認して、自分の机を探す。
窓側から数えて、後ろから三番目。
明凛が椅子を引こうとしたとき、隣の席に男の子が座っていることに気づいた。
黒い髪に、落ち着いた表情。
机の上には、まだ何も置かれていない。
彼は明凛に気づくと、顔を上げた。
「……おはよう」
「あ、おはよう」
それだけの短い挨拶。
彼はまた前を向き、明凛も自分の席に座った。
そのときは、まだ知らなかった。
この隣の席が、これからの一年間で、少しずつ特別な場所になっていくことを。
始業式が終わり、教室では担任の先生の話が続いていた。
自己紹介の時間になると、ひとりずつ立ち上がって名前や部活動を話していく。
明凛の番が来た。
「和泉明凛です。美術部に入っています。よろしくお願いします」
少し緊張しながら頭を下げると、クラスメイトたちから拍手が起こった。
次は、隣の男の子だった。
彼は椅子から立ち上がり、教室を見渡した。
「神志那麗です。園芸部です。よろしくお願いします」
それだけ言うと、静かに座った。
神志那麗。
明凛は心の中で、その名前を繰り返した。
園芸部。
花を育てる部活だっただろうか。
そんなことを考えているうちに、自己紹介は終わった。
休み時間になると、教室は一気に賑やかになった。
友達同士で話す声。
新しいクラスのこと。
春休みの思い出。
明凛も友達と話していたが、ふと隣を見ると、麗は窓の外を眺めていた。
その視線の先には、校舎のそばにある花壇が見えた。
春の花が、風に揺れている。
麗は何かを確かめるように、しばらく花壇を見つめていた。
明凛は、なんとなく気になった。
けれど、声をかけることはできなかった。
放課後。
美術部の活動が始まると、明凛は美術室へ向かった。
窓際には画材が並び、机の上にはスケッチブックや鉛筆が置かれている。
明凛は自分の席に座り、スケッチブックを開いた。
今年はどんな絵を描こう。
花も描きたい。
空も描きたい。
春の景色を、できるだけたくさん残しておきたい。
そんなことを考えながら、窓の外へ目を向けた。
美術室の窓からは、校舎のそばにある花壇が見える。
そこに、見覚えのある姿があった。
神志那麗だった。
園芸部の活動をしているらしい。
しゃがみ込んで、花壇の土を確かめている。
少し離れたところには、じょうろが置かれていた。
麗は苗のそばに手を伸ばし、葉の様子をひとつずつ見ていた。
その動きは、教室で見たときよりもずっと自然だった。
明凛は、思わず手を止めた。
教室ではあまり話さない男の子。
でも、花壇の前にいる彼は、何かを大切にしているように見えた。
「明凛、手止まってるよ」
同じ美術部の同級生に声をかけられ、明凛は慌ててスケッチブックへ視線を戻した。
「あ、ごめん」
「何見てたの?」
「ううん、ちょっと花壇を」
「園芸部の人たち、今日も活動してるね」
「……うん」
明凛は、もう一度だけ窓の外を見た。
麗は、花壇の世話を続けていた。
明凛は鉛筆を動かし始めた。
けれど、さっき見た花壇の景色が、まだ頭から離れなかった。
それから何日かが過ぎた。
新しいクラスにも、少しずつ慣れてきた。
明凛は麗と隣の席で過ごすうちに、いくつかのことを知った。
麗は、授業中にあまり目立つことはない。
休み時間も、大勢で騒ぐより、静かに過ごしていることが多かった。
けれど、花の話になると少し違った。
ある日の昼休み。
明凛が窓の外の花壇を眺めていると、麗が隣から声をかけた。
「花、好きなの?」
「え?」
突然の質問に、明凛は振り返った。
「花壇、よく見てるから」
「あ……うん。絵を描くのが好きだから、花もよく描くよ」
「そうなんだ」
麗は窓の外を見た。
「園芸部で、いろいろ育ててるよ」
「そうなんだ。何を育ててるの?」
「チューリップとか。ほかにも、いろいろ」
明凛は少し身を乗り出した。
「チューリップ、好きだな。色がきれいで」
「赤もあるし、黄色もあるよ。ピンクや白も」
「そんなにあるんだ」
「うん。咲く時期も、少しずつ違うから」
麗は、窓の向こうの花壇を見つめた。
「花って、同じように見えても、毎日ちょっとずつ変わるんだよ」
明凛は、その言葉が気になった。
「毎日?」
「つぼみが大きくなったり、花びらが開いたり。昨日と今日で、全然違うこともある」
「へえ……」
「だから、写真を撮ってる」
「写真?」
麗は小さく頷いた。
「育てた花を、できるだけ残しておきたくて」
明凛は、思いがけない趣味に驚いた。
「神志那くん、写真も撮るんだ」
「うん。花だけだけど」
「見てみたいな」
口にしてから、明凛は少し恥ずかしくなった。
でも麗は、嫌そうな顔をしなかった。
「いいよ」
その短い返事が、明凛には少しだけ嬉しかった。
その日の放課後。
園芸部の活動が終わるころ、明凛は美術室の窓から花壇を眺めていた。
麗が、じょうろを片づけている。
明凛はスケッチブックを閉じ、少し迷ってから美術室を出た。
花壇の近くまで行くと、麗が気づいた。
「和泉さん?」
「お疲れさま」
「お疲れさま」
明凛は花壇を見渡した。
赤いチューリップ。
黄色い花。
ピンク色の小さな花。
白い花びらを広げた花もあった。
色とりどりの花が、春の風に揺れている。
「いろんな花があるんだね」
「うん。園芸部で育ててる」
「これも?」
明凛は、赤いチューリップを指さした。
「そう。これは、つぼみのときから育ててた」
「つぼみのときから?」
「うん」
麗は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「写真、見る?」
「いいの?」
「うん」
麗は画面を操作して、明凛に見せた。
最初に映っていたのは、土から小さく顔を出した芽だった。
次の写真には、少し伸びた葉。
その次には、固く閉じたつぼみ。
そして、赤い花びらが開き始めた写真。
最後には、花壇の中で、赤いチューリップが大きく咲いていた。
「すごい……」
明凛は、画面を覗き込んだ。
「こんなに変わるんだね」
「うん。毎日見てると、少しずつだけど」
麗は次の写真を見せた。
黄色い花。
ピンク色の花。
白い花。
紫色の花。
どれも、つぼみのときから、咲いたときまで撮られていた。
中には、花壇いっぱいに咲いた花を、少し離れたところから撮った写真もあった。
朝露がついた花びら。
雨に濡れて、少しうつむいた花。
風に揺れて、花びらが重なった瞬間。
同じ花でも、写真によって表情が違っていた。
「全部、神志那くんが撮ったの?」
「うん」
「すごいね。写真、上手」
「そんなことないよ」
麗は少し照れたように、画面を見た。
「でも、残しておきたいんだ」
「どうして?」
麗は少し考えてから答えた。
「花って、ずっと同じ姿じゃないから」
明凛は黙って聞いていた。
「咲いたと思ったら、いつか枯れるし。次の年には、また違う花が咲く」
麗は画面を指で送った。
「でも、写真があれば、そのときのことを思い出せるから」
「そのときのこと?」
「この花を育ててたとき、どんな天気だったとか。水をあげたとき、つぼみが少し開いてたとか」
麗は、ひとつの写真で指を止めた。
まだ小さな芽が、土の中から顔を出している。
「こういうのを見ると、ああ、ここから育ったんだなって思う」
明凛は、その写真をじっと見つめた。
花が咲いた瞬間だけではなく、咲くまでの時間も大切にしている。
麗は、そういう人なのかもしれない。
「……なんか、いいね」
「え?」
「花が咲いたところだけじゃなくて、咲くまでのことも残してるの」
麗は、少しだけ目を細めた。
「うん。そこも好きだから」
その言葉が、明凛の胸に静かに残った。
好きだから。
麗は、花を育てることが好きなのだ。
毎日様子を見て、水をあげて、写真を撮って。
咲くまでの時間も、咲いたあとの姿も、大切にしている。
明凛は、もう一度画面を見た。
「私も、絵で残したいな」
「絵?」
「うん。写真とは違うけど、描いてるときの気持ちも一緒に残る気がするから」
麗は明凛を見た。
「それ、いいね」
ほんの少しだけ、二人の間に沈黙が流れた。
けれど、その沈黙は気まずくなかった。
花壇の向こうで、春の風が吹いていた。
四月の終わりが近づいたころ。
花壇に、小さな青い花が咲いた。
美術室で絵を描いていた明凛は、窓の外にその花を見つけた。
淡い青色の花びら。
中心に向かって、白くなっている。
風に揺れるたび、小さく揺れていた。
「……あれ、なんの花だろう」
明凛がつぶやくと、隣の席にいた麗が窓の外を見た。
「ああ、ネモフィラ」
「ネモフィラ?」
「うん。咲いたんだ」
麗は、少し嬉しそうに言った。
「この前から、つぼみができてたんだよ」
「そうだったんだ」
明凛は窓の外を見つめた。
青い花は、春の空を小さく切り取ったようだった。
「きれいだね」
「うん」
麗は、花壇を見ながら言った。
「ネモフィラって、花言葉もあるんだよ」
「花言葉?」
「よく知られてるものだと、『可憐』とか」
「へえ……」
「ほかにも、いくつかあるよ」
麗はそう言って、少しだけ笑った。
「花って、見た目だけじゃなくて、そういう意味もあるから面白いんだ」
明凛は、ネモフィラを見つめたまま、ゆっくり頷いた。
花言葉。
花に、言葉がある。
直接言わなくても、花を渡すことで気持ちを伝えられることがある。
そんなことを考えると、花壇に咲く小さな青い花が、さっきよりも少し特別に見えた。
「神志那くんも、花言葉で花を選んだりするの?」
「うん。たまに」
「誰かにあげるとき?」
「そういうときもある」
麗は、ネモフィラへ視線を戻した。
「その花に合う言葉があったら、いいなって思うから」
明凛は、なぜだかそれ以上聞けなかった。
誰にあげるのだろう。
どんな気持ちを込めるのだろう。
気になったけれど、聞いてしまうのは少し違う気がした。
その日の放課後。
明凛は、いつもより少し早く美術室を出た。
花壇のそばには、麗がいた。
ネモフィラの周りを確かめながら、土に水をあげている。
明凛は、少し離れたところで立ち止まった。
「神志那くん」
麗が振り返った。
「和泉さん。どうしたの?」
「ネモフィラ、描いてもいい?」
「もちろん」
麗は、花壇の端を指さした。
「ここからだと、よく見えるよ」
「ありがとう」
明凛はスケッチブックを開いた。
鉛筆を持ち、青い花を見つめる。
花びらの形。
中心の白い部分。
細い茎。
風に揺れる様子。
ひとつずつ、目で追いながら描いていく。
けれど、何度か鉛筆を止めてしまった。
花を描こうとしているのに、視線が別のところへ向かってしまう。
ネモフィラの隣で、麗が花壇を整えていた。
土をならす手。
花を傷つけないように、そっと伸ばす指。
水をあげたあと、花の様子を確かめる横顔。
明凛は、思わずその姿を見つめた。
どうしてだろう。
花だけを描きたいはずなのに。
麗も一緒に描いてみたい。
そう思った。
でも、どうしてそんなことを思ったのか、自分でもよくわからなかった。
「和泉さん?」
声をかけられ、明凛ははっとした。
「あ、ごめん。何?」
「絵、描けた?」
「まだ……」
明凛はスケッチブックを見下ろした。
そこには、ネモフィラの花がいくつか描かれていた。
けれど、まだ完成には遠かった。
「ねえ、神志那くん」
「うん?」
「……ちょっと、お願いしてもいい?」
「なに?」
明凛は、少し迷った。
こんなことを頼んで、変に思われないだろうか。
けれど、口にしてみたかった。
「神志那くんも、一緒に描いてみたい」
「僕を?」
「うん。ネモフィラと一緒に」
麗は少し驚いたように目を開いた。
明凛は慌てて言葉を足した。
「花壇の世話をしてるところが、なんか……絵になるなって思って」
麗は、しばらく黙っていた。
明凛は、スケッチブックをぎゅっと握った。
断られても仕方ない。
そう思っていたとき、麗が小さく頷いた。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん。どうすればいい?」
明凛は、ほっと息をついた。
「そこに座ってくれる? ネモフィラが見えるところ」
「わかった」
麗は花壇のそばに腰を下ろした。
青いネモフィラが、すぐ隣で揺れている。
明凛はスケッチブックを構えた。
鉛筆を動かす。
麗の髪。
制服の襟。
花壇のそばに座る姿。
そして、隣に咲くネモフィラ。
描いているうちに、明凛は少しずつ夢中になっていった。
花だけを描いているときとは違う。
麗の姿を描くたびに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
それでも、鉛筆を止めたくなかった。
今、この瞬間を残しておきたかった。
麗がここにいて、ネモフィラが咲いていて、春の風が吹いている。
この景色を、忘れたくないと思った。
「……できた」
明凛は、鉛筆を置いた。
スケッチブックの中には、ネモフィラと、そのそばに座る麗が描かれていた。
麗は立ち上がり、明凛の隣に来た。
「見てもいい?」
「うん」
明凛は、少し恥ずかしくなりながらスケッチブックを見せた。
麗は、しばらく絵を見つめていた。
「……すごい」
「え?」
「僕、こんなふうに見えてるんだ」
明凛は、少しだけ笑った。
「変だった?」
「ううん」
麗は首を横に振った。
「きれいだね」
その言葉に、明凛の頬が少し熱くなった。
「ありがとう」
「描いてくれて、ありがとう」
麗は、もう一度絵を見た。
「なんか、嬉しい」
明凛は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
その返事を聞いて、明凛の胸の奥が、ふわりと温かくなった。
絵を褒めてもらえたからだろうか。
それとも、麗が嬉しいと言ってくれたからだろうか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ、もう一度描いてみたいと思った。
今度は、ネモフィラだけではなく。
花壇の前にいる麗を。
花に水をあげている麗を。
何かを大切にしているときの、あの横顔を。
もっと、描いてみたい。
明凛は、スケッチブックをそっと閉じた。
帰り支度をしていると、麗がスマートフォンを取り出した。
「そうだ」
「ん?」
「今日のネモフィラ、写真撮っておこう」
麗は花壇のほうへ向き直った。
青い花が、夕方の光の中で揺れている。
麗は少ししゃがみ、花の高さに合わせてスマートフォンを構えた。
画面の中に、ネモフィラが映る。
その向こうには、明凛が描いたスケッチブックがあった。
麗は一度、明凛のほうを見た。
「和泉さん」
「なに?」
「今日のことも、覚えておきたいから」
明凛は、少しだけ目を丸くした。
「今日のこと?」
「うん。ネモフィラが咲いた日」
麗は、花へ視線を戻した。
「それに、絵を描いてもらった日」
明凛は、何も言えなかった。
麗は写真を撮った。
小さな音が、夕方の花壇に響いた。
その一枚の中に、春の花と、今日という日が残された。
花が咲いたこと。
二人で話したこと。
明凛が麗を描いたこと。
いつか、この花が枯れてしまっても。
写真を見れば、今日のことを思い出せる。
麗は、そう思っていた。
明凛もまた、スケッチブックを胸に抱えながら、花壇を見つめていた。
青いネモフィラ。
春の風。
隣にいる、神志那麗。
まだ、恋という言葉を知らないわけではなかった。
けれど、自分の胸に芽生え始めた気持ちが、それなのかどうかは、わからなかった。
ただ、明日もまた、この花壇を見に来たいと思った。
麗がいる場所へ。
ネモフィラが咲く場所へ。
明凛は、そっとスケッチブックを抱きしめた。
春は、まだ始まったばかりだった。
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