光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第29話 助けてよ
忘年会シーズン。
病棟ごとに飲み会の予定が入り、院内では連日のように誰かが二日酔いの話をしていた。
その夜、理久が顔を出すことになっていたのは9C病棟の飲み会だった。予定外の対応が入って少し遅れたものの、店に着いた頃には、まだ十分に賑わっていた。
店員に個室の場所を確認し、廊下を進んでいると、お手洗いの方から見慣れた男が歩いてきた。
「お、藤崎。お前も飲み会?」
桐谷だった。
「そう。仕事で遅れて、今来たところ。桐谷は?」
「10A」
理久は足を緩めた。
ーー10A。
綾瀬美月のいる病棟だ。
あの夜、ピアスを返し、チェスをして、食事にも行った。彼女は相変わらず警戒心が強く、こちらの言葉を簡単には受け取ってくれなかった。
けれど、もう一度会いたいと思うくらいには、楽しかった。
「……へえ」
理久がそう返すと、桐谷が少し首を傾げた。
「何? 知り合いでもいる?」
「病棟のスタッフなら何人か知ってるよ」
「そりゃそうだろ。そういう意味じゃなくて」
桐谷が笑う。
理久は、それ以上付き合わなかった。
「じゃあ、また」
軽く手を上げて通り過ぎる。
背後から、桐谷の笑いを含んだ声が聞こえた。
「はいはい。お疲れ」
……何が、はいはいなんだか。
理久は振り返らず、9Cの個室へ向かった。
◇
桐谷は、その後ろ姿を見送っていた。
先日、理久から聞いた話を思い出す。
女性を家に泊めた。
けれど、何もしなかった。
朝食を作り、食事に誘い、忘れ物を返す口実で次の約束まで作った。
相手の名前は、頑として教えなかった。
それが今、10Aと聞いて、ほんのわずかに反応した。
「……なるほどね」
桐谷は小さく笑った。
もしかしたら、10Aの誰かかもしれない。
あとは本人を見れば、多少は見当がつくかもしれない。
桐谷は自分の席へ戻った。
いつもなら、他人の恋愛をそこまで詮索するつもりはない。
ただ、藤崎理久の場合は別だった。
あの男が、女性のことであんなに回りくどい話をするなど、大学時代にも滅多になかったのだから。
◇
「藤崎先生、お疲れ様です!」
理久が9Cの個室に入ると、すぐに何人かが席を空けてくれた。
「お仕事、大変でした?」
「飲み物、何にしますか?」
「こちら、料理もまだありますよ」
理久は遅れたことを詫びながら、勧められた席に着いた。
乾杯を済ませ、料理に手を伸ばす。仕事中にはあまり話す機会のない看護師からも声をかけられ、自然と会話の中心に入っていった。
患者の話。
休日の過ごし方。
趣味の話。
相手が話しやすいように言葉を返し、適度に冗談を挟む。医師として答えるべき質問には答え、それ以外の話題は場の空気に合わせた。
こういう席で求められる振る舞いは、もうよく分かっていた。
「藤崎先生って、休日もお仕事してるんですか?」
「そういう日もあるけど、毎週じゃないよ」
「じゃあ、今度みんなで遊びに行きません?」
「予定が合えばね」
理久は笑顔で答え、勧められた料理に手を伸ばした。
好意を向けられることにも、相手の気分を損ねずにかわすことにも慣れている。今夜も、いつもどおりだった。
……そのはずなのに。
ふとした拍子に、桐谷との会話が頭をよぎった。
10Aも、この店にいる。
綾瀬美月も来ているのだろうか。
来ているとしたら、今頃何を話しているのだろう。
病棟の人たちと仕事の愚痴でも言い合っているのか。それとも、黙々と食事をしているのか。
理久はグラスを口元へ運んだ。
自分がこの店にいると知っても、彼女はきっと何も変わらないだろう。
『そうですか』
せいぜい、その程度だ。
彼女の声で想像できてしまい、理久は少し笑った。
「先生、何か面白いことありました?」
向かいの看護師に尋ねられ、顔を上げる。
「いや。何でもないよ」
理久はいつもの笑顔に戻った。
目の前の会話に集中すればいい。
同じ店にいるからといって、わざわざ10Aの席を覗きに行く理由もないのだから。
◇
しばらくして、理久は席を外した。
お手洗いで手を洗い、鏡を見ながら、ようやく小さく息を吐く。
思っていたより疲れている。
仕事のあとに遅れて参加したせいもあるだろう。
それにしても、さっきから余計なことばかり考えていた。
桐谷に10Aだと聞かなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
……いや。
聞かなかったら、知らないままだっただけか。
理久は手を拭き、個室へ戻ろうとした。
その時だった。
「先生〜、見つけた!」
廊下に出た途端、横から腕を組まれた。
9Cの看護師だった。頬は赤く、先ほど席で話した時よりも明らかに酔っている。
「探しに来ちゃいました」
「そうだったんだ。そろそろ戻ろうか」
理久は穏やかに答えながら、腕を外そうとした。
ところが、彼女はかえって身を寄せてくる。
「えー、もうちょっとだけ。先生、全然こっちで話してくれないんですもん」
「そんなことないよ。さっきも話してたでしょ」
「足りません」
……困ったな。
理久は周囲を確認した。
ここは病院関係者が大勢集まっている居酒屋だ。廊下を誰が通るかも分からない。
女性を支えなければならないほど酔っているわけではない。かといって、腕を引いて距離を取ろうとしても、相手は離れる気配がなかった。
「腕は離してもらっていいかな」
声を落として伝えると、彼女は一瞬こちらを見上げた。
「……怒ってます?」
「怒ってないよ。ただ、ここだと通る人の邪魔になるから」
理久は笑顔を崩さず、半歩ほど身体を引いた。
背中に壁が近づく。
これ以上は近づかせない。
相手の気分を損ねずに切り抜けようとするのも、いつものことだった。
「藤崎先生って、ほんと優しいですよねぇ」
女性が甘えるような声を出した。
理久は困ったように笑い、もう一度、腕をやんわり外そうとした。
「ありがとうございます。でも、そろそろ戻った方がいいですよ」
「えー、もうちょっとだけ」
「皆さん待ってますから」
「先生も一緒に来てくださいよ」
もちろん、そのつもりだった。
ただ、こうして腕を組まれたまま戻るわけにもいかない。
理久が返事をしようとした時、廊下の向こうに人影が見えた。
綾瀬美月。
……あ。
病棟ごとに飲み会の予定が入り、院内では連日のように誰かが二日酔いの話をしていた。
その夜、理久が顔を出すことになっていたのは9C病棟の飲み会だった。予定外の対応が入って少し遅れたものの、店に着いた頃には、まだ十分に賑わっていた。
店員に個室の場所を確認し、廊下を進んでいると、お手洗いの方から見慣れた男が歩いてきた。
「お、藤崎。お前も飲み会?」
桐谷だった。
「そう。仕事で遅れて、今来たところ。桐谷は?」
「10A」
理久は足を緩めた。
ーー10A。
綾瀬美月のいる病棟だ。
あの夜、ピアスを返し、チェスをして、食事にも行った。彼女は相変わらず警戒心が強く、こちらの言葉を簡単には受け取ってくれなかった。
けれど、もう一度会いたいと思うくらいには、楽しかった。
「……へえ」
理久がそう返すと、桐谷が少し首を傾げた。
「何? 知り合いでもいる?」
「病棟のスタッフなら何人か知ってるよ」
「そりゃそうだろ。そういう意味じゃなくて」
桐谷が笑う。
理久は、それ以上付き合わなかった。
「じゃあ、また」
軽く手を上げて通り過ぎる。
背後から、桐谷の笑いを含んだ声が聞こえた。
「はいはい。お疲れ」
……何が、はいはいなんだか。
理久は振り返らず、9Cの個室へ向かった。
◇
桐谷は、その後ろ姿を見送っていた。
先日、理久から聞いた話を思い出す。
女性を家に泊めた。
けれど、何もしなかった。
朝食を作り、食事に誘い、忘れ物を返す口実で次の約束まで作った。
相手の名前は、頑として教えなかった。
それが今、10Aと聞いて、ほんのわずかに反応した。
「……なるほどね」
桐谷は小さく笑った。
もしかしたら、10Aの誰かかもしれない。
あとは本人を見れば、多少は見当がつくかもしれない。
桐谷は自分の席へ戻った。
いつもなら、他人の恋愛をそこまで詮索するつもりはない。
ただ、藤崎理久の場合は別だった。
あの男が、女性のことであんなに回りくどい話をするなど、大学時代にも滅多になかったのだから。
◇
「藤崎先生、お疲れ様です!」
理久が9Cの個室に入ると、すぐに何人かが席を空けてくれた。
「お仕事、大変でした?」
「飲み物、何にしますか?」
「こちら、料理もまだありますよ」
理久は遅れたことを詫びながら、勧められた席に着いた。
乾杯を済ませ、料理に手を伸ばす。仕事中にはあまり話す機会のない看護師からも声をかけられ、自然と会話の中心に入っていった。
患者の話。
休日の過ごし方。
趣味の話。
相手が話しやすいように言葉を返し、適度に冗談を挟む。医師として答えるべき質問には答え、それ以外の話題は場の空気に合わせた。
こういう席で求められる振る舞いは、もうよく分かっていた。
「藤崎先生って、休日もお仕事してるんですか?」
「そういう日もあるけど、毎週じゃないよ」
「じゃあ、今度みんなで遊びに行きません?」
「予定が合えばね」
理久は笑顔で答え、勧められた料理に手を伸ばした。
好意を向けられることにも、相手の気分を損ねずにかわすことにも慣れている。今夜も、いつもどおりだった。
……そのはずなのに。
ふとした拍子に、桐谷との会話が頭をよぎった。
10Aも、この店にいる。
綾瀬美月も来ているのだろうか。
来ているとしたら、今頃何を話しているのだろう。
病棟の人たちと仕事の愚痴でも言い合っているのか。それとも、黙々と食事をしているのか。
理久はグラスを口元へ運んだ。
自分がこの店にいると知っても、彼女はきっと何も変わらないだろう。
『そうですか』
せいぜい、その程度だ。
彼女の声で想像できてしまい、理久は少し笑った。
「先生、何か面白いことありました?」
向かいの看護師に尋ねられ、顔を上げる。
「いや。何でもないよ」
理久はいつもの笑顔に戻った。
目の前の会話に集中すればいい。
同じ店にいるからといって、わざわざ10Aの席を覗きに行く理由もないのだから。
◇
しばらくして、理久は席を外した。
お手洗いで手を洗い、鏡を見ながら、ようやく小さく息を吐く。
思っていたより疲れている。
仕事のあとに遅れて参加したせいもあるだろう。
それにしても、さっきから余計なことばかり考えていた。
桐谷に10Aだと聞かなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
……いや。
聞かなかったら、知らないままだっただけか。
理久は手を拭き、個室へ戻ろうとした。
その時だった。
「先生〜、見つけた!」
廊下に出た途端、横から腕を組まれた。
9Cの看護師だった。頬は赤く、先ほど席で話した時よりも明らかに酔っている。
「探しに来ちゃいました」
「そうだったんだ。そろそろ戻ろうか」
理久は穏やかに答えながら、腕を外そうとした。
ところが、彼女はかえって身を寄せてくる。
「えー、もうちょっとだけ。先生、全然こっちで話してくれないんですもん」
「そんなことないよ。さっきも話してたでしょ」
「足りません」
……困ったな。
理久は周囲を確認した。
ここは病院関係者が大勢集まっている居酒屋だ。廊下を誰が通るかも分からない。
女性を支えなければならないほど酔っているわけではない。かといって、腕を引いて距離を取ろうとしても、相手は離れる気配がなかった。
「腕は離してもらっていいかな」
声を落として伝えると、彼女は一瞬こちらを見上げた。
「……怒ってます?」
「怒ってないよ。ただ、ここだと通る人の邪魔になるから」
理久は笑顔を崩さず、半歩ほど身体を引いた。
背中に壁が近づく。
これ以上は近づかせない。
相手の気分を損ねずに切り抜けようとするのも、いつものことだった。
「藤崎先生って、ほんと優しいですよねぇ」
女性が甘えるような声を出した。
理久は困ったように笑い、もう一度、腕をやんわり外そうとした。
「ありがとうございます。でも、そろそろ戻った方がいいですよ」
「えー、もうちょっとだけ」
「皆さん待ってますから」
「先生も一緒に来てくださいよ」
もちろん、そのつもりだった。
ただ、こうして腕を組まれたまま戻るわけにもいかない。
理久が返事をしようとした時、廊下の向こうに人影が見えた。
綾瀬美月。
……あ。