忘却華の契約婚
死者の声を聞けるかもしれない。
目の前に、死体が運び込まれた。
死体を置いた従者たちは、一刻も早くこの場から立ち去りたいとでもいうように、足早にその場を離れていく。
そこに横たわるのは、女子供に成人男性、老爺に中年の男――年齢も性別も異なる、四つの亡骸だった。
髪は乱れ、衣服は粗末。肌には生前の傷が生々しく残り、あたりには死者特有の、鼻をつく臭気が漂っている。
この場の惨状に、東雲は思わず鼻をつまんだ。堪えきれなかったのか、顔を顰め、露骨に嫌悪感をあらわにする。
ふと、疑問に駆られ、隣に座る少女へと目を向けた。
天照大神を前にして、平静を保てる者などほとんどいない。名だたる武官でさえ、その威光に圧倒され、畏怖の念に身を竦ませるほどなのだ。
東雲自身、先ほどから息苦しさを覚えている。己の存在がひどく矮小なものに思えてしまうほどだった。
それなのに、この少女は、どうだ。
身を縮こまらせるどころか、真っ向から天照大神を見据えているではないか。
虚勢を張っているわけではない。恐怖を押し殺している様子も見受けられない。
ただ、真っ直ぐにその瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
東雲は、確信した。
この少女は、強い。
それも、ただ気丈なだけではない。心の奥底に、並大抵のことでは折れぬ何かを秘めているのだ。
(はあ……。まったく、思い出せませんね)
いくら記憶を手繰り寄せても、何ひとつとして蘇ってこない。
思い出そうとすればするほど、頭の中は白く霞んでいく。これでは、いつまで経っても話が進まない。
このままでは、本当に何も聞き出されぬまま、殺されてしまうかもしれない。
それだけは、何としても避けたかった。
しかも、天照大神には、私の心の内を見透かされているような気さえする。
何とも居心地が悪い。
「これを見てもなお動じぬとは、豪胆な娘だ。妾はお前のことが大嫌いだ。跪け。お前が殺めた者たちにな。」
天照大神の双眸は、深淵を覗き込むかのごとく昏く、底知れぬ憤怒を湛えていた。
その声には、聞く者の心胆を寒からしめるほどの威圧感がある。
しかし――。
だからといって、言い返さない理由にはならない。
「ですから、話を聞いてくださいませ。確たる証拠もない限り、私は跪くつもりはございません。どうしてあなた方は、見えているものだけを信じ、事実を見抜こうとなさらないのですか? この国の頂点に君臨する者として、あるまじき事だと思います。あ、あともう一つ。私も貴方様のことが大嫌いですので、大嫌いで結構でございます」
一通りの鬱憤を晴らしたことで、胸のつかえが少しばかり取れた気がした。
……言いたいことは、言えた。
しかし、天照大神は拍子抜けするほど無反応だった。
それどころか、先ほどまで鋭く吊り上がっていた目が、豆粒のようにまん丸になっている。口も半開きのまま、ぴくりとも動かない。
(大嫌いって言われたことが、そんなにショックだったのでしょうか……?)
少々、言い過ぎたかもしれない。
今さらながら後悔が胸を掠めたが、言ってしまったものは仕方がない。これ以上は気にしないことにした。
言われた本人はともかく、周囲の者たちはそうはいかなかった。
「あ、マジか。それ、言っちゃうんだ。本当に本気で言っちゃったんだ……」
誰かが、呆然と呟いた。
この場にいる少女と、国の頂点に君臨する神を除き、誰もが同じことを思っていた。
(人を殺めたかどうかを問われている以前に、別の意味で処罰されるよこれ。)
そう考える者もいた。
天照大神が怒りを露わにするのではないか。あるいは、一人の娘の無礼を理由に、ここにいる者たちまで巻き添えを食うのではないか。
そんな懸念が、場の空気を一層重苦しいものにしていた。
一方、顔色を蒼白にしている者がいるかと思えば、口元を引き攣らせながらも、必死に笑みを取り繕っている者もいた。
笑ってしまえば、天照大神の機嫌を損ねかねない。かといって、真顔を貫けば、今度は少女の異様さが際立ってしまう。
まさに、進退窮まる状況である。
この場には、私を含めて五人の高位の御物がいた。
普段から何を考えているのか分からない変わり者や、頭脳明晰な者、冷徹無慈悲と評される者、さらには軽薄な言動で知られる者まで、誰もが天照大神の怒りを恐れ、息を潜めていた。
◆ ◆ ◆
天照大神は、怒り心頭に発していた。
無理もない。自分に口答えする者など、この世に数えるほどしかいないのだから。
三百年以上も生きてきて、これほどまでに遠慮のない娘を見たのは初めてだった。
正直なところ、この娘が今後どうなろうと知ったことではない。
(無理にでも罪を認めさせてやる)
そう心に決めた直後、目の前の娘が異変に見舞われた。
突如として頭を抱え、苦悶の表情を浮かべたのである。
何やら様子がおかしい。眉間に皺を寄せ、呼吸を乱しながら、必死に苦痛に耐えているようだった。
その傍らでは、東雲が何事かを少女に問いかけている。
「おい! 何があった! 返事をしろ!!」
東雲の甲高い声が、室内に鋭く響き渡った。
だが、少女は応じない。
それどころではなかった。
(うう……痛い……)
突如として襲いかかってきた激痛に、思考がまとまらない。
頭の内側を何かに掻き乱されているような感覚だった。こめかみが脈打ち、視界が明滅する。呼吸を整えようとしても、うまく息が吸えなかった。
これ以上、何も考えたくない。
意識が薄れ始めた頃、どこからともなく奇妙な声が聞こえてきた。
《私らを殺したのは、お前じゃない》
微かに響いたその声は、怨嗟を帯びていた。
(……私たちを、殺した?)
つまり、この声の主は、すでに亡くなっているということだろうか。
私は恐る恐る周囲を見渡した。
すぐそばにいるのは東雲だけ。ほかの者たちは、少し離れた場所に控えている。
ちなみに、東雲の声は聞こえているものの、今の声とは明らかに違っていた。
残るのは、目の前に横たわる亡骸だけ。
――まさか。
この死体が、私に語りかけてきたとでもいうのだろうか。
(いや、あり得ないでしょう。)
死者が口を利くなど、常識では考えられないことだ。
しかし、確かに声が聞こえた。
聞き間違いだと片づけるには、あまりにもはっきりと。
東雲は、私に向かって何かを叫んでいる。けれど、どうやら彼には、あの声が聞こえていないらしい。
私は、かすかな期待を胸に抱いた。
この世界には神が存在し、神通力と呼ばれる特別な力を扱う者もいる。
この部屋へ来る途中、東雲が教えてくれたことだった。
(……もし、私にも神通力とやらが備わっていたとしたら?)
死者の声を聞く力。
そんなものが本当にあるのなら、今の現象にも説明がつく。
そして、この力を使えば、私の話にも耳を傾けてもらえるかもしれない。
淡い期待が、胸の奥に灯った。
私は、縋るような思いで、もう一度目の前の亡骸を見つめた。
死体を置いた従者たちは、一刻も早くこの場から立ち去りたいとでもいうように、足早にその場を離れていく。
そこに横たわるのは、女子供に成人男性、老爺に中年の男――年齢も性別も異なる、四つの亡骸だった。
髪は乱れ、衣服は粗末。肌には生前の傷が生々しく残り、あたりには死者特有の、鼻をつく臭気が漂っている。
この場の惨状に、東雲は思わず鼻をつまんだ。堪えきれなかったのか、顔を顰め、露骨に嫌悪感をあらわにする。
ふと、疑問に駆られ、隣に座る少女へと目を向けた。
天照大神を前にして、平静を保てる者などほとんどいない。名だたる武官でさえ、その威光に圧倒され、畏怖の念に身を竦ませるほどなのだ。
東雲自身、先ほどから息苦しさを覚えている。己の存在がひどく矮小なものに思えてしまうほどだった。
それなのに、この少女は、どうだ。
身を縮こまらせるどころか、真っ向から天照大神を見据えているではないか。
虚勢を張っているわけではない。恐怖を押し殺している様子も見受けられない。
ただ、真っ直ぐにその瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
東雲は、確信した。
この少女は、強い。
それも、ただ気丈なだけではない。心の奥底に、並大抵のことでは折れぬ何かを秘めているのだ。
(はあ……。まったく、思い出せませんね)
いくら記憶を手繰り寄せても、何ひとつとして蘇ってこない。
思い出そうとすればするほど、頭の中は白く霞んでいく。これでは、いつまで経っても話が進まない。
このままでは、本当に何も聞き出されぬまま、殺されてしまうかもしれない。
それだけは、何としても避けたかった。
しかも、天照大神には、私の心の内を見透かされているような気さえする。
何とも居心地が悪い。
「これを見てもなお動じぬとは、豪胆な娘だ。妾はお前のことが大嫌いだ。跪け。お前が殺めた者たちにな。」
天照大神の双眸は、深淵を覗き込むかのごとく昏く、底知れぬ憤怒を湛えていた。
その声には、聞く者の心胆を寒からしめるほどの威圧感がある。
しかし――。
だからといって、言い返さない理由にはならない。
「ですから、話を聞いてくださいませ。確たる証拠もない限り、私は跪くつもりはございません。どうしてあなた方は、見えているものだけを信じ、事実を見抜こうとなさらないのですか? この国の頂点に君臨する者として、あるまじき事だと思います。あ、あともう一つ。私も貴方様のことが大嫌いですので、大嫌いで結構でございます」
一通りの鬱憤を晴らしたことで、胸のつかえが少しばかり取れた気がした。
……言いたいことは、言えた。
しかし、天照大神は拍子抜けするほど無反応だった。
それどころか、先ほどまで鋭く吊り上がっていた目が、豆粒のようにまん丸になっている。口も半開きのまま、ぴくりとも動かない。
(大嫌いって言われたことが、そんなにショックだったのでしょうか……?)
少々、言い過ぎたかもしれない。
今さらながら後悔が胸を掠めたが、言ってしまったものは仕方がない。これ以上は気にしないことにした。
言われた本人はともかく、周囲の者たちはそうはいかなかった。
「あ、マジか。それ、言っちゃうんだ。本当に本気で言っちゃったんだ……」
誰かが、呆然と呟いた。
この場にいる少女と、国の頂点に君臨する神を除き、誰もが同じことを思っていた。
(人を殺めたかどうかを問われている以前に、別の意味で処罰されるよこれ。)
そう考える者もいた。
天照大神が怒りを露わにするのではないか。あるいは、一人の娘の無礼を理由に、ここにいる者たちまで巻き添えを食うのではないか。
そんな懸念が、場の空気を一層重苦しいものにしていた。
一方、顔色を蒼白にしている者がいるかと思えば、口元を引き攣らせながらも、必死に笑みを取り繕っている者もいた。
笑ってしまえば、天照大神の機嫌を損ねかねない。かといって、真顔を貫けば、今度は少女の異様さが際立ってしまう。
まさに、進退窮まる状況である。
この場には、私を含めて五人の高位の御物がいた。
普段から何を考えているのか分からない変わり者や、頭脳明晰な者、冷徹無慈悲と評される者、さらには軽薄な言動で知られる者まで、誰もが天照大神の怒りを恐れ、息を潜めていた。
◆ ◆ ◆
天照大神は、怒り心頭に発していた。
無理もない。自分に口答えする者など、この世に数えるほどしかいないのだから。
三百年以上も生きてきて、これほどまでに遠慮のない娘を見たのは初めてだった。
正直なところ、この娘が今後どうなろうと知ったことではない。
(無理にでも罪を認めさせてやる)
そう心に決めた直後、目の前の娘が異変に見舞われた。
突如として頭を抱え、苦悶の表情を浮かべたのである。
何やら様子がおかしい。眉間に皺を寄せ、呼吸を乱しながら、必死に苦痛に耐えているようだった。
その傍らでは、東雲が何事かを少女に問いかけている。
「おい! 何があった! 返事をしろ!!」
東雲の甲高い声が、室内に鋭く響き渡った。
だが、少女は応じない。
それどころではなかった。
(うう……痛い……)
突如として襲いかかってきた激痛に、思考がまとまらない。
頭の内側を何かに掻き乱されているような感覚だった。こめかみが脈打ち、視界が明滅する。呼吸を整えようとしても、うまく息が吸えなかった。
これ以上、何も考えたくない。
意識が薄れ始めた頃、どこからともなく奇妙な声が聞こえてきた。
《私らを殺したのは、お前じゃない》
微かに響いたその声は、怨嗟を帯びていた。
(……私たちを、殺した?)
つまり、この声の主は、すでに亡くなっているということだろうか。
私は恐る恐る周囲を見渡した。
すぐそばにいるのは東雲だけ。ほかの者たちは、少し離れた場所に控えている。
ちなみに、東雲の声は聞こえているものの、今の声とは明らかに違っていた。
残るのは、目の前に横たわる亡骸だけ。
――まさか。
この死体が、私に語りかけてきたとでもいうのだろうか。
(いや、あり得ないでしょう。)
死者が口を利くなど、常識では考えられないことだ。
しかし、確かに声が聞こえた。
聞き間違いだと片づけるには、あまりにもはっきりと。
東雲は、私に向かって何かを叫んでいる。けれど、どうやら彼には、あの声が聞こえていないらしい。
私は、かすかな期待を胸に抱いた。
この世界には神が存在し、神通力と呼ばれる特別な力を扱う者もいる。
この部屋へ来る途中、東雲が教えてくれたことだった。
(……もし、私にも神通力とやらが備わっていたとしたら?)
死者の声を聞く力。
そんなものが本当にあるのなら、今の現象にも説明がつく。
そして、この力を使えば、私の話にも耳を傾けてもらえるかもしれない。
淡い期待が、胸の奥に灯った。
私は、縋るような思いで、もう一度目の前の亡骸を見つめた。