光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第10話 つづかない夜
外病院に移って、3か月が過ぎた頃だった。
理久は、病院から少し離れた駅のホテルバーにいた。
明日も仕事がある。
真っ直ぐ帰って、シャワーを浴びて、眠る。
いつもどおりに過ごせばいいだけだった。
けれど、今夜はもう少し、仕事と関係のない時間を過ごしたかった。
大学病院にいた頃から、院内で恋愛沙汰を起こすつもりはなかった。
医師も看護師も、技師も薬剤師も、仕事で関わる相手だ。
関係がこじれれば、面倒なのは自分だけではない。
だから、病院から離れた。
医局の人間に会うことも、患者の話を持ち込まれることも、まずないだろう。
カウンターの端に座り、グラスを傾ける。
氷が小さく音を立てた。
仕事は面白かった。
大学病院より人手は少なく、自分で判断しなければならない場面も多い。
病棟から呼ばれ、手術に入り、後輩に聞かれ、患者家族に説明する。
自分が動けば、結果が返ってくる。
必要とされる理由が、はっきりしている。
それは理久にとって、心地よいことだった。
ただ、仕事が終わったあとまで、何かを考え続けたいわけではない。
今夜くらいは、何の役にも立たない時間があってもいい。
グラスを置いたところで、隣から声がした。
「ここ、空いてますか」
理久は顔を上げた。
自分より少し年上だろうか。
落ち着いた紺のワンピースに、細いピアス。
仕事帰りらしい疲れは見えるが、姿勢は崩れていなかった。
「どうぞ」
女性は軽く会釈をして、腰を下ろした。
しばらく、互いに何も話さなかった。
バーテンダーが、彼女の前に淡い琥珀色の酒を置く。
「お医者さんですか」
不意に聞かれ、理久は彼女を見た。
「どうして?」
「手」
「手?」
「指がきれいなのに、爪だけすごく実用的だから」
理久は自分の手元に目を落とした。
短く切り揃えた爪。
「なるほど」
女性が小さく笑った。
「外科?」
「分かるんだ」
「なんとなく。外科の先生って、座っていても急ぎそうに見える」
「今日は急いでないよ」
「じゃあ、帰りたくない日?」
理久は少しだけ黙った。
……帰りたくない。
そう言われると、少し違う気がする。
帰る部屋はあるし、眠るベッドもある。
一人で過ごすことに、不満があるわけでもない。
ただ、今は帰らなくてもいいと思っている。
「帰れないわけじゃないよ」
女性は、少し目を細めた。
「答えが正確ですね」
「よく言われる」
「褒めてないかも」
「それも、よく言われる」
女性が声を出して笑った。
理久も、わずかに口元を緩めた。
その笑い方を、悪くないと思った。
◇
会話は、ゆっくり続いた。
女性は出版社に勤めていると言った。
医療とは関係のない仕事だった。
理久がどこの病院に勤めているのかも、詳しく聞いてこない。
理久も、彼女の名前をすぐには聞かなかった。
仕事のことを説明する必要もない。
互いの知人を確かめる必要もない。
今夜が終わったあと、どこかで顔を合わせる心配も、ほとんどない。
その距離が楽だった。
女性は、話し上手だった。
自分のことばかり話すわけではなく、かといって理久のことを知ろうと質問を重ねるわけでもない。
沈黙があっても、無理に埋めようとしなかった。
理久も、自然と会話を続けていた。
病院で覚えた、相手の言葉を遮らない話し方。
穏やかな声。
必要以上に踏み込まない距離。
そうしたものは、ここでも役に立った。
けれど、仕事のために身につけた振る舞いを、意識して使っているわけではなかった。
単純に、彼女との時間が心地よかった。
紺のワンピースから伸びた腕が、グラスを持ち上げる。
細いピアスが、顔を動かすたびにわずかに揺れた。
理久は、その横顔に目を留めた。
綺麗な人だと思った。
それだけの理由で、もう少し一緒にいたいと思うこともある。
グラスが2杯目になった頃、女性が言った。
「先生って、優しいんですか」
「どうだろう」
「今、優しく話してくれてますよ」
「それは、別に優しさじゃないよ」
「じゃあ何?」
理久は少し考えた。
「失礼じゃないようにしてるだけ」
「それを優しさって言う人もいます」
「言わない人もいる」
「先生は、言わない人?」
「たぶん」
女性は理久を見た。
少し酔いの混じった、まっすぐな目だった。
「じゃあ、恋人には優しくないの?」
「今はいない」
「前は?」
理久はグラスを持ち上げた。
「いたよ」
「別れた?」
「うん」
「振られた?」
「そうだと思う」
「先生でも振られるんですね」
「振られるよ」
「理由は?」
理久は少しだけ目を伏せた。
――私がいなくなったら、困る?
あの問いが、ふと頭をよぎった。
彼女がいなくなっても、生活は変わらなかった。
好きではあった。
一緒にいる時間も、楽しかった。
けれど、いなくなって困ったことはない。
「困らなかったから」
女性は一瞬、黙った。
「それ、正直に言ったんですか」
「言ってないよ」
「言わなくても伝わったんですね」
「たぶん」
「ひどい人」
責めるような口調ではなかった。
理久は彼女を見た。
「そうだね」
女性が、少し不思議そうな顔をした。
「そこは否定しないんだ」
「違うと思ってないから」
「本当に正確」
理久はグラスを置いた。
目の前の女性を、魅力的だと思っている。
彼女も、おそらく気づいている。
ただ、その先のことまで期待されるのは違う。
もう、関係を持ったからという理由だけで、恋人になるつもりはなかった。
「嫌なら、やめるよ」
「何を?」
理久は答えなかった。
女性は、すぐには目を逸らさなかった。
それから、グラスの縁に指を添える。
「続ける気はないんでしょう?」
「ないよ」
「即答ですね」
「嘘はつきたくないから」
「優しくない」
「だったら、やめる?」
女性は理久を見た。
店内には、ピアノの音が静かに流れていた。
窓の向こうでは、雨が降っている。
しばらくして、女性は残っていた酒を飲み干した。
グラスを置き、理久の目を見る。
それから、自分のバッグを手に取った。
理久は会計を済ませ、彼女と並んで席を立った。
どちらからも、その先の約束はしなかった。
理久は、病院から少し離れた駅のホテルバーにいた。
明日も仕事がある。
真っ直ぐ帰って、シャワーを浴びて、眠る。
いつもどおりに過ごせばいいだけだった。
けれど、今夜はもう少し、仕事と関係のない時間を過ごしたかった。
大学病院にいた頃から、院内で恋愛沙汰を起こすつもりはなかった。
医師も看護師も、技師も薬剤師も、仕事で関わる相手だ。
関係がこじれれば、面倒なのは自分だけではない。
だから、病院から離れた。
医局の人間に会うことも、患者の話を持ち込まれることも、まずないだろう。
カウンターの端に座り、グラスを傾ける。
氷が小さく音を立てた。
仕事は面白かった。
大学病院より人手は少なく、自分で判断しなければならない場面も多い。
病棟から呼ばれ、手術に入り、後輩に聞かれ、患者家族に説明する。
自分が動けば、結果が返ってくる。
必要とされる理由が、はっきりしている。
それは理久にとって、心地よいことだった。
ただ、仕事が終わったあとまで、何かを考え続けたいわけではない。
今夜くらいは、何の役にも立たない時間があってもいい。
グラスを置いたところで、隣から声がした。
「ここ、空いてますか」
理久は顔を上げた。
自分より少し年上だろうか。
落ち着いた紺のワンピースに、細いピアス。
仕事帰りらしい疲れは見えるが、姿勢は崩れていなかった。
「どうぞ」
女性は軽く会釈をして、腰を下ろした。
しばらく、互いに何も話さなかった。
バーテンダーが、彼女の前に淡い琥珀色の酒を置く。
「お医者さんですか」
不意に聞かれ、理久は彼女を見た。
「どうして?」
「手」
「手?」
「指がきれいなのに、爪だけすごく実用的だから」
理久は自分の手元に目を落とした。
短く切り揃えた爪。
「なるほど」
女性が小さく笑った。
「外科?」
「分かるんだ」
「なんとなく。外科の先生って、座っていても急ぎそうに見える」
「今日は急いでないよ」
「じゃあ、帰りたくない日?」
理久は少しだけ黙った。
……帰りたくない。
そう言われると、少し違う気がする。
帰る部屋はあるし、眠るベッドもある。
一人で過ごすことに、不満があるわけでもない。
ただ、今は帰らなくてもいいと思っている。
「帰れないわけじゃないよ」
女性は、少し目を細めた。
「答えが正確ですね」
「よく言われる」
「褒めてないかも」
「それも、よく言われる」
女性が声を出して笑った。
理久も、わずかに口元を緩めた。
その笑い方を、悪くないと思った。
◇
会話は、ゆっくり続いた。
女性は出版社に勤めていると言った。
医療とは関係のない仕事だった。
理久がどこの病院に勤めているのかも、詳しく聞いてこない。
理久も、彼女の名前をすぐには聞かなかった。
仕事のことを説明する必要もない。
互いの知人を確かめる必要もない。
今夜が終わったあと、どこかで顔を合わせる心配も、ほとんどない。
その距離が楽だった。
女性は、話し上手だった。
自分のことばかり話すわけではなく、かといって理久のことを知ろうと質問を重ねるわけでもない。
沈黙があっても、無理に埋めようとしなかった。
理久も、自然と会話を続けていた。
病院で覚えた、相手の言葉を遮らない話し方。
穏やかな声。
必要以上に踏み込まない距離。
そうしたものは、ここでも役に立った。
けれど、仕事のために身につけた振る舞いを、意識して使っているわけではなかった。
単純に、彼女との時間が心地よかった。
紺のワンピースから伸びた腕が、グラスを持ち上げる。
細いピアスが、顔を動かすたびにわずかに揺れた。
理久は、その横顔に目を留めた。
綺麗な人だと思った。
それだけの理由で、もう少し一緒にいたいと思うこともある。
グラスが2杯目になった頃、女性が言った。
「先生って、優しいんですか」
「どうだろう」
「今、優しく話してくれてますよ」
「それは、別に優しさじゃないよ」
「じゃあ何?」
理久は少し考えた。
「失礼じゃないようにしてるだけ」
「それを優しさって言う人もいます」
「言わない人もいる」
「先生は、言わない人?」
「たぶん」
女性は理久を見た。
少し酔いの混じった、まっすぐな目だった。
「じゃあ、恋人には優しくないの?」
「今はいない」
「前は?」
理久はグラスを持ち上げた。
「いたよ」
「別れた?」
「うん」
「振られた?」
「そうだと思う」
「先生でも振られるんですね」
「振られるよ」
「理由は?」
理久は少しだけ目を伏せた。
――私がいなくなったら、困る?
あの問いが、ふと頭をよぎった。
彼女がいなくなっても、生活は変わらなかった。
好きではあった。
一緒にいる時間も、楽しかった。
けれど、いなくなって困ったことはない。
「困らなかったから」
女性は一瞬、黙った。
「それ、正直に言ったんですか」
「言ってないよ」
「言わなくても伝わったんですね」
「たぶん」
「ひどい人」
責めるような口調ではなかった。
理久は彼女を見た。
「そうだね」
女性が、少し不思議そうな顔をした。
「そこは否定しないんだ」
「違うと思ってないから」
「本当に正確」
理久はグラスを置いた。
目の前の女性を、魅力的だと思っている。
彼女も、おそらく気づいている。
ただ、その先のことまで期待されるのは違う。
もう、関係を持ったからという理由だけで、恋人になるつもりはなかった。
「嫌なら、やめるよ」
「何を?」
理久は答えなかった。
女性は、すぐには目を逸らさなかった。
それから、グラスの縁に指を添える。
「続ける気はないんでしょう?」
「ないよ」
「即答ですね」
「嘘はつきたくないから」
「優しくない」
「だったら、やめる?」
女性は理久を見た。
店内には、ピアノの音が静かに流れていた。
窓の向こうでは、雨が降っている。
しばらくして、女性は残っていた酒を飲み干した。
グラスを置き、理久の目を見る。
それから、自分のバッグを手に取った。
理久は会計を済ませ、彼女と並んで席を立った。
どちらからも、その先の約束はしなかった。