あかつき荘の灯
第一部 坂の上の灯
第一話 枇杷の木のある家
十一年前、彼の書いた最終回が、朝倉灯の人生を一度壊した。
そして今日、灯はその男の住む家の坂を上っている。
名乗るつもりはない。名乗った瞬間、自分は「謝られる側」になってしまうから。
*
三鷹駅から南へ十五分ほど歩くと、地図には載っていない名前の坂に出る。
暁坂、と地元の人は呼ぶらしい。朝倉灯がそれを知ったのは、不動産屋でもインターネットでもなく、坂の途中にある小さな酒屋の軒先にかかった、色の褪せた木の看板からだった。「暁坂酒店」。その隣に、赤い自動販売機が一台。灯はそこで缶のミルクティーを買い、飲まずにコートのポケットに入れた。手が冷たかったからだ。
三月の終わりだというのに、その日は妙に風が強かった。桜は五分咲きで、坂の下の児童公園の桜が、花びらを撒くというよりは、風にむしり取られるようにして散っていた。
灯は段ボール箱をひとつ抱えていた。引っ越し業者に頼んだ荷物は先に届いているはずで、この箱の中身は本当は何でもよかった。ただ、手ぶらでこの坂を上るのが、どうしても怖かったのだ。何かを抱えていないと、自分がここへ来た理由を、坂の途中で誰かに問い詰められる気がした。
箱の中には、十一年前から持っている文庫本が一冊と、目覚まし時計と、洗っていないマグカップが入っていた。
坂を上りきると、視界がひらけた。
古い二階建ての建物が、細長い敷地の奥にひっそりと建っている。モルタルの壁は雨だれの筋で灰色に汚れ、木製の窓枠は塗り直された跡が何層にも重なっていた。屋根はスレート。玄関の前には、腰の高さほどのブロック塀と、その内側に、太い幹の木が一本。
枇杷だ、と灯は思った。祖母の家にも同じ木があった。
門柱の表札には、手書きの文字があった。墨ではなく、たぶん油性ペンで、しかも書いた人はあまり字が上手ではない。
あかつき荘
その下に、小さく画鋲で留められた紙。
「押しても鳴りません。大声で呼んでください」
灯は少し笑った。笑ってから、自分が笑えたことに驚いた。ここへ来ると決めてから今日まで、たぶん一度も、まともに笑っていなかった。
息を吸って、吐いた。
「……すみません」
声が、思ったより小さく出た。
「すみません、朝倉です。今日から、お世話になる」
「聞こえてるわよ、二回目からは要らない」
玄関の引き戸が、がらり、と横に滑った。
出てきたのは、四十代くらいの女性だった。背が高い。ショートカットの髪に白いものが混じっているのを、染めるでもなく隠すでもなく、そのままにしている。着ているのは黒いスウェットに、上から作務衣のような藍色の上着。片手にマグカップ、もう片手にボールペン。
「東雲です」女性は言った。「東雲弓子。ここの管理人みたいなことをやってる。会社のほうでは、あなたの上司にあたる人間」
「あ、はい。あの、面接の時に」
「うん、いたわね、私。奥のほうで寝てたけど」
「……寝て、ましたか」
「寝てた。三日徹夜のあとだったの」
東雲弓子はマグカップの中身をひとくち飲んで、顔をしかめた。冷めていたらしい。
「入って。風、ひどいでしょ。桜が全部持ってかれる」
灯は段ボール箱を抱え直して、敷居をまたいだ。
玄関の土間は、思っていたより広かった。三和土に靴が十足以上ある。スニーカー、サンダル、ヒールの折れかけたパンプス、なぜか長靴。下駄箱の上には、鍵が無造作に置かれ、その隣にみかんの皮が乾いていた。
そして、家のにおいがした。
人が長く住んでいる家のにおい。畳と、古い木と、誰かが昨日作ったであろう味噌汁の残り香と、それから、インクのにおい。灯はそのにおいを、たぶん一生忘れないだろうと思った。
「靴、どこに置いても怒られないから」東雲が言った。「怒る人がいないの、ここ。だからみんな平気で散らかす」
「散らかってる、とは思いませんでした」
「今、思ったでしょ」
「……少しだけ」
東雲が初めて笑った。目尻に深い皺が寄って、その顔は、笑うと急に十歳くらい若返った。
「素直でいいわ。制作進行、向いてるかもね」
案内された部屋は二階の、階段を上がって右の突き当たりだった。六畳一間に、小さな流しと、二畳ほどの板の間。窓が二つあって、南側の窓を開けると、さっきの枇杷の木のてっぺんが見える。
届いていた段ボールが、部屋の真ん中に四つ、行儀よく積んであった。
「布団は今晩、下から持ってきて。うちの押し入れに予備がある」
「ありがとうございます」
「家賃は給料から天引き。三万二千円。光熱費込み。安いでしょ」
「安すぎませんか」
「安すぎるの」東雲はあっさり言った。「うちの社長が、若い連中に金の心配をさせたくないっていう、まあ、そういう趣味の人だから」
灯の心臓が、静かに、一度だけ大きく鳴った。
「社長さん、って」
「雨宮千景」東雲が言った。「知ってるでしょ、あなたが受けた会社の社長なんだから」
「……はい」
知っている。
知りすぎている。
灯は、自分の声が平坦に出たことに安堵した。十一年、練習してきたようなものだった。この名前を、他人の名前みたいに口にすること。
「今日はいるんですか」
「いるわよ。今日は珍しくずっと家にいる」東雲は窓の外を顎で示した。「あそこ」
灯は窓に近づいた。
枇杷の木の下に、縁側があった。母屋の南面が、そのまま縁側になっているのだ。そこに、男が一人、座っていた。
紺色のスウェットに、毛玉のついた灰色のカーディガン。長い脚を持て余すように投げ出して、右手に古い文庫本を持ち、左手で、膝の上の猫の背中を撫でている。猫は黒と白のぶち猫で、明らかに太っていた。
風で前髪が乱れて、男はうるさそうに首を振った。
灯は、窓枠を掴んだ。
指が白くなるほど強く握っていることに、しばらく気づかなかった。
「あの人が」
「そう」東雲が言った。「あれが、雨宮千景」
三十五歳。アニメーション監督。脚本家。かつて、二十四歳のときに書いた深夜アニメ一本で、この国のある世代の夜を丸ごと塗り替えてしまった男。
そして十一年間、子どものための物語を、一行も書いていない男。
「降りて挨拶してきたら」
「……はい」
「言っとくけど」東雲は部屋を出ながら、思い出したように振り返った。「あの人、人の顔と名前を覚えるのが、絶望的に下手だから。三回名乗るつもりでいてね」
覚えていない。
わかっていた。わかっていたのに、その言葉は、灯の胸のやわらかいところを、正確に刺した。
東雲の足音が階段を降りていく。灯は一人になった部屋で、コートのポケットから缶のミルクティーを出して、両手で包んだ。もう、とっくに冷たくなっていた。
窓の下で、猫が縁側から飛び降りた。男が「あ」と声を上げるのが、風の切れ間に聞こえた。低くて、少しかすれた声だった。
十一年前の三月、私は、あなたの書いた台詞を頼りに、一晩じゅう歩いた。
灯は思う。
あなたはそれを知らない。世間は、あなたが女の子を一人壊したと思っている。あなた自身も、たぶん、そう思っている。
私は、あなたを助けに来たわけじゃない。
ただ、あなたが今も、あの夜のことで自分を許していないのなら――そのことを、この目で確かめたかった。
確かめて、それから、どうするのか。
そこから先は、二十五歳の朝倉灯には、まだ何ひとつ決まっていなかった。
そして今日、灯はその男の住む家の坂を上っている。
名乗るつもりはない。名乗った瞬間、自分は「謝られる側」になってしまうから。
*
三鷹駅から南へ十五分ほど歩くと、地図には載っていない名前の坂に出る。
暁坂、と地元の人は呼ぶらしい。朝倉灯がそれを知ったのは、不動産屋でもインターネットでもなく、坂の途中にある小さな酒屋の軒先にかかった、色の褪せた木の看板からだった。「暁坂酒店」。その隣に、赤い自動販売機が一台。灯はそこで缶のミルクティーを買い、飲まずにコートのポケットに入れた。手が冷たかったからだ。
三月の終わりだというのに、その日は妙に風が強かった。桜は五分咲きで、坂の下の児童公園の桜が、花びらを撒くというよりは、風にむしり取られるようにして散っていた。
灯は段ボール箱をひとつ抱えていた。引っ越し業者に頼んだ荷物は先に届いているはずで、この箱の中身は本当は何でもよかった。ただ、手ぶらでこの坂を上るのが、どうしても怖かったのだ。何かを抱えていないと、自分がここへ来た理由を、坂の途中で誰かに問い詰められる気がした。
箱の中には、十一年前から持っている文庫本が一冊と、目覚まし時計と、洗っていないマグカップが入っていた。
坂を上りきると、視界がひらけた。
古い二階建ての建物が、細長い敷地の奥にひっそりと建っている。モルタルの壁は雨だれの筋で灰色に汚れ、木製の窓枠は塗り直された跡が何層にも重なっていた。屋根はスレート。玄関の前には、腰の高さほどのブロック塀と、その内側に、太い幹の木が一本。
枇杷だ、と灯は思った。祖母の家にも同じ木があった。
門柱の表札には、手書きの文字があった。墨ではなく、たぶん油性ペンで、しかも書いた人はあまり字が上手ではない。
あかつき荘
その下に、小さく画鋲で留められた紙。
「押しても鳴りません。大声で呼んでください」
灯は少し笑った。笑ってから、自分が笑えたことに驚いた。ここへ来ると決めてから今日まで、たぶん一度も、まともに笑っていなかった。
息を吸って、吐いた。
「……すみません」
声が、思ったより小さく出た。
「すみません、朝倉です。今日から、お世話になる」
「聞こえてるわよ、二回目からは要らない」
玄関の引き戸が、がらり、と横に滑った。
出てきたのは、四十代くらいの女性だった。背が高い。ショートカットの髪に白いものが混じっているのを、染めるでもなく隠すでもなく、そのままにしている。着ているのは黒いスウェットに、上から作務衣のような藍色の上着。片手にマグカップ、もう片手にボールペン。
「東雲です」女性は言った。「東雲弓子。ここの管理人みたいなことをやってる。会社のほうでは、あなたの上司にあたる人間」
「あ、はい。あの、面接の時に」
「うん、いたわね、私。奥のほうで寝てたけど」
「……寝て、ましたか」
「寝てた。三日徹夜のあとだったの」
東雲弓子はマグカップの中身をひとくち飲んで、顔をしかめた。冷めていたらしい。
「入って。風、ひどいでしょ。桜が全部持ってかれる」
灯は段ボール箱を抱え直して、敷居をまたいだ。
玄関の土間は、思っていたより広かった。三和土に靴が十足以上ある。スニーカー、サンダル、ヒールの折れかけたパンプス、なぜか長靴。下駄箱の上には、鍵が無造作に置かれ、その隣にみかんの皮が乾いていた。
そして、家のにおいがした。
人が長く住んでいる家のにおい。畳と、古い木と、誰かが昨日作ったであろう味噌汁の残り香と、それから、インクのにおい。灯はそのにおいを、たぶん一生忘れないだろうと思った。
「靴、どこに置いても怒られないから」東雲が言った。「怒る人がいないの、ここ。だからみんな平気で散らかす」
「散らかってる、とは思いませんでした」
「今、思ったでしょ」
「……少しだけ」
東雲が初めて笑った。目尻に深い皺が寄って、その顔は、笑うと急に十歳くらい若返った。
「素直でいいわ。制作進行、向いてるかもね」
案内された部屋は二階の、階段を上がって右の突き当たりだった。六畳一間に、小さな流しと、二畳ほどの板の間。窓が二つあって、南側の窓を開けると、さっきの枇杷の木のてっぺんが見える。
届いていた段ボールが、部屋の真ん中に四つ、行儀よく積んであった。
「布団は今晩、下から持ってきて。うちの押し入れに予備がある」
「ありがとうございます」
「家賃は給料から天引き。三万二千円。光熱費込み。安いでしょ」
「安すぎませんか」
「安すぎるの」東雲はあっさり言った。「うちの社長が、若い連中に金の心配をさせたくないっていう、まあ、そういう趣味の人だから」
灯の心臓が、静かに、一度だけ大きく鳴った。
「社長さん、って」
「雨宮千景」東雲が言った。「知ってるでしょ、あなたが受けた会社の社長なんだから」
「……はい」
知っている。
知りすぎている。
灯は、自分の声が平坦に出たことに安堵した。十一年、練習してきたようなものだった。この名前を、他人の名前みたいに口にすること。
「今日はいるんですか」
「いるわよ。今日は珍しくずっと家にいる」東雲は窓の外を顎で示した。「あそこ」
灯は窓に近づいた。
枇杷の木の下に、縁側があった。母屋の南面が、そのまま縁側になっているのだ。そこに、男が一人、座っていた。
紺色のスウェットに、毛玉のついた灰色のカーディガン。長い脚を持て余すように投げ出して、右手に古い文庫本を持ち、左手で、膝の上の猫の背中を撫でている。猫は黒と白のぶち猫で、明らかに太っていた。
風で前髪が乱れて、男はうるさそうに首を振った。
灯は、窓枠を掴んだ。
指が白くなるほど強く握っていることに、しばらく気づかなかった。
「あの人が」
「そう」東雲が言った。「あれが、雨宮千景」
三十五歳。アニメーション監督。脚本家。かつて、二十四歳のときに書いた深夜アニメ一本で、この国のある世代の夜を丸ごと塗り替えてしまった男。
そして十一年間、子どものための物語を、一行も書いていない男。
「降りて挨拶してきたら」
「……はい」
「言っとくけど」東雲は部屋を出ながら、思い出したように振り返った。「あの人、人の顔と名前を覚えるのが、絶望的に下手だから。三回名乗るつもりでいてね」
覚えていない。
わかっていた。わかっていたのに、その言葉は、灯の胸のやわらかいところを、正確に刺した。
東雲の足音が階段を降りていく。灯は一人になった部屋で、コートのポケットから缶のミルクティーを出して、両手で包んだ。もう、とっくに冷たくなっていた。
窓の下で、猫が縁側から飛び降りた。男が「あ」と声を上げるのが、風の切れ間に聞こえた。低くて、少しかすれた声だった。
十一年前の三月、私は、あなたの書いた台詞を頼りに、一晩じゅう歩いた。
灯は思う。
あなたはそれを知らない。世間は、あなたが女の子を一人壊したと思っている。あなた自身も、たぶん、そう思っている。
私は、あなたを助けに来たわけじゃない。
ただ、あなたが今も、あの夜のことで自分を許していないのなら――そのことを、この目で確かめたかった。
確かめて、それから、どうするのか。
そこから先は、二十五歳の朝倉灯には、まだ何ひとつ決まっていなかった。