氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
会社から車で十分ほどのクリニックは、平日の午後にしては混んでいた。
鼻に綿棒を突っ込まれ、十五分待たされて戻ってきた医師の顔には「やっぱり」と書いてある。
「インフルエンザA型、陽性です」
「……インフル、ですか。九月に?」
「今年は流行入りが早くてね。珍しくないですよ。熱、今どのくらいあると思います?」
「三十七度……二分くらいです」
「三十九度一分です。さっき測ったでしょう」
言葉が出なかった。
自分の身体の感覚が、ここまで当てにならないものだとは思わなかった。
「抗インフルエンザ薬を出します。会社の規定も確認してください。少なくとも、熱が下がってすぐ仕事へ戻るのはやめてくださいね。発症から五日ほど、解熱してからも二日くらいは様子を見たほうがいいでしょう」
「……そんなに」
「連休を挟みますし、次の出社は来週明けくらいに考えておいたほうがいいですよ」
一週間。
頭の中で、スケジュール表が音を立てて崩れていく。
「ご家族は?同居の方はいらっしゃいますか」
「いえ、一人暮らしです」
付き添い用の椅子に座っていた柳井副社長の眉が、ほんのわずかに動いた気がした。
医師から水分、薬、安静について説明を受けて診察室を出たものの、待合の椅子から立ち上がるだけで足元が揺れる。
「タクシーを呼びます。ここまで、本当にありがとうございました」
「何を言っている」
「家に帰って寝ます。薬もいただきましたし」
「一人暮らしだろ」
「大丈夫です。私、大人なので」
「大人は会社の廊下で座り込まない」
ぐうの音も出なかった。
結局、待たせてあった車に乗せられ、後部座席へ沈み込む。
運転席から行き先を訊かれた瞬間、柳井副社長は私より先に答えた。
「俺の家へ」
「えっ」
思わず隣を見る。
「副社長、私の家は――」
「知っている。だが、今日は帰さない。四十度近い熱で倒れた人間を、誰もいない部屋へ送れるか」
「でも、これ以上ご迷惑を」
「心配だから帰さない」
心臓が、熱とは違う理由で跳ねた。
けれど、その意味を考える前に、身体がシートへ沈んでいく。
「……感染、とか」
「その辺りは俺が考える。今は寝ろ」
窓の外の景色が滲み始める。意識が落ちる直前、肩に何かがかけられた感触がした。
「もう、何も心配しなくていい」
同じ言葉をもう一度聞きながら、私は今度こそ目を閉じた。
鼻に綿棒を突っ込まれ、十五分待たされて戻ってきた医師の顔には「やっぱり」と書いてある。
「インフルエンザA型、陽性です」
「……インフル、ですか。九月に?」
「今年は流行入りが早くてね。珍しくないですよ。熱、今どのくらいあると思います?」
「三十七度……二分くらいです」
「三十九度一分です。さっき測ったでしょう」
言葉が出なかった。
自分の身体の感覚が、ここまで当てにならないものだとは思わなかった。
「抗インフルエンザ薬を出します。会社の規定も確認してください。少なくとも、熱が下がってすぐ仕事へ戻るのはやめてくださいね。発症から五日ほど、解熱してからも二日くらいは様子を見たほうがいいでしょう」
「……そんなに」
「連休を挟みますし、次の出社は来週明けくらいに考えておいたほうがいいですよ」
一週間。
頭の中で、スケジュール表が音を立てて崩れていく。
「ご家族は?同居の方はいらっしゃいますか」
「いえ、一人暮らしです」
付き添い用の椅子に座っていた柳井副社長の眉が、ほんのわずかに動いた気がした。
医師から水分、薬、安静について説明を受けて診察室を出たものの、待合の椅子から立ち上がるだけで足元が揺れる。
「タクシーを呼びます。ここまで、本当にありがとうございました」
「何を言っている」
「家に帰って寝ます。薬もいただきましたし」
「一人暮らしだろ」
「大丈夫です。私、大人なので」
「大人は会社の廊下で座り込まない」
ぐうの音も出なかった。
結局、待たせてあった車に乗せられ、後部座席へ沈み込む。
運転席から行き先を訊かれた瞬間、柳井副社長は私より先に答えた。
「俺の家へ」
「えっ」
思わず隣を見る。
「副社長、私の家は――」
「知っている。だが、今日は帰さない。四十度近い熱で倒れた人間を、誰もいない部屋へ送れるか」
「でも、これ以上ご迷惑を」
「心配だから帰さない」
心臓が、熱とは違う理由で跳ねた。
けれど、その意味を考える前に、身体がシートへ沈んでいく。
「……感染、とか」
「その辺りは俺が考える。今は寝ろ」
窓の外の景色が滲み始める。意識が落ちる直前、肩に何かがかけられた感触がした。
「もう、何も心配しなくていい」
同じ言葉をもう一度聞きながら、私は今度こそ目を閉じた。