春の月明かり
春風と、隣の席
5月になった。
校庭の桜はすっかり緑の葉に変わり、春の風には、少しだけ初夏の匂いが混じるようになっていた。
和泉明凛は、朝の教室でスケッチブックを開いていた。
ページをめくると、四月の終わりに描いた絵が目に入る。
青いネモフィラ。
そのそばに座る、神志那麗。
花壇の前で、少しだけこちらを向いている姿。
明凛は、その絵を見つめた。
描いたときのことを思い出す。
麗が、絵を見て「きれいだね」と言ってくれたこと。
そして、嬉しいと言ってくれたこと。
思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「明凛、何見てるの?」
友達の声に、明凛は慌ててスケッチブックを閉じた。
「えっ、なんでもないよ」
「なんでもないって顔じゃないけど」
「ほんとに、なんでもないって」
明凛は笑ってごまかした。
友達は少し不思議そうにしたけれど、それ以上は聞かなかった。
明凛は、そっと隣の席を見た。
麗はまだ来ていない。
いつもなら、もう少ししたら教室に入ってくるはずだった。
今日も、花壇の様子を見てから来るのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、明凛は小さく首を振った。
どうして、こんなに気になるんだろう。
ただのクラスメイトなのに。
隣の席の男の子なのに。
そう思いながら、明凛はもう一度スケッチブックを開いた。
けれど、さっきまで見ていた絵のことが、頭から離れなかった。
しばらくして、教室の扉が開いた。
「おはよう」
聞き覚えのある声。
麗だった。
「おはよう、神志那くん」
明凛が挨拶すると、麗は自分の席に鞄を置いた。
「今日、早いね」
「うん。ちょっと花壇を見てきた」
「ネモフィラ?」
「うん。まだ咲いてるよ」
その言葉に、明凛は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん。少しずつ花は減ってきたけど」
「そっか……」
なんとなく、少し寂しい気持ちになった。
あの日、二人で見たネモフィラ。
ずっと咲いているわけではないと、わかっていたはずなのに。
麗は、明凛の表情を見て言った。
「でも、まだ見られるよ」
「うん。今日、見に行こうかな」
「放課後?」
「うん」
「じゃあ、僕もいると思う」
明凛は、思わず笑顔になった。
「ほんと?」
「うん」
たったそれだけの約束だった。
けれど、その日が少し楽しみになった。
朝のホームルームが始まると、担任の先生が教室の前に立った。
「みんな、五月に入ったな。そろそろ体育祭の練習も始まるぞ」
その言葉に、教室がざわついた。
「今年は三年生だからな。最後の体育祭になる。クラスで協力して、いい思い出にしよう」
明凛は、友達と顔を見合わせた。
「体育祭、楽しみだね」
「うん。何に出るんだろう」
先生が競技の説明を始める。
リレーや団体競技、応援のこと。
クラスで決めることも、たくさんあるらしい。
「それから、練習が始まったら、体調管理にも気をつけるように」
先生はそう言って、出席簿を閉じた。
ホームルームが終わると、教室は体育祭の話題でいっぱいになった。
明凛も友達と話しながら、ふと隣を見た。
麗は、机の上のプリントを見ていた。
「神志那くんは、体育祭好き?」
明凛が尋ねると、麗は顔を上げた。
「普通かな」
「普通?」
「走るのは、あんまり得意じゃないから」
「そうなんだ」
「和泉さんは?」
「私は……絵を描くほうが好きかな」
「美術部だもんね」
「うん。でも、体育祭も楽しみだよ」
麗は、少しだけ笑った。
「そっか」
その笑顔を見て、明凛は思った。
神志那くんって、笑うとこんな顔をするんだ。
教室で静かにしているときとは、少し違う。
ほんの少しだけ、柔らかい表情。
明凛は、なぜか目をそらしてしまった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
また、そう答えてしまった。
授業が始まると、教室はいつもの静けさに戻った。
黒板に書かれる文字。
先生の声。
ノートを取る音。
明凛は、教科書を開きながら、隣の麗をちらりと見た。
麗は真剣に先生の話を聞いていた。
時々、ノートに何かを書き込んでいる。
その横顔を見ていると、ふと、花壇で見た姿が重なった。
花を傷つけないように、そっと手を伸ばしていた姿。
あのときも、こんなふうに真剣な顔をしていた。
明凛は、慌てて黒板に視線を戻した。
今は授業中。
集中しないと。
そう思っているのに、気づけばまた、隣が気になってしまう。
そのとき、先生が問題を出した。
「じゃあ、この問題。和泉、答えてみようか」
「えっ?」
明凛は、はっと顔を上げた。
教室の視線が集まる。
黒板を見ると、問題が書かれていた。
慌てて教科書を確認する。
どこだろう。
さっき、ちゃんと聞いていたはずなのに。
焦ってページをめくっていると、隣から小さな声がした。
「次のページ」
麗だった。
明凛は、そっと教科書をめくった。
該当するページが開く。
問題の答えも、そこに載っていた。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言ってから、明凛は答えた。
先生が頷き、授業が続く。
明凛は、少しだけ肩の力を抜いた。
隣を見ると、麗はもう前を向いていた。
明凛は、机の下でそっと手を握った。
助けてくれた。
たったそれだけのことなのに。
嬉しいと思ってしまった。
昼休み。
明凛は友達とお弁当を食べていた。
今日のおかずは、卵焼きと唐揚げ、それから小さなブロッコリー。
友達が体育祭の話をしている。
「リレー、誰が走るんだろうね」
「足が速い人がいいよね」
「明凛は?」
「私は、走るのは普通かな」
「じゃあ、応援係?」
「どうだろう」
笑いながら話していると、友達がふと思い出したように言った。
「そういえば、明凛って最近、神志那くんとよく話してない?」
「えっ?」
明凛は、箸を止めた。
「そうかな?」
「うん。席が隣だから?」
「たぶん、そうだと思う」
「神志那くんって、園芸部だよね」
「うん」
「花、好きなんだって?」
明凛は頷いた。
「花の写真を撮ってるんだって。前に見せてもらったよ」
「へえ、いいね」
「うん。すごくきれいだった」
言いながら、明凛はネモフィラの写真を思い出した。
麗が撮った、花壇の写真。
芽が出たところから、花が咲くまで。
あの写真を見せてもらったとき、麗のことを少しだけ知れた気がした。
「明凛?」
「え?」
「なんか、嬉しそう」
「そ、そう?」
「うん」
友達は笑った。
「神志那くんと仲良くなれてよかったね」
「……うん」
明凛は、少しだけ頬が熱くなった。
仲良くなれた。
そう言われると、確かにそうかもしれない。
でも、それだけなのだろうか。
自分でも、まだよくわからなかった。
午後の授業が終わると、教室は帰り支度をする生徒たちの声で賑やかになった。
明凛は、美術部の活動に行く前に、麗のほうを見た。
「神志那くん」
「ん?」
「今日、ネモフィラ見に行くって言ってたよね」
「うん」
「私も行っていい?」
「もちろん」
麗は、すぐに答えた。
その返事が嬉しくて、明凛は笑った。
「じゃあ、美術部が終わったら行くね」
「わかった」
「待たせたらごめんね」
「大丈夫。僕も園芸部の片づけがあるから」
「うん」
明凛は鞄を持ち、美術室へ向かった。
美術室では、同じ美術部の同級生たちが、すでに活動を始めていた。
窓際の机には、花の写真や風景のスケッチが並んでいる。
「明凛、今日は何描くの?」
同級生に尋ねられ、明凛はスケッチブックを開いた。
「花を描こうかな」
「花壇の?」
「うん。ネモフィラ」
「ああ、あの青い花?」
「そう」
明凛は鉛筆を手に取った。
けれど、何を描こうか考えているうちに、また麗のことが頭に浮かんだ。
今日は、どんな話をしよう。
ネモフィラは、まだ咲いているだろうか。
花壇のほかの花も、見せてもらえるかな。
そんなことを考えていると、同級生が明凛の顔を覗き込んだ。
「明凛、今日もぼーっとしてる」
「えっ、そんなことないよ」
「ほんと?」
「ほんとだって」
明凛は慌てて鉛筆を動かした。
青い花びら。
細い茎。
葉の形。
少しずつ描き進めていく。
けれど、頭の中には、花壇の前で笑う麗の顔が浮かんでいた。
美術部の活動が終わるころには、窓の外が少しずつ夕方の色に変わっていた。
明凛はスケッチブックを鞄にしまい、急いで花壇へ向かった。
校舎のそばにある花壇には、麗がいた。
じょうろを片づけているところだった。
「神志那くん!」
明凛が声をかけると、麗は振り返った。
「和泉さん。お疲れさま」
「お疲れさま。待った?」
「ううん。今、終わったところ」
「よかった」
明凛は、ほっと息をついた。
麗は花壇のほうを向いた。
「ネモフィラ、こっちだよ」
明凛は、その隣に並んだ。
青い花が、風に揺れていた。
四月の終わりに見たときより、少し花が少なくなっている。
それでも、まだいくつもの花が咲いていた。
「ほんとだ。まだ咲いてる」
「うん」
「かわいいね」
「そうだね」
明凛はしゃがみ込み、花を近くから眺めた。
花びらは薄く、光を通すように淡い青色をしていた。
中心に向かって白くなり、細い茎が風に揺れている。
明凛は、スケッチブックを取り出した。
「少しだけ描いてもいい?」
「もちろん」
麗は、花壇のそばに立ったまま、明凛の様子を見ていた。
明凛は鉛筆を動かした。
花びらの形を描き、葉を描き、茎を描く。
風が吹くたびに、花が揺れる。
そのたび、明凛は手を止めて、もう一度花を見つめた。
「難しいね」
「何が?」
「風で揺れるから、形が変わっちゃう」
麗は、花を見た。
「たしかに」
「写真なら、一瞬を残せるけど、絵だと、どの瞬間を描こうか迷うね」
「和泉さんは、どの瞬間を描きたい?」
明凛は少し考えた。
「……今かな」
「今?」
「うん。風が吹いて、花が揺れてる今」
麗は、明凛のスケッチブックを見た。
「じゃあ、今の花を描けばいいんじゃない?」
「そうだね」
明凛は笑った。
鉛筆を持ち直し、もう一度描き始める。
風に揺れるネモフィラ。
花びらが少し傾いた瞬間。
葉が重なった形。
そのときの景色を、できるだけ丁寧に描いていった。
しばらくして、明凛は鉛筆を止めた。
「できた」
スケッチブックには、ネモフィラが描かれていた。
まだ簡単なスケッチだったけれど、風に揺れる様子が少しだけ伝わるような気がした。
「見てみる?」
明凛が尋ねると、麗は頷いた。
「うん」
明凛は、スケッチブックを見せた。
麗は、絵をじっと見つめた。
「……いいね」
「ほんと?」
「うん。風が吹いてる感じがする」
明凛は嬉しくなった。
「よかった」
「和泉さんの絵って、見てると、そのときの景色が浮かぶね」
その言葉に、明凛は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん」
麗は、もう一度絵を見た。
「前に描いてくれた絵も、そうだった」
明凛の心臓が、少しだけ跳ねた。
「……ネモフィラと、神志那くんの絵?」
「うん」
「覚えてるんだ」
「もちろん」
麗は、当たり前のように言った。
明凛は、スケッチブックを胸に抱えた。
自分が描いた絵を、覚えていてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
麗は、花壇の向こうを見た。
「ほかの花も見ていく?」
「いいの?」
「うん。チューリップは、もう終わりに近いけど」
「見たい!」
明凛は、思わず声を弾ませた。
麗は少し笑って、花壇の端へ歩き出した。
明凛も、その後を追った。
そこには、赤や黄色のチューリップが並んでいた。
花びらが少し開きすぎているものもあれば、まだ形を保っているものもある。
緑の葉の間に、色とりどりの花が咲いていた。
「この赤いチューリップ、前に写真を見せてくれたやつ?」
「そう。これも、つぼみから育ててた」
「今は、こんなに咲いてるんだね」
「うん。もう少ししたら、花が終わると思う」
明凛は、赤い花びらを見つめた。
「ちょっと寂しいね」
「そうだね」
麗は、花の様子を確かめるように、そっと近づいた。
「でも、また来年も咲くから」
「そっか」
「球根を残しておけば、また育てられるし」
明凛は、その言葉を聞いて、少し安心した。
花が終わっても、全部がなくなるわけではない。
また、次の春に咲く。
そう考えると、少しだけ寂しさが和らいだ。
「神志那くんって、花のこと、いっぱい知ってるんだね」
「園芸部だからね」
「それだけじゃない気がする」
「そう?」
「うん。すごく大切にしてる感じがする」
麗は、少し考えるように黙った。
それから、ゆっくり口を開いた。
「花って、ちゃんと世話をしないと、元気がなくなるから」
「うん」
「でも、毎日見てると、少しずつ変化がわかるんだよ」
麗は、葉に触れないように手を近づけた。
「昨日より葉が伸びてたり、つぼみが大きくなってたり。そういうのがわかると、嬉しい」
明凛は、麗の横顔を見た。
「……神志那くんらしいね」
「僕らしい?」
「うん」
「どういう意味?」
「なんとなく」
明凛は笑った。
麗も、少しだけ笑った。
花壇を見終わるころには、空が夕焼け色に染まり始めていた。
校舎の窓に、オレンジ色の光が映っている。
明凛はスケッチブックを閉じた。
「今日はありがとう」
「ううん」
「いろんな花が見られて、楽しかった」
「よかった」
麗はスマートフォンを取り出した。
「写真、撮っておこうかな」
「ネモフィラ?」
「うん。今日の分も」
麗は花壇に向き直り、スマートフォンを構えた。
画面の中に、青い花が映る。
夕方の光を受けた花びらは、昼間とは少し違う色に見えた。
麗は角度を変えながら、何枚か写真を撮った。
明凛は、その様子を隣で見ていた。
「神志那くん」
「ん?」
「写真って、撮るとき、何を考えてるの?」
麗は、スマートフォンを下ろした。
「何を考えてるか……」
少し考えてから、答えた。
「そのときの花を、ちゃんと残したいなって」
「ちゃんと?」
「うん。今日の花は、今日しか見られないから」
明凛は、夕方のネモフィラを見つめた。
今日しか見られない花。
同じ花でも、明日になれば、少し違う姿になっているかもしれない。
「私も、そういう絵を描きたいな」
「和泉さんの絵なら、できると思うよ」
「……ほんと?」
「うん」
麗は、穏やかな声で言った。
「前に描いてくれた絵、嬉しかったから」
明凛は、何も言えなくなった。
また、胸が温かくなる。
麗は、スマートフォンをしまった。
「帰ろうか」
「うん」
校門を出ると、夕方の風が二人の間を通り抜けた。
道路の向こうには、住宅が並んでいる。
遠くから、自転車のベルが聞こえた。
明凛と麗は、同じ方向へ歩き始めた。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
けれど、明凛は不思議と気まずくなかった。
隣を歩く麗の足音が聞こえる。
制服の袖が、風に揺れている。
いつもは教室で隣に座っているだけなのに、こうして並んで歩くと、少し違って見えた。
「神志那くん」
「うん?」
「園芸部って、毎日活動してるの?」
「毎日じゃないけど、花壇はよく見に来るよ」
「そうなんだ」
「水をあげたり、花の様子を見たり」
「大変じゃない?」
「慣れたから、そんなに」
麗は少しだけ空を見上げた。
「花が咲くと、やっぱり嬉しいし」
「そっか」
明凛は、少し考えてから言った。
「私も、美術部で絵を描いてるとき、完成したら嬉しいよ」
「うん」
「でも、描いてる途中も好きなんだ」
「途中?」
「うん。最初は何を描きたいのか、はっきりしてなくても、少しずつ形になっていくから」
麗は、明凛のほうを見た。
「花を育てるのと、似てるかもね」
「そうかな?」
「少しずつ変わっていくところとか」
明凛は、嬉しくなって笑った。
「そうかもしれないね」
また、二人の間に静かな時間が流れた。
分かれ道に着くと、麗が足を止めた。
「僕、こっちだから」
「あ、うん」
明凛も立ち止まった。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「また、花壇見に行ってもいい?」
「もちろん」
麗は、いつもの落ち着いた声で答えた。
「いつでも来ていいよ」
明凛は笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
麗が歩き出す。
明凛は、その背中を少しだけ見送った。
それから、自分も家へ向かって歩き始めた。
胸の奥が、まだ温かかった。
今日、麗と話したこと。
一緒にネモフィラを見たこと。
絵を褒めてもらったこと。
そのひとつひとつが、心の中に残っていた。
家に帰ると、明凛は自分の部屋へ向かった。
鞄を置き、制服を着替える。
机の上には、スケッチブックが置かれていた。
明凛は椅子に座り、今日描いたネモフィラの絵を開いた。
夕方の光。
風に揺れる花。
青い花びら。
その横に、小さく日付を書き込んだ。
五月。
今日の日付。
明凛は、絵を見つめた。
そのページには、麗の姿は描かれていない。
それなのに、今日のことを思い出すと、自然と麗の顔が浮かんでくる。
花を見ていた横顔。
写真を撮るときの真剣な表情。
絵を褒めてくれた声。
明凛は、鉛筆を持ち直した。
ページの隅に、小さく文字を書いた。
『神志那くんと、ネモフィラを見た日』
書き終えた瞬間、少し恥ずかしくなった。
誰かに見られるわけでもないのに。
明凛は、慌ててスケッチブックを閉じた。
それから、机の上にそっと置いた。
翌朝。
明凛が教室に入ると、麗はすでに席に座っていた。
「おはよう、神志那くん」
「おはよう」
いつもと同じ挨拶。
いつもと同じ隣の席。
けれど、明凛の心は昨日とは少し違っていた。
「昨日、ありがとうね」
明凛が言うと、麗は顔を上げた。
「花壇のこと?」
「うん。すごく楽しかった」
「よかった」
麗は、少しだけ笑った。
「また見に来ていいからね」
「うん!」
明凛は、自分でも驚くほど明るい声で返事をした。
その声に、近くにいたクラスメイトが振り返った。
「明凛、朝から元気だね」
「えっ、そう?」
「うん」
明凛は、少し照れながら笑った。
麗は何も言わず、机の上の教科書を開いた。
でも、明凛にはわかった。
麗も、ほんの少しだけ笑っていた。
それから、二人は少しずつ話すようになった。
朝、教室で会ったとき。
授業の合間の休み時間。
昼休み。
そして、放課後。
話す内容は、特別なことばかりではなかった。
授業のこと。
宿題のこと。
体育祭のこと。
花壇に咲いた花のこと。
明凛が描いた絵のこと。
麗が撮った写真のこと。
ほんの短い会話でも、明凛には嬉しかった。
麗も、少しずつ明凛に話しかけるようになった。
「和泉さん、今日の美術部は何を描くの?」
「今日は風景画かな」
「どんな風景?」
「まだ決めてないよ」
「そっか」
そんな何気ない会話。
それでも、明凛はその時間が好きだった。
ある日の放課後。
明凛が美術室から出ると、花壇のそばに麗がいた。
今日は、ネモフィラの近くに小さな苗を植えているところだった。
「神志那くん、何してるの?」
「新しい苗を植えてる」
「何の花?」
「まだ内緒」
「えー、気になる」
明凛が少し頬を膨らませると、麗は笑った。
「咲いたら教えるよ」
「ほんと?」
「うん」
「約束ね」
「約束」
明凛は、その言葉を聞いて笑った。
麗は土をならし、苗の周りを整えた。
明凛は、その様子を見つめた。
花を育てる麗。
絵を描く明凛。
好きなことは違うけれど、こうして同じ場所にいると、自然と心が落ち着いた。
明凛はスケッチブックを開いた。
「ねえ、神志那くん」
「うん?」
「今日も、描いていい?」
「僕を?」
「うん。今度は、花を植えてるところ」
麗は少し驚いたあと、頷いた。
「いいよ」
「ありがとう」
明凛は、鉛筆を構えた。
麗が土をならす手。
苗を植える姿。
その隣に咲く、青いネモフィラ。
明凛は、ゆっくりと鉛筆を動かし始めた。
描きながら、思った。
もっと、いろんな麗を描いてみたい。
花を育てているとき。
写真を撮っているとき。
教室で笑っているとき。
そして、いつか。
自分の知らない表情も。
もっと、知りたい。
その気持ちが、何なのか。
明凛には、まだはっきりとはわからなかった。
夕方。
麗は、植え終わった苗を見つめていた。
明凛は、描き終えたスケッチブックを閉じた。
「できたよ」
「見てもいい?」
「うん」
麗は、絵を覗き込んだ。
しばらく見つめてから、言った。
「……やっぱり、和泉さんの絵、好きだな」
明凛は、思わず顔を上げた。
「え?」
「見てると、今日のことを覚えていられそうだから」
その言葉に、明凛の胸がぎゅっとなった。
自分が描いた絵を、そんなふうに思ってくれる。
それが、嬉しかった。
「……ありがとう」
明凛は、小さく答えた。
麗は、スケッチブックを返した。
「また描いてね」
「うん」
明凛は、頷いた。
その約束が、心の中にそっと残った。
五月の風が、花壇を吹き抜けた。
ネモフィラの花びらが、小さく揺れる。
春の終わりが近づいている。
けれど、二人の毎日は、まだ始まったばかりだった。
明凛は、隣を歩く麗を見た。
麗は、花壇のほうを振り返っていた。
その横顔を見て、明凛は思った。
明日も、話せるかな。
また、花を見せてもらえるかな。
また、絵を描かせてもらえるかな。
そんな小さな楽しみが、少しずつ増えていく。
それは、まだ恋と呼ぶには淡くて、名前のない気持ちだった。
けれど、明凛の心の中では、確かに何かが芽生え始めていた。
春風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
校庭の桜はすっかり緑の葉に変わり、春の風には、少しだけ初夏の匂いが混じるようになっていた。
和泉明凛は、朝の教室でスケッチブックを開いていた。
ページをめくると、四月の終わりに描いた絵が目に入る。
青いネモフィラ。
そのそばに座る、神志那麗。
花壇の前で、少しだけこちらを向いている姿。
明凛は、その絵を見つめた。
描いたときのことを思い出す。
麗が、絵を見て「きれいだね」と言ってくれたこと。
そして、嬉しいと言ってくれたこと。
思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「明凛、何見てるの?」
友達の声に、明凛は慌ててスケッチブックを閉じた。
「えっ、なんでもないよ」
「なんでもないって顔じゃないけど」
「ほんとに、なんでもないって」
明凛は笑ってごまかした。
友達は少し不思議そうにしたけれど、それ以上は聞かなかった。
明凛は、そっと隣の席を見た。
麗はまだ来ていない。
いつもなら、もう少ししたら教室に入ってくるはずだった。
今日も、花壇の様子を見てから来るのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、明凛は小さく首を振った。
どうして、こんなに気になるんだろう。
ただのクラスメイトなのに。
隣の席の男の子なのに。
そう思いながら、明凛はもう一度スケッチブックを開いた。
けれど、さっきまで見ていた絵のことが、頭から離れなかった。
しばらくして、教室の扉が開いた。
「おはよう」
聞き覚えのある声。
麗だった。
「おはよう、神志那くん」
明凛が挨拶すると、麗は自分の席に鞄を置いた。
「今日、早いね」
「うん。ちょっと花壇を見てきた」
「ネモフィラ?」
「うん。まだ咲いてるよ」
その言葉に、明凛は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん。少しずつ花は減ってきたけど」
「そっか……」
なんとなく、少し寂しい気持ちになった。
あの日、二人で見たネモフィラ。
ずっと咲いているわけではないと、わかっていたはずなのに。
麗は、明凛の表情を見て言った。
「でも、まだ見られるよ」
「うん。今日、見に行こうかな」
「放課後?」
「うん」
「じゃあ、僕もいると思う」
明凛は、思わず笑顔になった。
「ほんと?」
「うん」
たったそれだけの約束だった。
けれど、その日が少し楽しみになった。
朝のホームルームが始まると、担任の先生が教室の前に立った。
「みんな、五月に入ったな。そろそろ体育祭の練習も始まるぞ」
その言葉に、教室がざわついた。
「今年は三年生だからな。最後の体育祭になる。クラスで協力して、いい思い出にしよう」
明凛は、友達と顔を見合わせた。
「体育祭、楽しみだね」
「うん。何に出るんだろう」
先生が競技の説明を始める。
リレーや団体競技、応援のこと。
クラスで決めることも、たくさんあるらしい。
「それから、練習が始まったら、体調管理にも気をつけるように」
先生はそう言って、出席簿を閉じた。
ホームルームが終わると、教室は体育祭の話題でいっぱいになった。
明凛も友達と話しながら、ふと隣を見た。
麗は、机の上のプリントを見ていた。
「神志那くんは、体育祭好き?」
明凛が尋ねると、麗は顔を上げた。
「普通かな」
「普通?」
「走るのは、あんまり得意じゃないから」
「そうなんだ」
「和泉さんは?」
「私は……絵を描くほうが好きかな」
「美術部だもんね」
「うん。でも、体育祭も楽しみだよ」
麗は、少しだけ笑った。
「そっか」
その笑顔を見て、明凛は思った。
神志那くんって、笑うとこんな顔をするんだ。
教室で静かにしているときとは、少し違う。
ほんの少しだけ、柔らかい表情。
明凛は、なぜか目をそらしてしまった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
また、そう答えてしまった。
授業が始まると、教室はいつもの静けさに戻った。
黒板に書かれる文字。
先生の声。
ノートを取る音。
明凛は、教科書を開きながら、隣の麗をちらりと見た。
麗は真剣に先生の話を聞いていた。
時々、ノートに何かを書き込んでいる。
その横顔を見ていると、ふと、花壇で見た姿が重なった。
花を傷つけないように、そっと手を伸ばしていた姿。
あのときも、こんなふうに真剣な顔をしていた。
明凛は、慌てて黒板に視線を戻した。
今は授業中。
集中しないと。
そう思っているのに、気づけばまた、隣が気になってしまう。
そのとき、先生が問題を出した。
「じゃあ、この問題。和泉、答えてみようか」
「えっ?」
明凛は、はっと顔を上げた。
教室の視線が集まる。
黒板を見ると、問題が書かれていた。
慌てて教科書を確認する。
どこだろう。
さっき、ちゃんと聞いていたはずなのに。
焦ってページをめくっていると、隣から小さな声がした。
「次のページ」
麗だった。
明凛は、そっと教科書をめくった。
該当するページが開く。
問題の答えも、そこに載っていた。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言ってから、明凛は答えた。
先生が頷き、授業が続く。
明凛は、少しだけ肩の力を抜いた。
隣を見ると、麗はもう前を向いていた。
明凛は、机の下でそっと手を握った。
助けてくれた。
たったそれだけのことなのに。
嬉しいと思ってしまった。
昼休み。
明凛は友達とお弁当を食べていた。
今日のおかずは、卵焼きと唐揚げ、それから小さなブロッコリー。
友達が体育祭の話をしている。
「リレー、誰が走るんだろうね」
「足が速い人がいいよね」
「明凛は?」
「私は、走るのは普通かな」
「じゃあ、応援係?」
「どうだろう」
笑いながら話していると、友達がふと思い出したように言った。
「そういえば、明凛って最近、神志那くんとよく話してない?」
「えっ?」
明凛は、箸を止めた。
「そうかな?」
「うん。席が隣だから?」
「たぶん、そうだと思う」
「神志那くんって、園芸部だよね」
「うん」
「花、好きなんだって?」
明凛は頷いた。
「花の写真を撮ってるんだって。前に見せてもらったよ」
「へえ、いいね」
「うん。すごくきれいだった」
言いながら、明凛はネモフィラの写真を思い出した。
麗が撮った、花壇の写真。
芽が出たところから、花が咲くまで。
あの写真を見せてもらったとき、麗のことを少しだけ知れた気がした。
「明凛?」
「え?」
「なんか、嬉しそう」
「そ、そう?」
「うん」
友達は笑った。
「神志那くんと仲良くなれてよかったね」
「……うん」
明凛は、少しだけ頬が熱くなった。
仲良くなれた。
そう言われると、確かにそうかもしれない。
でも、それだけなのだろうか。
自分でも、まだよくわからなかった。
午後の授業が終わると、教室は帰り支度をする生徒たちの声で賑やかになった。
明凛は、美術部の活動に行く前に、麗のほうを見た。
「神志那くん」
「ん?」
「今日、ネモフィラ見に行くって言ってたよね」
「うん」
「私も行っていい?」
「もちろん」
麗は、すぐに答えた。
その返事が嬉しくて、明凛は笑った。
「じゃあ、美術部が終わったら行くね」
「わかった」
「待たせたらごめんね」
「大丈夫。僕も園芸部の片づけがあるから」
「うん」
明凛は鞄を持ち、美術室へ向かった。
美術室では、同じ美術部の同級生たちが、すでに活動を始めていた。
窓際の机には、花の写真や風景のスケッチが並んでいる。
「明凛、今日は何描くの?」
同級生に尋ねられ、明凛はスケッチブックを開いた。
「花を描こうかな」
「花壇の?」
「うん。ネモフィラ」
「ああ、あの青い花?」
「そう」
明凛は鉛筆を手に取った。
けれど、何を描こうか考えているうちに、また麗のことが頭に浮かんだ。
今日は、どんな話をしよう。
ネモフィラは、まだ咲いているだろうか。
花壇のほかの花も、見せてもらえるかな。
そんなことを考えていると、同級生が明凛の顔を覗き込んだ。
「明凛、今日もぼーっとしてる」
「えっ、そんなことないよ」
「ほんと?」
「ほんとだって」
明凛は慌てて鉛筆を動かした。
青い花びら。
細い茎。
葉の形。
少しずつ描き進めていく。
けれど、頭の中には、花壇の前で笑う麗の顔が浮かんでいた。
美術部の活動が終わるころには、窓の外が少しずつ夕方の色に変わっていた。
明凛はスケッチブックを鞄にしまい、急いで花壇へ向かった。
校舎のそばにある花壇には、麗がいた。
じょうろを片づけているところだった。
「神志那くん!」
明凛が声をかけると、麗は振り返った。
「和泉さん。お疲れさま」
「お疲れさま。待った?」
「ううん。今、終わったところ」
「よかった」
明凛は、ほっと息をついた。
麗は花壇のほうを向いた。
「ネモフィラ、こっちだよ」
明凛は、その隣に並んだ。
青い花が、風に揺れていた。
四月の終わりに見たときより、少し花が少なくなっている。
それでも、まだいくつもの花が咲いていた。
「ほんとだ。まだ咲いてる」
「うん」
「かわいいね」
「そうだね」
明凛はしゃがみ込み、花を近くから眺めた。
花びらは薄く、光を通すように淡い青色をしていた。
中心に向かって白くなり、細い茎が風に揺れている。
明凛は、スケッチブックを取り出した。
「少しだけ描いてもいい?」
「もちろん」
麗は、花壇のそばに立ったまま、明凛の様子を見ていた。
明凛は鉛筆を動かした。
花びらの形を描き、葉を描き、茎を描く。
風が吹くたびに、花が揺れる。
そのたび、明凛は手を止めて、もう一度花を見つめた。
「難しいね」
「何が?」
「風で揺れるから、形が変わっちゃう」
麗は、花を見た。
「たしかに」
「写真なら、一瞬を残せるけど、絵だと、どの瞬間を描こうか迷うね」
「和泉さんは、どの瞬間を描きたい?」
明凛は少し考えた。
「……今かな」
「今?」
「うん。風が吹いて、花が揺れてる今」
麗は、明凛のスケッチブックを見た。
「じゃあ、今の花を描けばいいんじゃない?」
「そうだね」
明凛は笑った。
鉛筆を持ち直し、もう一度描き始める。
風に揺れるネモフィラ。
花びらが少し傾いた瞬間。
葉が重なった形。
そのときの景色を、できるだけ丁寧に描いていった。
しばらくして、明凛は鉛筆を止めた。
「できた」
スケッチブックには、ネモフィラが描かれていた。
まだ簡単なスケッチだったけれど、風に揺れる様子が少しだけ伝わるような気がした。
「見てみる?」
明凛が尋ねると、麗は頷いた。
「うん」
明凛は、スケッチブックを見せた。
麗は、絵をじっと見つめた。
「……いいね」
「ほんと?」
「うん。風が吹いてる感じがする」
明凛は嬉しくなった。
「よかった」
「和泉さんの絵って、見てると、そのときの景色が浮かぶね」
その言葉に、明凛は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん」
麗は、もう一度絵を見た。
「前に描いてくれた絵も、そうだった」
明凛の心臓が、少しだけ跳ねた。
「……ネモフィラと、神志那くんの絵?」
「うん」
「覚えてるんだ」
「もちろん」
麗は、当たり前のように言った。
明凛は、スケッチブックを胸に抱えた。
自分が描いた絵を、覚えていてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
麗は、花壇の向こうを見た。
「ほかの花も見ていく?」
「いいの?」
「うん。チューリップは、もう終わりに近いけど」
「見たい!」
明凛は、思わず声を弾ませた。
麗は少し笑って、花壇の端へ歩き出した。
明凛も、その後を追った。
そこには、赤や黄色のチューリップが並んでいた。
花びらが少し開きすぎているものもあれば、まだ形を保っているものもある。
緑の葉の間に、色とりどりの花が咲いていた。
「この赤いチューリップ、前に写真を見せてくれたやつ?」
「そう。これも、つぼみから育ててた」
「今は、こんなに咲いてるんだね」
「うん。もう少ししたら、花が終わると思う」
明凛は、赤い花びらを見つめた。
「ちょっと寂しいね」
「そうだね」
麗は、花の様子を確かめるように、そっと近づいた。
「でも、また来年も咲くから」
「そっか」
「球根を残しておけば、また育てられるし」
明凛は、その言葉を聞いて、少し安心した。
花が終わっても、全部がなくなるわけではない。
また、次の春に咲く。
そう考えると、少しだけ寂しさが和らいだ。
「神志那くんって、花のこと、いっぱい知ってるんだね」
「園芸部だからね」
「それだけじゃない気がする」
「そう?」
「うん。すごく大切にしてる感じがする」
麗は、少し考えるように黙った。
それから、ゆっくり口を開いた。
「花って、ちゃんと世話をしないと、元気がなくなるから」
「うん」
「でも、毎日見てると、少しずつ変化がわかるんだよ」
麗は、葉に触れないように手を近づけた。
「昨日より葉が伸びてたり、つぼみが大きくなってたり。そういうのがわかると、嬉しい」
明凛は、麗の横顔を見た。
「……神志那くんらしいね」
「僕らしい?」
「うん」
「どういう意味?」
「なんとなく」
明凛は笑った。
麗も、少しだけ笑った。
花壇を見終わるころには、空が夕焼け色に染まり始めていた。
校舎の窓に、オレンジ色の光が映っている。
明凛はスケッチブックを閉じた。
「今日はありがとう」
「ううん」
「いろんな花が見られて、楽しかった」
「よかった」
麗はスマートフォンを取り出した。
「写真、撮っておこうかな」
「ネモフィラ?」
「うん。今日の分も」
麗は花壇に向き直り、スマートフォンを構えた。
画面の中に、青い花が映る。
夕方の光を受けた花びらは、昼間とは少し違う色に見えた。
麗は角度を変えながら、何枚か写真を撮った。
明凛は、その様子を隣で見ていた。
「神志那くん」
「ん?」
「写真って、撮るとき、何を考えてるの?」
麗は、スマートフォンを下ろした。
「何を考えてるか……」
少し考えてから、答えた。
「そのときの花を、ちゃんと残したいなって」
「ちゃんと?」
「うん。今日の花は、今日しか見られないから」
明凛は、夕方のネモフィラを見つめた。
今日しか見られない花。
同じ花でも、明日になれば、少し違う姿になっているかもしれない。
「私も、そういう絵を描きたいな」
「和泉さんの絵なら、できると思うよ」
「……ほんと?」
「うん」
麗は、穏やかな声で言った。
「前に描いてくれた絵、嬉しかったから」
明凛は、何も言えなくなった。
また、胸が温かくなる。
麗は、スマートフォンをしまった。
「帰ろうか」
「うん」
校門を出ると、夕方の風が二人の間を通り抜けた。
道路の向こうには、住宅が並んでいる。
遠くから、自転車のベルが聞こえた。
明凛と麗は、同じ方向へ歩き始めた。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
けれど、明凛は不思議と気まずくなかった。
隣を歩く麗の足音が聞こえる。
制服の袖が、風に揺れている。
いつもは教室で隣に座っているだけなのに、こうして並んで歩くと、少し違って見えた。
「神志那くん」
「うん?」
「園芸部って、毎日活動してるの?」
「毎日じゃないけど、花壇はよく見に来るよ」
「そうなんだ」
「水をあげたり、花の様子を見たり」
「大変じゃない?」
「慣れたから、そんなに」
麗は少しだけ空を見上げた。
「花が咲くと、やっぱり嬉しいし」
「そっか」
明凛は、少し考えてから言った。
「私も、美術部で絵を描いてるとき、完成したら嬉しいよ」
「うん」
「でも、描いてる途中も好きなんだ」
「途中?」
「うん。最初は何を描きたいのか、はっきりしてなくても、少しずつ形になっていくから」
麗は、明凛のほうを見た。
「花を育てるのと、似てるかもね」
「そうかな?」
「少しずつ変わっていくところとか」
明凛は、嬉しくなって笑った。
「そうかもしれないね」
また、二人の間に静かな時間が流れた。
分かれ道に着くと、麗が足を止めた。
「僕、こっちだから」
「あ、うん」
明凛も立ち止まった。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「また、花壇見に行ってもいい?」
「もちろん」
麗は、いつもの落ち着いた声で答えた。
「いつでも来ていいよ」
明凛は笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
麗が歩き出す。
明凛は、その背中を少しだけ見送った。
それから、自分も家へ向かって歩き始めた。
胸の奥が、まだ温かかった。
今日、麗と話したこと。
一緒にネモフィラを見たこと。
絵を褒めてもらったこと。
そのひとつひとつが、心の中に残っていた。
家に帰ると、明凛は自分の部屋へ向かった。
鞄を置き、制服を着替える。
机の上には、スケッチブックが置かれていた。
明凛は椅子に座り、今日描いたネモフィラの絵を開いた。
夕方の光。
風に揺れる花。
青い花びら。
その横に、小さく日付を書き込んだ。
五月。
今日の日付。
明凛は、絵を見つめた。
そのページには、麗の姿は描かれていない。
それなのに、今日のことを思い出すと、自然と麗の顔が浮かんでくる。
花を見ていた横顔。
写真を撮るときの真剣な表情。
絵を褒めてくれた声。
明凛は、鉛筆を持ち直した。
ページの隅に、小さく文字を書いた。
『神志那くんと、ネモフィラを見た日』
書き終えた瞬間、少し恥ずかしくなった。
誰かに見られるわけでもないのに。
明凛は、慌ててスケッチブックを閉じた。
それから、机の上にそっと置いた。
翌朝。
明凛が教室に入ると、麗はすでに席に座っていた。
「おはよう、神志那くん」
「おはよう」
いつもと同じ挨拶。
いつもと同じ隣の席。
けれど、明凛の心は昨日とは少し違っていた。
「昨日、ありがとうね」
明凛が言うと、麗は顔を上げた。
「花壇のこと?」
「うん。すごく楽しかった」
「よかった」
麗は、少しだけ笑った。
「また見に来ていいからね」
「うん!」
明凛は、自分でも驚くほど明るい声で返事をした。
その声に、近くにいたクラスメイトが振り返った。
「明凛、朝から元気だね」
「えっ、そう?」
「うん」
明凛は、少し照れながら笑った。
麗は何も言わず、机の上の教科書を開いた。
でも、明凛にはわかった。
麗も、ほんの少しだけ笑っていた。
それから、二人は少しずつ話すようになった。
朝、教室で会ったとき。
授業の合間の休み時間。
昼休み。
そして、放課後。
話す内容は、特別なことばかりではなかった。
授業のこと。
宿題のこと。
体育祭のこと。
花壇に咲いた花のこと。
明凛が描いた絵のこと。
麗が撮った写真のこと。
ほんの短い会話でも、明凛には嬉しかった。
麗も、少しずつ明凛に話しかけるようになった。
「和泉さん、今日の美術部は何を描くの?」
「今日は風景画かな」
「どんな風景?」
「まだ決めてないよ」
「そっか」
そんな何気ない会話。
それでも、明凛はその時間が好きだった。
ある日の放課後。
明凛が美術室から出ると、花壇のそばに麗がいた。
今日は、ネモフィラの近くに小さな苗を植えているところだった。
「神志那くん、何してるの?」
「新しい苗を植えてる」
「何の花?」
「まだ内緒」
「えー、気になる」
明凛が少し頬を膨らませると、麗は笑った。
「咲いたら教えるよ」
「ほんと?」
「うん」
「約束ね」
「約束」
明凛は、その言葉を聞いて笑った。
麗は土をならし、苗の周りを整えた。
明凛は、その様子を見つめた。
花を育てる麗。
絵を描く明凛。
好きなことは違うけれど、こうして同じ場所にいると、自然と心が落ち着いた。
明凛はスケッチブックを開いた。
「ねえ、神志那くん」
「うん?」
「今日も、描いていい?」
「僕を?」
「うん。今度は、花を植えてるところ」
麗は少し驚いたあと、頷いた。
「いいよ」
「ありがとう」
明凛は、鉛筆を構えた。
麗が土をならす手。
苗を植える姿。
その隣に咲く、青いネモフィラ。
明凛は、ゆっくりと鉛筆を動かし始めた。
描きながら、思った。
もっと、いろんな麗を描いてみたい。
花を育てているとき。
写真を撮っているとき。
教室で笑っているとき。
そして、いつか。
自分の知らない表情も。
もっと、知りたい。
その気持ちが、何なのか。
明凛には、まだはっきりとはわからなかった。
夕方。
麗は、植え終わった苗を見つめていた。
明凛は、描き終えたスケッチブックを閉じた。
「できたよ」
「見てもいい?」
「うん」
麗は、絵を覗き込んだ。
しばらく見つめてから、言った。
「……やっぱり、和泉さんの絵、好きだな」
明凛は、思わず顔を上げた。
「え?」
「見てると、今日のことを覚えていられそうだから」
その言葉に、明凛の胸がぎゅっとなった。
自分が描いた絵を、そんなふうに思ってくれる。
それが、嬉しかった。
「……ありがとう」
明凛は、小さく答えた。
麗は、スケッチブックを返した。
「また描いてね」
「うん」
明凛は、頷いた。
その約束が、心の中にそっと残った。
五月の風が、花壇を吹き抜けた。
ネモフィラの花びらが、小さく揺れる。
春の終わりが近づいている。
けれど、二人の毎日は、まだ始まったばかりだった。
明凛は、隣を歩く麗を見た。
麗は、花壇のほうを振り返っていた。
その横顔を見て、明凛は思った。
明日も、話せるかな。
また、花を見せてもらえるかな。
また、絵を描かせてもらえるかな。
そんな小さな楽しみが、少しずつ増えていく。
それは、まだ恋と呼ぶには淡くて、名前のない気持ちだった。
けれど、明凛の心の中では、確かに何かが芽生え始めていた。
春風が、二人の間を静かに通り抜けていった。