『氷の王子は、地味子のパレットに溺れたい』
第1章 完璧な王子と、背景の地味子
「上白木(かみしらき)さん、悪いんだけど今日の放課後、図書室のカウンター当番代わってくれない? 私、どうしても外せない用事があって……!」
「あ、は、はい……! 大丈夫、です……」
朝のHR前。
私は反射的に頷いてから、大きめの丸メガネのブリッジを人差し指で押し上げた。
断れなかった。
――というより、断るという選択肢を思いつくより先に、「はい」が口から出てしまった。
「ほんと!? サンキュー! 助かるー!」
ぱっと明るく笑った彼女は、それだけ言うと友達のところへ戻っていった。
「あ……」
今日、締め切りだった。
そこまで声にしたところで、もう遅い。
私は開きかけた口をそっと閉じた。
(……まあ、いいか)
いつものことだ。
私――上白木虹々(ここ)は、人に何かを頼まれると断れない。
嫌われたくない、とか。
いい子だと思われたい、とか。
たぶん、そういう立派な理由ですらない。
ただ、自分の意見を口にした瞬間に相手の表情が変わることが、怖いのだ。
「え、なんで?」
「普通こうじゃない?」
「上白木って、変わってるよね」
中学時代に何度も聞いた言葉が、今でも耳の奥にこびりついている。
だったら、何も言わなければいい。
誰かの意見に頷いて。
頼まれたら引き受けて。
目立たず、波風を立てず、教室の背景に溶け込んでいればいい。
黒髪のボブ。
大きな丸メガネ。
きっちり結んだ制服のリボン。
膝下まであるスカート。
鏡を見るたび思う。
我ながら、完璧だ。
誰の記憶にも残らない、地味な女子高生。
それが私の理想だった。
「キャーッ!」
突然、窓の外から甲高い歓声が上がった。
「如月くーん!」
「如月先輩、おはようございます!」
名前を聞いただけで、教室の女子たちが一斉に窓際へ集まっていく。
私は行かない。
行かなくても分かるから。
如月怜(きさらぎれい)。
同じ二年生。
そして――なぜか、私の隣の席の男子。
バスケットボール部のエース。
一年生からレギュラー。
成績は学年トップ。
百八十五センチの長身に、さらさらの茶髪。
少し鋭い三白眼と、その目元にある泣きぼくろ。
女子たちからつけられた呼び名は、『氷の王子』。
……すごい名前。
私だったら恥ずかしくて三日くらい学校を休むと思う。
「如月くん、これ……!」
窓の下から、女子の震える声が聞こえた。
どうやら告白らしい。
「ずっと好きでした! よかったら――」
「無理」
早い。
食い気味だった。
「え……?」
「興味ない。悪い」
悪いと言いながら、まったく悪いと思っていなさそうな声だった。
教室の女子たちが、
「きゃー!」
「今日も容赦ない!」
と、なぜか盛り上がっている。
(……怖い)
私はそっと教科書に視線を戻した。
あんな人とは一生関わらない。
というか、関われない。
太陽と日陰。
主役と背景。
住んでいる世界そのものが違う。
ガラッ。教室の扉が開いた。
一瞬、空気が変わった。
「如月くん、おはよ!」
「今日部活?」
「ねえ、昨日の試合の――」
「朝からうるさい」
如月くんは女子たちを一瞥すると、長い脚でまっすぐこちらへ歩いてきた。
正確には、私の隣の席へ。
椅子を引く音。
ふわりと、知らない香りがした。
清潔なシャツと、ほんの少しだけ爽やかな香水。
近い。
隣の席なのだから当たり前なのに、なぜか緊張する。
私は教科書に顔を埋めるようにして、身体を小さくした。
如月くんは私を見ない。
私も見ない。
それでいい。
同じクラスになって数か月。
席替えで隣になって二週間。
私たちは、一度もまともに話したことがなかった。
それが、私にとっては何よりありがたかった。
まさかこのとき。
この冷たい横顔の男が。
私の人生で一番知られてはいけない秘密に、誰より深く関わってくることになるなんて。
私は、知るはずもなかった。