光のはじまり ― 王子が困るまで ―
相澤が女性たちの輪に入ってきた時、理久はすぐに桐谷の仕業だと察していた。
教授から連絡が入ったというのは、おそらく口実だろう。
「分かった。ありがとう」
看護師たちに軽く頭を下げ、スマホを耳に当てながら人の輪を抜ける。
少し先に、桐谷が立っていた。
停車したタクシーの後部ドアの脇。
こちらへ気づくと、何でもない顔で視線を寄越してくる。
そして、桐谷の手には、さっき渡した理久の上着がない。
理久は足を緩めた。
……あれ?
上着は?
すぐに、開いたままのタクシーのドアが目に入る。
桐谷が、そこから一歩も離れずに待っている。
理久は、だいたい理解した。
いや、完全には理解していない。
けれど、おそらく。
あのタクシーに乗っているのは。
理久はスマホを耳に当てたまま、桐谷の横へ近づいた。
「助かった」
小さく言うと、桐谷が笑った。
「答え合わせ、よろしく」
理久は一瞬だけ桐谷を見た。
ーー答え合わせ。
その言葉で、予感が確信に変わりかける。
「高くつきそうだね」
「当然」
桐谷がドアの前から身体を引き、乗り込むように促した。
理久はスマホを下ろし、後部座席に身を滑り込ませる。
ドアが閉まった。
車内に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
隣には、身をかがめた人影があった。
その膝の上に見えるのは、自分の上着。
やがて、その人がゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
驚いた表情で、こちらを見つめている。
理久は、一瞬だけ息を忘れた。
綾瀬美月。
……やっぱり。
桐谷が何をしたのか。
何を見抜いていたのか。
その答えが、あまりにも分かりやすい形で、隣に座っていた。
名前を出したことはない。
一度も、桐谷には言っていない。
それなのに。
あの男は、正解をこのタクシーに乗せていた。
理久は、ほんの少しだけ目を細めた。
……参ったな。
本当に、余計なことをする。
けれど、今日に限っては。
かなり助かった。
◇
車が走り出す前に、綾瀬美月が膝の上の上着を見下ろした。
「……この上着」
「俺の」
「返します」
差し出された上着を受け取る。
「ありがとう」
「どういうことですか」
「救出してもらった」
「誰をですか」
「俺を」
「誰に」
「桐谷に」
彼女は、ようやく何が起きたのか理解し始めたらしい。
一連の手際のよさを、どうやら褒める気はないようだった。
「……なんて頼んだら、こうなるんですか」
「普通に、逃げたいって言った」
「それで私のタクシーに?」
「一番安全そうだったから」
「私は避難所ではありません」
理久は少し笑った。
「うん。ごめん」
自分だって、桐谷から何も説明されていない。
ただ、助かったことだけは確かだった。
タクシーが走り出した。
美月が行き先を伝えると、理久は運転手に、自分のマンションへ先に寄るよう頼んだ。
彼女はすぐに抗議したが、理久はそれ以上言い合わなかった。
やがて、車がマンションの前に停まった。
理久は財布から一万円札を取り出し、運転手に差し出した。
「このまま彼女を送ってください。お釣りは彼女に」
案の定、隣から声が上がった。
「待ってください。私が払います」
「もう渡した」
「そういう問題ではありません」
理久はドアに手をかけた。
「じゃあ、次返して」
綾瀬美月が固まった。
少し間を置いて、彼女がこちらを見る。
「……図りましたね」
理久は、ほんの少しだけ笑った。
「気づいた?」
「今のはさすがに分かります」
「じゃあ、また」
車を降り、ドアを閉める。
タクシーが走り出すのを見送ってから、理久はマンションの入口へ向かった。
桐谷にしてやられた。
あれほど人の事情に首を突っ込んでおきながら、最後にはこちらが礼を言うしかない形に収めてしまうのだから、始末が悪い。
今度会ったら、何か奢らされるだろう。
理久はエントランスに入り、エレベーターのボタンを押した。
ふと、先ほどの美月の顔を思い出す。
ーー次返して。
そう言った瞬間、彼女はすぐに気づいた。
前なら、もう少し時間がかかったかもしれない。
何度も繰り返してきたせいで、こちらのやり方を覚えられてしまったらしい。
……次は、通用しないかもね。
エレベーターが到着した。
理久は乗り込み、階数ボタンを押す。
それでも、今日のお釣りは彼女が預かっている。
返すと言い出すのか。
それとも、あれだけ警戒しているのだから、何か別の方法を考えるのか。
どちらにしても。
理久は、静かに笑った。
次の連絡が来る理由は、できた。
教授から連絡が入ったというのは、おそらく口実だろう。
「分かった。ありがとう」
看護師たちに軽く頭を下げ、スマホを耳に当てながら人の輪を抜ける。
少し先に、桐谷が立っていた。
停車したタクシーの後部ドアの脇。
こちらへ気づくと、何でもない顔で視線を寄越してくる。
そして、桐谷の手には、さっき渡した理久の上着がない。
理久は足を緩めた。
……あれ?
上着は?
すぐに、開いたままのタクシーのドアが目に入る。
桐谷が、そこから一歩も離れずに待っている。
理久は、だいたい理解した。
いや、完全には理解していない。
けれど、おそらく。
あのタクシーに乗っているのは。
理久はスマホを耳に当てたまま、桐谷の横へ近づいた。
「助かった」
小さく言うと、桐谷が笑った。
「答え合わせ、よろしく」
理久は一瞬だけ桐谷を見た。
ーー答え合わせ。
その言葉で、予感が確信に変わりかける。
「高くつきそうだね」
「当然」
桐谷がドアの前から身体を引き、乗り込むように促した。
理久はスマホを下ろし、後部座席に身を滑り込ませる。
ドアが閉まった。
車内に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
隣には、身をかがめた人影があった。
その膝の上に見えるのは、自分の上着。
やがて、その人がゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
驚いた表情で、こちらを見つめている。
理久は、一瞬だけ息を忘れた。
綾瀬美月。
……やっぱり。
桐谷が何をしたのか。
何を見抜いていたのか。
その答えが、あまりにも分かりやすい形で、隣に座っていた。
名前を出したことはない。
一度も、桐谷には言っていない。
それなのに。
あの男は、正解をこのタクシーに乗せていた。
理久は、ほんの少しだけ目を細めた。
……参ったな。
本当に、余計なことをする。
けれど、今日に限っては。
かなり助かった。
◇
車が走り出す前に、綾瀬美月が膝の上の上着を見下ろした。
「……この上着」
「俺の」
「返します」
差し出された上着を受け取る。
「ありがとう」
「どういうことですか」
「救出してもらった」
「誰をですか」
「俺を」
「誰に」
「桐谷に」
彼女は、ようやく何が起きたのか理解し始めたらしい。
一連の手際のよさを、どうやら褒める気はないようだった。
「……なんて頼んだら、こうなるんですか」
「普通に、逃げたいって言った」
「それで私のタクシーに?」
「一番安全そうだったから」
「私は避難所ではありません」
理久は少し笑った。
「うん。ごめん」
自分だって、桐谷から何も説明されていない。
ただ、助かったことだけは確かだった。
タクシーが走り出した。
美月が行き先を伝えると、理久は運転手に、自分のマンションへ先に寄るよう頼んだ。
彼女はすぐに抗議したが、理久はそれ以上言い合わなかった。
やがて、車がマンションの前に停まった。
理久は財布から一万円札を取り出し、運転手に差し出した。
「このまま彼女を送ってください。お釣りは彼女に」
案の定、隣から声が上がった。
「待ってください。私が払います」
「もう渡した」
「そういう問題ではありません」
理久はドアに手をかけた。
「じゃあ、次返して」
綾瀬美月が固まった。
少し間を置いて、彼女がこちらを見る。
「……図りましたね」
理久は、ほんの少しだけ笑った。
「気づいた?」
「今のはさすがに分かります」
「じゃあ、また」
車を降り、ドアを閉める。
タクシーが走り出すのを見送ってから、理久はマンションの入口へ向かった。
桐谷にしてやられた。
あれほど人の事情に首を突っ込んでおきながら、最後にはこちらが礼を言うしかない形に収めてしまうのだから、始末が悪い。
今度会ったら、何か奢らされるだろう。
理久はエントランスに入り、エレベーターのボタンを押した。
ふと、先ほどの美月の顔を思い出す。
ーー次返して。
そう言った瞬間、彼女はすぐに気づいた。
前なら、もう少し時間がかかったかもしれない。
何度も繰り返してきたせいで、こちらのやり方を覚えられてしまったらしい。
……次は、通用しないかもね。
エレベーターが到着した。
理久は乗り込み、階数ボタンを押す。
それでも、今日のお釣りは彼女が預かっている。
返すと言い出すのか。
それとも、あれだけ警戒しているのだから、何か別の方法を考えるのか。
どちらにしても。
理久は、静かに笑った。
次の連絡が来る理由は、できた。