その傷口に、愛を注ぐ

​第1章:美しい箱庭の破綻


深夜二時。

栞はリビングの冷えたフローリングに座り込んでいた。

手の中にあるのは、夫・雅也のスマートフォン。

寝室から、規則正しい寝息が聞こえてくる。

いつもなら安心する音だった。

今日までは。

震える指で、もう一度画面を見る。

見間違いであってほしかった。

けれど、何度見ても文字は変わらない。

『雅也さん、さっきはホテルまで送ってくれてありがとうございました。奥様には、うまく言い訳できましたか?♥』

送り主は、有村莉子。

雅也の部下。

何度か会社の集まりで会ったことがある。

若くて、華やかで、よく笑う女性だった。

――奥様って、本当に素敵ですね。

そう言って、栞の料理を褒めてくれたこともある。

「……うそ」

声にした途端、喉の奥が焼けた。

ホテル。

言い訳。

そして、最後についた赤いハート。

それだけで充分だった。

それなのに栞は、何度も文章を読み返した。

何か別の意味を探そうとしていた。

仕事でホテルへ行っただけかもしれない。

送っただけかもしれない。

「奥様には」という言葉だって――。

「…………」

無理だった。

どう読んでも、そこにある意味は変わらない。

スマートフォンを握る手から、力が抜けた。

結婚して七年。

長かったのか、短かったのか。

今はもう、それすら分からない。

雅也に「家にいてほしい」と言われ、好きだったデザインの仕事を辞めた。

忙しい彼のために食事を作った。

帰宅時間に合わせて風呂を沸かした。

ワイシャツには毎朝アイロンをかけた。

取引先を家に招く日は、雅也が恥をかかないよう料理も部屋も完璧に整えた。

愚痴は言わなかった。

疲れて帰ってくる雅也を困らせたくなかったから。

いつも笑っていた。

雅也が望む妻でいれば、幸せでいられると思っていた。

なのに。

(私、何してたんだろう)

胸の奥にぽっかりと穴が開いた。

怒りより先に浮かんだのは、それだった。

七年間。

私は、何を守っていたのだろう。

何のために、自分の好きだったものを手放したのだろう。

その答えを知っているはずの男は、壁一枚隔てた向こうで眠っている。

何も知らずに。

何も失わずに。

いつもと同じように。

「……ずるい」

ぽつりと落ちた声が震えた。

その瞬間、初めて涙がこぼれた。
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