その傷口に、愛を注ぐ
翌日の夜。
栞は家に帰れなかった。
帰れば雅也がいる。
顔を見たら、何を言ってしまうか分からない。
責めたい。
問い詰めたい。
嘘だと言ってほしい。
謝ってほしい。
――それでも自分を選ぶと言ってほしい。
そんな自分が、一番嫌だった。
「……最低」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
雨が降り始めていた。
細い雨粒がトレンチコートの肩を濡らす。
傘を買おうとも思わなかった。
むしろ、もっと濡れてしまいたかった。
そうすれば、この息苦しさまで流れていく気がした。
あてもなく歩き続ける。
どこまで来たのだろう。
知らない路地に入り込んでいた。
そのとき。
暗がりの向こうに、ぽつりと灯りが見えた。
「……花屋?」
小さなフラワーショップだった。
こんな時間なのに、店内には柔らかな明かりが灯っている。
ガラス越しに見える花々だけが、雨の夜から切り離されたように鮮やかだった。
なぜか、目を離せなかった。
栞はしばらく店の前に立っていた。
帰る場所をなくした自分を、そこだけが待っているような気がした。
そんなはず、ないのに。
気づけば扉に手をかけていた。
カラン。
小さなベルが鳴る。
湿った夜気の代わりに、土と花の香りが身体を包んだ。
息を吸った瞬間。
張り詰めていた胸が、ほんの少しだけ緩んだ。
「いらっしゃいませ」
低く静かな声。
栞は顔を上げた。
店の奥から、一人の青年が歩いてくる。
黒いエプロン。
すらりとした長身。
白磁のような肌。
整った顔立ちなのに、華やかというより、どこか現実離れして見えた。
夜の中にだけ存在する人のようだった。
「あの……すみません。こんな時間に」
青年は栞を見つめた。
ほんの一瞬。
その瞳が揺れたように見えた。
驚いたような。
ようやく見つけたものを確かめるような。
けれど、すぐに静かな表情へ戻る。
「いいえ」
青年は微かに笑った。
「夜の方が、静かに花を選べますから」
その声が、不思議なくらい耳に残った。