氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
 週末。
 私はまた、あのペントハウスにいた。

 テレビでは、いつもの動物番組がやっている。
 今日は動物園のカワウソ特集で、隣の湊さんは腕を組み、恐ろしく真剣な顔で画面を見ていた。

 私はその隣に座って、皿の上のカットメロンを食べていた。
 ちなみに皿は、例の白磁に青い果実の絵付けがされたものだ。結局、あのとき返さなくて正解だったのかもしれない。

「副社長」
「その呼び方はやめろと言った」
「……湊さん」
「なんだ」

 前髪が下りていて、パーカーで、やっぱり七歳くらい若く見える。

「カワウソ、かわいいですね」
「……ああ」
「認めましたね」

 二週間かかったけれど、この人はついに認めた。
 私が笑うと、不本意そうにテレビへ視線が戻っていく。
 その横顔を見ながら、ずっと引っかかっていたことを思い出した。

「湊さん」
「なんだ」
「ムギの名前を訊いたとき、すぐ答えてくれなかったですよね」

 彼の肩が、わずかに動いた。

「……気のせいだ」
「三秒くらい黙ってました。数えてたので」
「……」
「湊さん?」

 答えは返ってこなかった。リモコンを手に取って音量を二つ下げ、すぐ元に戻すという、なんの意味もない動作だけが続く。
 この人が、意味のない動作をするところを、初めて見た。

「……二年前の役員会だが」

 やがて、観念したように口を開いた。

「はい」
「事前資料に、提案者の名前があった。『立花紬』と」
「はい」

 視線はテレビに向いたままだけれど、たぶん見てはいなかった。

「名前を見た瞬間に、俺は――」

 言葉が止まった。
 言葉を探すようにしばらく黙ったあと、とうとう天井を仰いだ。

「――猫を、思い出した」

 部屋が、静かになった。
 カワウソが石を放り投げる音だけが、小さく響く。

「……つむぎの『むぎ』ですか」
「そうだ」
「ムギの」
「そうだ」

 メロンのフォークを置いた。
 置かないと、落としそうだったから。

「最低だろう」

 彼が、吐き捨てるように言った。

「二十五の部下の名前を、死んだ猫で覚えた。二十年ぶりに思い出した名前が、そこにあったというだけの話だ。そんな理由で、俺はあの日、お前の顔を見つめて……ムギとの共通点ばかり探してた」
「ぷっ。猫との共通点、ですか?」

 いつも完璧な人が、今、明らかに恥じている。
 耳どころか、首まで赤かった。

「言うつもりはなかった」
「……」
「幻滅したか」

 首を横に振った。
 振ってから、うまく声が出なくて少し待った。

「湊さん」
「なんだ」
「それがあったから、私を覚えてくれたんですよね?」

 こちらを向いた彼と、目が合う。

「最初にあなたが顔を上げたのは、ムギのおかげです」

 自分の回答もなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。

「じゃあ、今こうしていられるのも、ムギのおかげですね」
「……あいつには、勝てないな」
「勝たなくていいです」
「そうか」

 何かに納得したのか、ゆっくり息を吐きながら私の頭に手を載せた。
 窓の外の夜景が、にじんで見える。
 十七年生きて、留学の前の日に死んだ、白くて丸い猫。
 会ったことのないその子に、心の中でそっと頭を下げた。

 ――ありがとう。

 私を、この人に見つけさせてくれて。
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