氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
立花(たちばな)

 名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、視界がぐらりと傾いた。
 役員フロアの廊下。窓から入る九月の午後の光が、やけに白く滲んで見える。
 その白さの真ん中に、朝霧(あさぎり)ホールディングス副社長・柳井(やない)(みなと)が立っていた。

「――病院へ行け。今、お前に倒れられたら迷惑だ」

 抑揚のない声だった。表情も、いつもと同じで何ひとつ動かない。
 周囲を歩いていた社員たちが、さっと視線を逸らすのがわかった。

 柳井(やない)(みなと)――氷の副社長。
 誰が言い出したのかも覚えていないあだ名が、こういうときだけやたらと実感を伴う。

「……申し訳ありません。ですが、この後サンプルの最終確認が」
「他のスタッフに回した」
「えっ」
「十分前に指示を出した。お前の承認は必要ない」

 手回しがとにかく速い。
 いつからこの人は、私の顔色を見ていたんだろう。

 いや、違う。見ていたんじゃない。見られていたんだ。
 プロジェクトリーダーが使い物にならなくなりそうだと、経営側として判断されただけ。

「これは業務命令だ。行け」

 言い終わるより早く、柳井副社長は踵を返した。
 背中は広くて隙がなく、私の返事なんて最初から待っていない。

 ――迷惑だ、か。

 喉の奥が、熱とは別のところで痛くなった。
 三日前から身体が重い自覚はあった。
 朝起きると節々がだるくて、階段を上がればいつもより鼓動が速い。
 それでも今朝は三十七度二分。この程度で休める立場じゃないと思っていた。

 立花(たちばな)(つむぎ)、二十七歳。入社五年目。
 先月、社長直轄の新規事業――国産フルーツを主役にしたギフトブランドの立ち上げ、そのプロジェクトリーダーに抜擢された。

 社内公募の企画を出したのは私で、通してくれたのは役員会だ。
 つまり、私がここで潰れたら企画ごと潰れる。

 シルバーウィーク明けには、製造パートナーとの最終合意が控えている。
 せめて倒れるなら、その後にしてほしい。

 エレベーターホールへ向かいながら、壁際の鏡に映った自分を見て、思わず目を逸らした。
 血の気がない。前髪も乱れている。

 無意識に、右の耳たぶに触れた。
 一粒パールのピアス。初任給で買った、勝負の日だけつけるもの。

 ――そこには、何もなかった。

 そうだ。三日前に、片方をなくしたんだった。
 どこかで落としたのか、留め具が緩んでいたのか。

 気づいたのは帰宅してからで、翌朝に社内を探したけれど見つからなかった。
 残った片方だけをポーチの内ポケットに入れ、捨てられずにお守りのように持ち歩いている。
 縁起が悪い、なんて思いたくはないけれど。

 せめてエレベーターに乗る前に、引き継ぎのスラックだけ送ろう。
 そう思って鞄からスマートフォンを出したところで、画面の文字が二重に滲んだ。

 まずい。

 壁に手をつこうとしたけれど、届かなかった。
 膝から力が抜け、鞄が手を離れて床に落ちる。
 鈍い音を聞きながら、私は壁に背中を預けるようにして、その場に座り込んでいた。

 立たなきゃと思うのに、指先は冷たく、身体の芯だけが燃えるように熱い。
 誰か来たらまずい。こんなところで倒れたら、それこそ本当に迷惑だ。
 手をついて体重をかけようとしたとき、さっき遠ざかったはずの革靴の音が戻ってきた。

「立花」

 今日、二回目に呼ばれた名前は、さっきまでとはまるで違って聞こえた。
 顔を上げることもできないまま、視界の端に紺色のスーツと、床へ投げ出された上着、それから目の前に膝をつく人の輪郭が映る。

 額に大きな手が触れた。
 ひやりとした感触が気持ちよくて、思わず力が抜ける。

「……はっ」
「――くそ」

 この人が悪態をつくところを、私は初めて聞いた。
 次の瞬間には身体が浮き、抱き上げられているのだと気づいたけれど、抵抗する力なんてもう残っていない。
 シャツから、清潔な石鹸みたいな匂いがした。

「すぐ車を出せ。社用車じゃない、俺の車だ。病院へ行く」

 通話越しの声が頭の上で響く。

「……ふく、しゃちょ?」
「しゃべるな」

 言葉は相変わらず短いのに、抱える腕だけがやけに慎重だった。

「もう、何も心配しなくていい」

 その声が、あまりにも優しかったから。
 私はきっと、熱に浮かされているんだと思った。
< 1 / 22 >

この作品をシェア

pagetop