あかつき荘の灯

第二話 制作進行という仕事

 スタジオ・アカツキは、吉祥寺駅から歩いて八分の、五階建ての雑居ビルの三階と四階にあった。一階が中華料理屋で、二階が学習塾で、五階は長いこと空いている。
 エレベーターは一基。定員四名。四人乗ると本当に動かなくなることを、灯は入社二日目に知った。
「朝倉さん、四階の第二作画から原画上がり、回収してきて。三カット分。あと戻しの修正、二カットぶん先に持ってって、そのついでで」
「はい」
「そのあと、美術さんに背景の指定出す。データはもう入ってるから、口頭で補足だけ」
「はい」
「終わったら、久瀬さんに演出打ちの時間、確認して。あの人、こっちが聞かないと永遠に何も言わないから」
「はい」
 制作進行という仕事について、灯は入社前、なんとなく「アニメを作る現場をまとめる人」だと思っていた。
 実際にやってみると、それは半分しか合っていなかった。
 実態は、走る人だった。
 紙を運び、データを運び、人と人のあいだを運ぶ。作画机の前に座って動かない人たちの、代わりに動く。締切という名の巨大なものを、両手で押して転がしていく。転がらなければ、頭を下げる。
 入社二週目の水曜、灯は四階の隅の机で、初めて久瀬冬吾に話しかけた。
 背中の広い男だった。丸まった背中に、着古したネルシャツ。机の上には液晶タブレットと、なぜか紙の作画用紙が同じくらい積んである。
「久瀬さん。演出打ち、明日の十四時からでよろしいでしょうか」
 返事はなかった。
 ペンが動く音だけがする。かり、かり、と紙を引っ掻く音。彼は今どき珍しく、ラフだけは鉛筆で描く。
 灯は待った。三十秒。一分。
「久瀬さん」
「聞こえてる」
 顔は上げないまま、久瀬は言った。
「じゃあ返事、ください」
 ペンが止まった。
 久瀬冬吾が顔を上げた。三十一歳。目の下に濃い隈があって、無精髭が伸びかけていて、それでも顔立ちそのものは整っている。表情がないので、初対面の人間はたいてい怒られていると勘違いする。
「……十四時。いい」
「ありがとうございます。あと、二百三十カット、リテイクの件で」
「あれは俺のミス。今日中に直す」
「いえ、原因は指定書のほうです。私が確認を飛ばしました」
 久瀬が、少しだけ目を細めた。
「新人が、それ言うのはやめとけ」
「なぜですか」
「庇う癖がつくと、いつか自分が潰れる」
 彼はそれだけ言って、また顔を伏せた。会話は終わった、という合図らしい。
 灯は一礼して離れた。廊下に出てから、ふう、と息を吐いた。
 背中に、視線を感じた気がした。振り返ると、久瀬はもうこちらを見ていなかった。
 その日の夜、灯は初めて「あかつき荘の台所」の意味を知った。
 深夜零時前。会社から坂を上って帰ってくると、あかつき荘の窓に、明かりがついていた。一階の、共同の台所の窓だ。
 中から、声が漏れている。若い女の声と、それに笑う男の声。
 灯が玄関を開けると、廊下の奥から、カレーのにおいがした。
「あ、新人さんだ!」
 台所から顔を出したのは、二十代半ばくらいの女性だった。小柄で、髪を頭のてっぺんで団子にまとめて、色の褪せたスウェットの上に、絵の具のついたエプロンをしている。
「穂村まひるです。色彩設計。二階の、あなたの隣の隣」
「朝倉灯です。制作進行です」
「知ってる! 東雲さんが言ってた。『すごく丁寧な子が来る』って」
「そんな」
「食べる?」まひるは鍋を指した。「カレー。あかつき荘は、深夜零時に誰かがカレーを作るっていう、非常に不健康な伝統があるの」
「毎晩ですか」
「毎晩じゃない。作れる人が、作れる日に」まひるは笑った。「今日は私」
 台所のテーブルには、もう一人いた。二十二歳くらいの、痩せた若い女の子。長い髪を後ろで一つに結んで、湯気の立つ皿の前で、なぜか背筋をぴんと伸ばしている。
「佐分利晴です。声優、志望です」
 志望、のところを、彼女は少し早口で言った。
「ここ、みんな肩書きに『志望』とか『見習い』とかついてる人が多いから」まひるが皿を出しながら言った。「気にしないで名乗っていいのに、晴ちゃんはいつもちゃんと言う」
「言わないと、嘘になるので」
 晴は真顔だった。
 灯はその横顔を見て、なぜかすぐに、この子のことを好きになるだろうと思った。
 カレーは、驚くほど普通の味だった。市販のルウで、具は玉ねぎとじゃがいもと、豚肉。
 でも、あたたかかった。
 灯が食べ終わる頃、廊下から足音がして、痩せた男が入ってきた。二十八歳くらい。細身で、髪は無造作に伸びていて、黒縁の眼鏡をかけている。手に、分厚いノートを抱えていた。
「あ、噂の」男は灯を見て、片手を上げた。「鹿沼律です。脚本」
「脚本家、じゃなくてね」まひるが茶々を入れた。
「うるさいな。脚本、で止めるのが正しいんだよ。まだ何も書いてないんだから」
 律は自分でそう言って、自分で笑った。笑い方に、少しだけ角があった。
「朝倉さん、だっけ。監督には会った?」
「初日に、ご挨拶しました」
「なんて言われた?」
 灯は、その日のことを思い出す。
 縁側に降りていって、名乗ったときのことだ。雨宮千景は文庫本から顔を上げて、灯をまっすぐに見た。
 そして、少しのあいだ、黙った。
 その沈黙は、たぶん二秒か三秒だった。けれど灯には、ひどく長く感じられた。
「――朝倉さん」と、彼は言った。「ようこそ。うるさい家だけど、慣れると眠れる」
 それだけだった。
「『うるさい家だけど、慣れると眠れる』って」
「あー」律が声を上げた。「それ、監督が新入りに毎回言うやつだ」
「毎回?」
「毎回。十年間ずっと同じ台詞。あの人、そういうとこ、びっくりするほど雑」
 まひるが笑い、晴が笑い、灯も笑った。
 笑いながら、灯は、胸の奥のどこかが冷たくなっていくのを感じていた。
 毎回言う台詞。誰にでも言う台詞。
 それでも、あの二秒か三秒の沈黙は、なんだったのだろう。
「監督、今日は?」灯は聞いた。できるだけ、軽く。
「書斎」まひるが天井を指した。「二階の、いちばん奥。あそこだけ別棟みたいになってて、私たち、勝手に入っちゃいけないことになってる」
「入ったら怒られるの?」
「怒られないよ。怒らないもん、あの人」まひるは少し声を落とした。「でもね、なんかね……入っちゃいけない気がするの。あそこだけ、家の中で、時間が止まってるみたいで」
 灯は、天井を見上げた。
 板張りの天井の向こうに、その部屋があった。
 十一年間、何も生まれなかった部屋が。
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