光のはじまり ― 王子が困るまで ―
シャワーを浴びながら、理久は天井を見上げた。

温かい湯が、雨の冷たさを流していく。


けれど、頭の中はあまり静かにならなかった。

綾瀬美月が、自分の部屋にいる。

その事実だけが、何度も戻ってくる。


院内の看護師。

10A病棟。

駅ビルで会った人。

エレベーターで三回否定した人。

包交介助で、性格が悪いと言ってきた人。

飲み会で、疲れないのかと聞いてきた人。

王子の顔ではなく、その顔を使っている理久を見てきた人。


その人が今、自分の部屋でコーヒーを飲んでいる。

意味が分からない。

でも、嫌ではない。

それが一番困る。


昔なら、もっと簡単だった。

近づくことも。

触れることも。

その先へ進むことも。

相手が望んでいて、自分も望んでいるなら、線を越えることに大した意味はなかった。


けれど今夜は違う。

越えない。

絶対に越えない。

そう決めることに、こんなに神経を使っている。

それが妙におかしかった。


浴室の鏡に映る自分は、いつも通りの顔をしている。

病院で王子と呼ばれる顔。

飲み会で適当に笑っていた顔。

誰にでも優しく、誰にも深く踏み込ませない顔。


けれど、その内側は全然スマートではなかった。

綾瀬美月が困らないように。

怖がらないように。

疑いながらでも、少しだけ安心できるように。

そんなことばかり考えている。


理久は湯を止め、タオルで髪を拭いた。

早く戻った方がいい。

一人にしておくと、彼女は余計に警戒するかもしれない。

そう思った。

本気でそう思った。


だから、戻った。


リビングへ戻ると、綾瀬美月はソファの端で眠っていた。

理久は足を止めた。

「……寝てるよ」

小さく呟いた声が、静かな部屋に落ちた。


さっきの警戒はなんだったわけ?


そう思って、ため息が出そうになった。

男性の部屋にいる。

しかも、借り物の服を着ている。

雨宿りだけと言われたとはいえ、相手は自分だ。

普通は、もっと警戒するのではないか。


いや、警戒していた。

あれだけ疑っていた。

危ない発言だと刺してきた。

何もしないという人ほど信用できないと睨んできた。


それなのに。

寝ている。


大きめのカーディガンに包まって、空に近いカップを手元に置いたまま、すっかり力が抜けている。

綾瀬美月は、本当に謎な生き物だと思った。


手を出すつもりはない。

当然、ない。


けれど、無警戒な姿はさすがに危険すぎる。

逆に心配になる。


理久は近くにあったブランケットを手に取った。

起こさないように近づく。

肩にかけようとして、少しだけ手が止まった。

頬に、指先が触れそうだった。


触れたいと思った。

ほんの一瞬。


けれど、触れなかった。

ここで触れたら、雨宿りだけではなくなる気がした。


理久はブランケットだけをそっとかけ、すぐに身体を離した。

そして、少し離れた一人掛けのチェアに腰を下ろす。

窓の外では、まだ雨が降っている。

夜景はぼんやり霞んでいた。


理久は眠っている綾瀬美月を見て、小さく息を吐いた。

「雨宿りだけ、だからね」

眠っている彼女には聞こえない。

それでも、理久はその距離を選んだ。


雨宿りだけ。


そう言い聞かせている相手が、彼女なのか、自分なのか。

もう、少し分からなくなっていた。
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