ふたりぐらし ~好きがわからなかったあたしと、一途なあなた~

第1章 安心する温度


結婚式は、親を安心させるための“長女としての役目”だと、疑いもしていなかった。


教育機関の夏休みは、私立校でも研修でいっぱいだった。
大きな研修はもちろん、小さな研修は日常だし、法人単位での会議と研修まである。
研修のない日は学校全体の仕事を先生同士で分け、さらにその合間に個人の仕事を進めていく。
市立で働いていた時とはまた違う空気感。
職員同士のおしゃべり時間の多い、ちょっと緩んだ雰囲気のある職員室の中で、授業のある日々からはどこか一歩引いた毎日を過ごしていた。

なおはお昼を食べようと二段重ねのお弁当箱を取り出す。
開けてみて驚いた。

二段とも、おかず。

二段ともご飯が詰まっているはずのもう片方のお弁当を思い浮かべて、慌てて一段を抱えて小等部の校舎へと向かった。


「失礼します」
ノックの後に、引き戸を開けるとすぐに目的の人物の姿は見つかった。
個人の机に座る彼の傍には、一人の女性の姿。
数年先輩であろうその女性教諭は柔らかい笑顔を浮かべて、あきくんの広げるお弁当の蓋の上に、おかずを置こうとしていた。

「ごめん、あきくん。
 お弁当重ね間違った」

なおの言葉に、あきくんは苦笑しながら立ち上がる。
「わざわざありがとう。
 お前のことだから、“ま、いっか”でそのまま食べてると思ってた」
あきくんの言葉に、周りの先生たちが笑う。
「さすがに、ご飯だけ食べさせようなんて思わないし!
 ほら、交換して!」
彼の方にお弁当箱を押し付ける。
ぱかりと開いて中身を確認してから、彼は安心したように机に置いた。

「日高先生の、美味しそうですね」
先ほどおかずを分けていた教諭が、にっこりと笑う。
優しい笑顔と圧のない雰囲気に、人気のありそうな先生だな、と思った。
「あ、先生方おかず届いたんで恵んでくれたの返しますよ!」
「いいのいいの!
 迷惑でないなら食べて!」
「そうそう、昼からの倉庫整理期待してる」
「たくさん食べなさい」
一斉に掛けられる言葉に、彼がこの場所で受け入れられ、大切にされているんだなと感じる。
嬉しいのに、どこか胸がざらついた。
一緒に笑うことのないこの空間が、温かいのにどこか冷たい。

「あきくん、今日帰りに結婚雑誌買っていきたいから、本屋に寄り道ね。
 じゃあ、帰るとき連絡待ってる!」
もやもやを消すようにわざと明るく言うと、出口の方へと向かう。
あきくんがもう一度ありがとうとお礼を言う。

見えない後ろで、「明るくて、お料理上手で、素敵な奥さんですね」と言う先ほどの教諭の声が聞こえた。


その日の夜、ラグに座るあきくんに寄りかかりながら、なおは買ってきたばかりの雑誌をめくっていた。
「すげぇ厚さだな。
 その一冊で首都圏だけってのが恐ろしいわ」
「重たいしね。
 最近紙の本めくることが減ってたからこそ、存在感すごい。
 夫婦喧嘩で使えそう」
「いや、絶対使うなよ! 暴力反対!
 シャレにならんわ!」
言葉に反してやさしく後ろから抱きしめてくるあきくんに、ふふっとなおは笑う。
なおの肩に顎を乗せて、あきくんも同じ雑誌を覗き込んだ。
「うわ……白亜のチャペル。
 バージンロードは映り込む青空だってさ」
「雨降ったらどうするんだろうね」
「……だな」
二人で笑いあうのが、楽しい。
一枚ずつめくりながら、いいなとなおが思ったページをあきくんが軽く折った。
付箋を持ってくるのは面倒だし外れるかもしれない。
ちょうど良い適当さが、心地よかった。

「あきくん」
声を掛けて、彼が答える前に彼へと顔を寄せる。
あきくんもそれを察して、同じように寄せてきた。
軽いキスを交わしたあと、なおはぽつりと零す。
「……結婚式。
 来年の夏くらいには出来たらいいよね。
 ゆめもまなも、ちょっと落ち着いたころ」
ゆめのところは、甥っ子がつい先月生まれたばかり。
まなのところは、これから双子が生まれる。
「夏休みならそのまま新婚旅行にも行きやすいし、いいと思う」
本当なら、もう少し甥っ子たちが大きくなってからでもと思わなくもない。
それでも、可能なら早めに結婚式をしてしまいたいと思った。
雑誌を横に置いて、本格的にあきくんに体重を掛けた。
あきくんは嫌がることなく、受け入れた。

あきくんの体温は、相変わらず高めで、温かい。


翌朝。
今度は慎重にお弁当を詰める。
学校期間中は給食があるから、お弁当作りは夏休み期間などの限られた時だけ。
だからこそ、適当に詰めて昨日は失敗した。
お弁当のおかずは、昨日より少しだけ豪華になっていた。
その理由を自分でも言語化できないまま、出来栄えに満足げに笑う。

「なお、そろそろ出ようぜ」
「はぁい」
あきくんが用意した水筒を受け取り、代わりにお弁当を渡す。
あきくんがそれをわざわざ開けて、中身を確認する。
「今日は問題なしっと」
「もち!
 今日は抜かりないよ!」
なおの明るい言葉に、彼も笑う。
「おかずもすごい美味しそうだし。
 朝から手間かけさせてごめん。
 けど嬉しい」
ストレートなあきくんの言葉に、なおはドヤ顔になる。
「でも急にどうしたんだ?
 なおも学校あって大変なんだから、無理はすんなよ」
ぽん、とやさしく撫でられた頭。
何気ないその一言がなおを思考の海に落とす。

(……確かにあたし、なんでいつものお弁当が嫌だったんだろ)

車の助手席で、運転するあきくんの横顔を眺めながら、ぼんやりと考える。

“――帰りに結婚雑誌買っていきたいから、本屋に寄り道ね”

あの場で、なんでわざわざ伝えたんだろう?
いつもなら、メッセージで伝える内容だったのに。

名前の付かない重たいものが、胸の奥で広がりかける。

「今日、金曜だしどっかでご飯食べて帰ろうぜ」
「やった! 楽しみ」
「俺も」

何気ないあきくんの言葉に、広がりかけたものは、それ以上大きくはならなかった。


夜、一旦家に帰ってから二人で居酒屋へ向かった。
お気に入りの、少しだけ露出が多めの服装。
黒いキャミソールから覗く胸元は、レースで見えそうで見えないギリギリを保っている。
耳には、お揃いのオニキスのピアス。
それを身に着けるだけで、学生時代に戻るようなそんな甘い気持ちになった。

あきくんの服装も、Tシャツの上に黒いシャツ。
二人並んでいても違和感のない、むしろセットのような組み合わせ。
ワンポイントが足したくて、彼の首に十字架のネックレスを掛ける。
シルバーのアクセサリーが、黒いピアスと合わさって先生っぽさを抜け落とす。
自分好みなあきくんの姿に、なおはにっこりと笑った。

並んで行った居酒屋は、まなのお気に入りの海鮮居酒屋だった。
行こうと決めてすぐに席だけは予約で確保して置いてくれたらしく、金曜日なのに待たずに入れた。
待たないことはありがたいが、昔のようにただおしゃべりしながらぼんやり待っていても良かったのにと少しだけ思い、その考えを断ち切るように首を振った。

「前に海とまなさんと来た時が、昔のことみたいだよなぁ」
磯焼セットの貝を網に並べながら、あきくんがしみじみと言う。
「まな、前来た時熱心に網の上管理してたよね。
 あのまなが、もうすぐ二児のママだからね」
ぱちんと弾ける貝に、あきくんが大げさに驚く姿を笑いながら、なおも一緒に貝を並べた。
「ゆめさんのところの陽くんも可愛かったよな。
 写真、めちゃくちゃあどけない顔して寝てて、本気で待ち受けに設定しようかと思った」
「まじで! 伯父バカじゃん!
 まぁ、郁人さんそっくりなのに無垢でかわいいけど!」
お酒が無くなりそうになるタイミングで、あきくんがタブレットに指を走らせる。
渡されたメニューからみかんのお酒のロックを選ぶと、しばらく後に温かいお茶とともにそれが届けられる。
相変わらずのやさしさが、じんわりと沁みた。
「あきくん」
「ん?」
「ありがと」
お礼を伝えると、ふわっと笑った。
「どういたしまして。
 というか、どうしたんだよ、急に」
あきくんの手が、なおのグラスに伸びる。
こくんと嚥下する喉をじっと見つめた。
「これ、意外とアルコール濃いな。
 甘くて飲みやすいけど、酔うからほどほどにしとけよ」
薄暗い灯りの下で、あきくんの瞳に自分の姿が映るのが見えた。
それを見つめていると、笑顔の形に目が細められる。
「……早く、結婚式したいな」
あきくんの笑顔を見ていると、勝手に言葉が零れ落ちた。
少し驚いたような表情で、何度か彼が瞬く。
「そういう憧れ、あったんだ?」
「……いや、そんなわけじゃなかったと思うんだけど」
なおも、なぜ自分がそんなことを言い始めているのか自分でよくわからない。
「ふうん?
 まぁ、ドレスとかチャペルとか見てたらその気になってくるよな。
 まだ時間はあるし、焦らず決めていこう」
自分が焦っているのかどうかもよくわからないまま、こくんと頷いた。
海鮮は美味しかった。


帰宅後。
浴槽にお湯を溜め、お気に入りのバスジュエルを一つ落とした。
ふわりと、愛用の香水にどこか似た匂いが満ちる。
丁寧に身体を洗う。
泡と一緒に、胸の中の消化しきれない何かが流れてくれたらと思った。
お湯に浸かると、好きなにおいと心地よい温度に包まれる。
少し高めのその温度が、どこかあきくんの体温のようだと思った。

ここ数日の自分の言葉と行動が、頭の中で蘇る。

“――帰りに結婚雑誌買っていきたいから、本屋に寄り道ね”

言わなくてもいい言葉を、敢えてあの場で口にした。

何かに対抗したようなお弁当。

先生らしくない服装をコーディネートし、極めつけは――

“早く、結婚式したい”

温かいはずのお湯に浸かっているのに、肩が震えた。
自分を守るように抱きしめながら、じっと水面を見つめる。

(あたし、何か変だ……)

その時、脱衣所の扉が開く音がした。
「なお?」
心配するような響きの声に、少し慌てて返事する。
「ごめん、ぼんやりしてた」
「大丈夫かよ。
 酒飲んだ後だし、倒れてたらどうしようって悪い想像したわ」
思ったより長く浸かり過ぎていたらしい。
「そんなに心配なら、一緒に入る?」
なおの発言に、一瞬だけ間が空く。
「おー、なら遠慮なく」
普通に布擦れの音が聞こえてくる。
扉を開けたあきくんは、うわっと声を出した。
「この香り、俺が纏うにはちょっとあれだな」
その言葉に投げ入れたバスジュエルのことを思い出し、なおはやっと笑った。
「いいじゃん、いい匂いだし」

お揃いのにおいになることで、その日感じた違和感はどこかへ溶けていった。


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