氷の副社長は、熱に浮かされた私を帰さない
「毎晩、明日こそ帰さなければと思っていた」
「……はい」
「一度も、言えなかった」

 一歩だけ、距離が縮まった。

「言わなかったのは、あの家では言えないからだ。飯も薬も屋根も俺が出している場所で好きだと言うのは、取引になる。断れない相手に差し出すものを、好意とは呼ばない」

「だから帰した。お前が自分の足で立って、いつでも俺を切れる場所に戻るまで待った」

 まっすぐな視線だった。
 この人は、一度も、目を逸らさなかった。

「好きだ」

 九月の廊下に、その声だけが落ちた。

「看病を口実にできる期間は終わった。だから、口実なしで来た」

 箱を持つ手が震えているのを止められない。

 嬉しいはずなのに、一瞬だけ別のものが胸をよぎった。

「……私、釣り合いません」

 言ってしまってから、後悔したけれど、でも止まらなかった。

「副社長は次期社長で、私はただの社員です。周りは絶対に、私が抜擢されたのはそのせいだって言います。せっかくの企画が、そんな話で汚れるのは」
「立花。俺が選んだ人間が、そんな噂に負けると思っているのか」

 ――あ。

「言わせておけ。三年で数字を出せば、誰も何も言わない。出すんだろう」
「……出します」
「なら、問題ない」

 この人は口説くときですら、仕事の話でこちらを黙らせる。

「私も、好きです」

 箱を胸に抱えると、七日間ずっと言えなかったことをやっと言った。
 彼の表情は変わらずに、いつもどおりの無表情。

「……もう一度、言え」
「言いません」
「なぜだ」
「二回言ったら、たぶん、副社長を部屋に入れてしまいます……」

 少しの間、何も返ってこなかった。やがて箱から片方のピアスをつまみ上げる。

「動くな」

 顔が近づくと、大きな手が慎重に、私の耳たぶに触れた。
 指先が少し冷たくて、そしてかすかに震えていた。

 いつも完璧な副社長の手が、震えていた。
 かちり、と小さな音が耳元でする。

「――やっと、返せた」

 そう言って抱き寄せられた。腕にこもる力は、思ったよりずっと強かった。
 ジャケットから、あの清潔な石鹸の匂い。
 あの日、意識を失う前に嗅いだのと同じ匂い。

 あのとき「俺の家へ」と言った言葉が、今になって、ようやく全部の意味を持った。

 九月の風が、廊下を吹き抜けていった。
 連休は、今日で終わる。
 明日からは、また仕事だ。

 ――でも、たぶん。
 明日からの私の毎日は、七日前とは、まるで違うものになる。
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