「先生」と呼ぶのは禁止です
高校を卒業して、四月から円花は大学生活を始めた。実家から通っているので、あまり大きな生活の変化というものはないが、自室を少しでも大人っぽくしたいと思うようになり、まずは新しい照明器具を買おうかと思った。
そこで、おしゃれな品が多いというその商店街を調べて見つけ、昇治とのデートも兼ねて足を運んでみたのだった。
「でも急ぎじゃないから、とりあえずぶらぶらしたい……な」
丁寧語ではない話し言葉を、円花はぎこちなく紡ぐ。先ほどのお仕置きという脅しを恐れているらしく、その言葉遣いは常にたどたどしい。
その初々しいぎこちなさをかわいく思い、昇治は円花をほほ笑ましく見つめてからその手を取り、自分の手とからめた。
◆◇◆◇◆
――約二カ月前。
穏やかに晴れた卒業式の日。円花が高校の制服を着るのも、その日が最後だった。
体育館で行われた卒業式が終わり、胸に花を付けて拍手の中を堂々と歩いて退場していく卒業生たちを、昇治は少しだけ目を細めて見ていた。
昇治の母校の私立一貫校ほどではないが、広いグラウンドときれいな校舎という良い環境に恵まれたこの公立高校を、今年もまた、多くの生徒たちが巣立っていく。
昇治は大学卒業後にこの高校に赴任し、教師生活三年目を終えようとしていた。自分が高校を卒業したのは七年前で、まだ十年も経っていない。どちらかというと、自分はまだ卒業生の側に近いと言えるだろう。それなのに、卒業生たちに対してしっかりと感慨深さが湧き起こるのは、自分の中に教師心というものが育っている証拠だろうか。
だが、今回はそれだけではないかもしれない。なぜなら、たった一人だけ、どうしても特別に思えて仕方のない生徒が卒業するからだ。
その年度、昇治は三年生の文系クラスの英文法を受け持っていた。前期は週二回、後期は週一回の、大学受験対策が中心の比較的楽な授業だ。
学年の半数は文系なので、その授業をとっている生徒はそれなりにいた。そしてその生徒の一人であった平川円花という女子生徒に、あろうことか昇治は心を奪われてしまっていた。
いったいいつ、何がきっかけで彼女に惚れてしまったのか、正確なことはわからない。けれどこの一年、視界の中で彼女だけがいつも異質だった。うっかり気を抜くと、自分が教師であることも忘れて、たった一人の女の子に熱い眼差しを向けそうになっていた。
彼女と個人的に話す機会が多かったわけではない。むしろ多くの生徒がいる中で、彼女との接点はないに等しかった。円花のほうがよく質問をしに来るということもなく、ごくごく普通の教師と生徒の距離感が保たれていたはずだ。
それでも、気が付いた頃には遅かった。穏やかに友人らと笑い合い、一生懸命受験勉強に取り組む彼女の存在に、ついつい心が引き寄せられてしまっていた。
もちろん、昇治は自制し続けてきた。間違っても円花を特別扱いしないように――自分の気持ちが一ミリでももれ出ないように、ただの教師を演じた。しかしその我慢が余計に、円花との距離を個人的に詰めたいという欲望の灯火を、密やかに燃やし続けたのかもしれない。
そうしてむかえた卒業式の日。やわらかい髪を風になびかせて、今まさに校舎を去ろうとしている早川円花の姿を、昇治は「これで見納めだ」と思ってひっそりと見つめた。
「里田先生、写真お願いしまーっす」
無事に卒業式が終了し、各クラスで行われる最後のホームルームも終わると、卒業生たちは校門へ向かう。荷物を持って校舎に背を向ければ、もう二度と、在校生としてここへ来ることはない。まさに巣立ちだ。
慣例なので、そんな卒業生たちの最後のお見送りをするために、在校生や教師も校門付近に集まってくる。そんな教師たちに見送られて、一人、また一人と卒業生たちが去っていく。
幾人かはスマホを片手にまだ敷地内に残っていたが、それもあとわずかだ。残っている卒業生に写真撮影を乞われた昇治は、見事な愛想笑いを作って彼女らのスマホにおとなしく写されていた。
「里田先生、ちょこっとだけお世話になりました~」
「なんだよ、ちょこっとってのは」
「だって英文法の授業、コマ数少なかったしぃ~」
「でも里田先生みたいなカッコいい先生に教わったって、一生の自慢になっちゃう!」
「大げさだな。馬鹿なことを言っていないで、四月からも頑張れよ」
明るい笑い声を上げながら、希望に満ちあふれた未来へと彼らは歩んでいく。これまでの比ではない苦難も待ち構えているだろうが、せいぜい若者らしく、あがいて頑張ってほしいものだ。
まだまだ自分も若者であるはずの昇治は、自分を棚に上げてそう願った。
そうして最後まで残っていた卒業生を見送り、人が少なくなった校門から校舎へと戻ろうとしたその時――。
「あの、里田先生」
誰かに名前を呼ばれたので、昇治は足を止めて振り向いた。そして目を見張った。そこには、この一年の間に並々ならぬ思いを抱いてきた相手である早川円花が立っていた。
「早川か。みんなと一緒に帰ったんじゃないのか」
一瞬にして心臓が力強く脈打ち始めたが、昇治は平静をよそおった。
彼女のことはなんでもない、なんとも思っていない。「ただの教師と生徒として、最後の別れをするだけだ」と、自分に強く言い聞かせる。
「あの……先生に伝えたいことがあって……」
円花は昇治と目を合わせづらいようで、地面に視線を落としていた。しかし、しばらくの沈黙のあとに勢いよく顔を上げると、まっすぐに昇治を見つめた。
「私は生徒で、里田先生は教師だけど……でも私、里田先生のことが好きでした」
風がそっと吹いた。早咲きの桜の花びらが一枚、二人の間を飛んでいく。
その花びらの向こうに佇む円花は、恐ろしいほど美しく見えた。まるで、この世の何もかもを超越した女神のように。
その美しさに魅入られて、昇治はしばらく何も言えなかった。何か言わなければと思ったが、自分の心臓が早鐘のようにうるさくて、まともに考えられない。
「早川、英語のノートを返却し忘れていた。悪いが、英語科準備室に来てくれないか」
「え? あ、はい」
それなのに、なぜか昇治の口は、見事な嘘を述べ立てていた。
二人は微妙な距離を開けたまま校舎内に戻り、在校生の気配も薄い英語科準備室に向かった。普通の教室の半分の広さもないそこは、向かい合った二つの机と本棚で埋まっており、ろくなスペースはなかった。
昇治は円花が入ったのを確認すると、シャッとカーテンを閉めて円花に振り向いた。円花は本当にノートを受け取るつもりなのか、スクールバッグを床に下ろして、昇治から返却されるのをおとなしく待っている。
(待て……俺は何を言われた?)
そこで、おしゃれな品が多いというその商店街を調べて見つけ、昇治とのデートも兼ねて足を運んでみたのだった。
「でも急ぎじゃないから、とりあえずぶらぶらしたい……な」
丁寧語ではない話し言葉を、円花はぎこちなく紡ぐ。先ほどのお仕置きという脅しを恐れているらしく、その言葉遣いは常にたどたどしい。
その初々しいぎこちなさをかわいく思い、昇治は円花をほほ笑ましく見つめてからその手を取り、自分の手とからめた。
◆◇◆◇◆
――約二カ月前。
穏やかに晴れた卒業式の日。円花が高校の制服を着るのも、その日が最後だった。
体育館で行われた卒業式が終わり、胸に花を付けて拍手の中を堂々と歩いて退場していく卒業生たちを、昇治は少しだけ目を細めて見ていた。
昇治の母校の私立一貫校ほどではないが、広いグラウンドときれいな校舎という良い環境に恵まれたこの公立高校を、今年もまた、多くの生徒たちが巣立っていく。
昇治は大学卒業後にこの高校に赴任し、教師生活三年目を終えようとしていた。自分が高校を卒業したのは七年前で、まだ十年も経っていない。どちらかというと、自分はまだ卒業生の側に近いと言えるだろう。それなのに、卒業生たちに対してしっかりと感慨深さが湧き起こるのは、自分の中に教師心というものが育っている証拠だろうか。
だが、今回はそれだけではないかもしれない。なぜなら、たった一人だけ、どうしても特別に思えて仕方のない生徒が卒業するからだ。
その年度、昇治は三年生の文系クラスの英文法を受け持っていた。前期は週二回、後期は週一回の、大学受験対策が中心の比較的楽な授業だ。
学年の半数は文系なので、その授業をとっている生徒はそれなりにいた。そしてその生徒の一人であった平川円花という女子生徒に、あろうことか昇治は心を奪われてしまっていた。
いったいいつ、何がきっかけで彼女に惚れてしまったのか、正確なことはわからない。けれどこの一年、視界の中で彼女だけがいつも異質だった。うっかり気を抜くと、自分が教師であることも忘れて、たった一人の女の子に熱い眼差しを向けそうになっていた。
彼女と個人的に話す機会が多かったわけではない。むしろ多くの生徒がいる中で、彼女との接点はないに等しかった。円花のほうがよく質問をしに来るということもなく、ごくごく普通の教師と生徒の距離感が保たれていたはずだ。
それでも、気が付いた頃には遅かった。穏やかに友人らと笑い合い、一生懸命受験勉強に取り組む彼女の存在に、ついつい心が引き寄せられてしまっていた。
もちろん、昇治は自制し続けてきた。間違っても円花を特別扱いしないように――自分の気持ちが一ミリでももれ出ないように、ただの教師を演じた。しかしその我慢が余計に、円花との距離を個人的に詰めたいという欲望の灯火を、密やかに燃やし続けたのかもしれない。
そうしてむかえた卒業式の日。やわらかい髪を風になびかせて、今まさに校舎を去ろうとしている早川円花の姿を、昇治は「これで見納めだ」と思ってひっそりと見つめた。
「里田先生、写真お願いしまーっす」
無事に卒業式が終了し、各クラスで行われる最後のホームルームも終わると、卒業生たちは校門へ向かう。荷物を持って校舎に背を向ければ、もう二度と、在校生としてここへ来ることはない。まさに巣立ちだ。
慣例なので、そんな卒業生たちの最後のお見送りをするために、在校生や教師も校門付近に集まってくる。そんな教師たちに見送られて、一人、また一人と卒業生たちが去っていく。
幾人かはスマホを片手にまだ敷地内に残っていたが、それもあとわずかだ。残っている卒業生に写真撮影を乞われた昇治は、見事な愛想笑いを作って彼女らのスマホにおとなしく写されていた。
「里田先生、ちょこっとだけお世話になりました~」
「なんだよ、ちょこっとってのは」
「だって英文法の授業、コマ数少なかったしぃ~」
「でも里田先生みたいなカッコいい先生に教わったって、一生の自慢になっちゃう!」
「大げさだな。馬鹿なことを言っていないで、四月からも頑張れよ」
明るい笑い声を上げながら、希望に満ちあふれた未来へと彼らは歩んでいく。これまでの比ではない苦難も待ち構えているだろうが、せいぜい若者らしく、あがいて頑張ってほしいものだ。
まだまだ自分も若者であるはずの昇治は、自分を棚に上げてそう願った。
そうして最後まで残っていた卒業生を見送り、人が少なくなった校門から校舎へと戻ろうとしたその時――。
「あの、里田先生」
誰かに名前を呼ばれたので、昇治は足を止めて振り向いた。そして目を見張った。そこには、この一年の間に並々ならぬ思いを抱いてきた相手である早川円花が立っていた。
「早川か。みんなと一緒に帰ったんじゃないのか」
一瞬にして心臓が力強く脈打ち始めたが、昇治は平静をよそおった。
彼女のことはなんでもない、なんとも思っていない。「ただの教師と生徒として、最後の別れをするだけだ」と、自分に強く言い聞かせる。
「あの……先生に伝えたいことがあって……」
円花は昇治と目を合わせづらいようで、地面に視線を落としていた。しかし、しばらくの沈黙のあとに勢いよく顔を上げると、まっすぐに昇治を見つめた。
「私は生徒で、里田先生は教師だけど……でも私、里田先生のことが好きでした」
風がそっと吹いた。早咲きの桜の花びらが一枚、二人の間を飛んでいく。
その花びらの向こうに佇む円花は、恐ろしいほど美しく見えた。まるで、この世の何もかもを超越した女神のように。
その美しさに魅入られて、昇治はしばらく何も言えなかった。何か言わなければと思ったが、自分の心臓が早鐘のようにうるさくて、まともに考えられない。
「早川、英語のノートを返却し忘れていた。悪いが、英語科準備室に来てくれないか」
「え? あ、はい」
それなのに、なぜか昇治の口は、見事な嘘を述べ立てていた。
二人は微妙な距離を開けたまま校舎内に戻り、在校生の気配も薄い英語科準備室に向かった。普通の教室の半分の広さもないそこは、向かい合った二つの机と本棚で埋まっており、ろくなスペースはなかった。
昇治は円花が入ったのを確認すると、シャッとカーテンを閉めて円花に振り向いた。円花は本当にノートを受け取るつもりなのか、スクールバッグを床に下ろして、昇治から返却されるのをおとなしく待っている。
(待て……俺は何を言われた?)