光のはじまり ― 王子が困るまで ―
彼女も、こちらへ歩いてきている。
一瞬、足が止まりかけたように見えた。
こちらを見た。
そして、目が合った。
理久は思わず、彼女を見つめた。
ーー助けて。
反射的に、そんな言葉が浮かんだ。
声には出していない。
それでも、この状況を見れば分かるだろう。
自分が笑ってはいるものの、決して楽しんでいるわけではないことくらい。
綾瀬美月は、一瞬だけこちらを見た。
そして。
何事もなかったように、無表情で視線を外した。
そのまま、通り過ぎていく。
……え?
理久は、腕を組まれたまま立ち尽くした。
見えていたよね?
今、確かに。
彼女は振り返らなかった。
少し早足になることも、こちらへ声をかけることもない。ただ、いつもの足取りで廊下を進んでいった。
……助けてよ。
思わず、そう思った。
もちろん、声には出せない。
ここで彼女に割って入ってもらえば、余計な憶測を招くかもしれない。何も見なかったことにしてくれる方が、むしろ親切だ。
理屈では分かっている。
それなのに。
……本当に、行っちゃうんだ。
「先生?」
腕を組んだ女性が、不思議そうに見上げてきた。
理久は視線を戻した。
「ごめんね。戻って、お水でも飲もうか」
「えー?」
「だいぶ飲んでるみたいだから。心配だよ」
女性は少し不満そうだったが、理久が先に歩き出すと、ようやく腕を離した。
彼女を個室まで連れて戻り、近くにいた9Cの看護師へ声をかける。
「少し酔っているみたいだから、お水をお願いしてもいい?」
「あ、大丈夫? ちょっと飲みすぎじゃない?」
同僚がすぐに気づき、席を整えてくれた。
理久は礼を言い、自分の席へ戻った。
これで一件落着。
いつもなら、それで終わりだった。
◇
「藤崎先生、大丈夫ですか?」
隣に来た相澤が、周囲に聞こえない声で尋ねた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
理久が答えると、相澤は酔った看護師の方へちらりと視線を向けた。
「先生、こっちで飲みません? さっきから休日の話で盛り上がってるんですよ」
相澤は何でもないように、自分たちの席を示した。
その意図はすぐに分かった。
場所を変えれば、また同じ女性に声をかけられることもないだろう。
「いいね。混ぜてもらおうかな」
理久が立ち上がると、相澤も自然に席へ案内してくれた。
誰かを責めるでもなく、飲み会の空気を壊すでもない。それでいて、必要な距離はきちんと作ってくれる。
……助かった。
理久は礼を言い、相澤たちの会話に加わった。
頼んでもいないのに、状況を見て助けてくれた。
それは、ありがたいことだった。
なのに。
さっき廊下ですれ違った人の顔が、まだ頭から離れない。
目が合った。
間違いなく、彼女は自分を見ていた。
あの人なら、何かひと言くらい言ってくれるかもしれないと、勝手に期待してしまった。
理久はグラスの水を飲んだ。
別に、綾瀬美月に助ける義務はない。
彼女にしてみれば、面倒な場面には関わらないという、ごく普通の判断だったのだろう。
むしろ、その方が賢明だ。
そこまで考えて、理久は苦笑した。
……分かってるよ。
分かってるんだけど。
王子には靡かない。
高級レストランでも、簡単には喜ばない。
それは、もう十分に分かっていた。
けれど。
困っている時まで、あんなにあっさり通り過ぎるとは思わなかった。
理久は何事もない顔で、相澤たちの会話に意識を戻した。
今夜は、もう少し飲んだら帰ろう。
そう決めたところで、また綾瀬美月の顔が浮かんだ。
……なんなんだよ、綾瀬美月!
一瞬、足が止まりかけたように見えた。
こちらを見た。
そして、目が合った。
理久は思わず、彼女を見つめた。
ーー助けて。
反射的に、そんな言葉が浮かんだ。
声には出していない。
それでも、この状況を見れば分かるだろう。
自分が笑ってはいるものの、決して楽しんでいるわけではないことくらい。
綾瀬美月は、一瞬だけこちらを見た。
そして。
何事もなかったように、無表情で視線を外した。
そのまま、通り過ぎていく。
……え?
理久は、腕を組まれたまま立ち尽くした。
見えていたよね?
今、確かに。
彼女は振り返らなかった。
少し早足になることも、こちらへ声をかけることもない。ただ、いつもの足取りで廊下を進んでいった。
……助けてよ。
思わず、そう思った。
もちろん、声には出せない。
ここで彼女に割って入ってもらえば、余計な憶測を招くかもしれない。何も見なかったことにしてくれる方が、むしろ親切だ。
理屈では分かっている。
それなのに。
……本当に、行っちゃうんだ。
「先生?」
腕を組んだ女性が、不思議そうに見上げてきた。
理久は視線を戻した。
「ごめんね。戻って、お水でも飲もうか」
「えー?」
「だいぶ飲んでるみたいだから。心配だよ」
女性は少し不満そうだったが、理久が先に歩き出すと、ようやく腕を離した。
彼女を個室まで連れて戻り、近くにいた9Cの看護師へ声をかける。
「少し酔っているみたいだから、お水をお願いしてもいい?」
「あ、大丈夫? ちょっと飲みすぎじゃない?」
同僚がすぐに気づき、席を整えてくれた。
理久は礼を言い、自分の席へ戻った。
これで一件落着。
いつもなら、それで終わりだった。
◇
「藤崎先生、大丈夫ですか?」
隣に来た相澤が、周囲に聞こえない声で尋ねた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
理久が答えると、相澤は酔った看護師の方へちらりと視線を向けた。
「先生、こっちで飲みません? さっきから休日の話で盛り上がってるんですよ」
相澤は何でもないように、自分たちの席を示した。
その意図はすぐに分かった。
場所を変えれば、また同じ女性に声をかけられることもないだろう。
「いいね。混ぜてもらおうかな」
理久が立ち上がると、相澤も自然に席へ案内してくれた。
誰かを責めるでもなく、飲み会の空気を壊すでもない。それでいて、必要な距離はきちんと作ってくれる。
……助かった。
理久は礼を言い、相澤たちの会話に加わった。
頼んでもいないのに、状況を見て助けてくれた。
それは、ありがたいことだった。
なのに。
さっき廊下ですれ違った人の顔が、まだ頭から離れない。
目が合った。
間違いなく、彼女は自分を見ていた。
あの人なら、何かひと言くらい言ってくれるかもしれないと、勝手に期待してしまった。
理久はグラスの水を飲んだ。
別に、綾瀬美月に助ける義務はない。
彼女にしてみれば、面倒な場面には関わらないという、ごく普通の判断だったのだろう。
むしろ、その方が賢明だ。
そこまで考えて、理久は苦笑した。
……分かってるよ。
分かってるんだけど。
王子には靡かない。
高級レストランでも、簡単には喜ばない。
それは、もう十分に分かっていた。
けれど。
困っている時まで、あんなにあっさり通り過ぎるとは思わなかった。
理久は何事もない顔で、相澤たちの会話に意識を戻した。
今夜は、もう少し飲んだら帰ろう。
そう決めたところで、また綾瀬美月の顔が浮かんだ。
……なんなんだよ、綾瀬美月!