光のはじまり ― 王子が困るまで ―
理久は自室へ入り、ベッドに腰を下ろした。

「邪念は捨てる。あくまで紳士的に」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


……何言ってるんだ、俺。


自分でおかしくなって、少し笑った。

そもそも、邪念を捨てると宣言しなければならない時点で、全然スマートではない。

院内では王子だ何だと言われているのに、実態はこの有様だ。

理久は額に手を当てた。


もちろん、彼女に手を出すつもりはない。

家を使っていいと言った以上、その安心を損なうようなことはしない。ゲストルームは彼女の部屋だし、用事もなく出入りする気はなかった。

それと、意識せずにいられるかどうかは、また別の話だった。

そこを同じことにしてしまうと、話がややこしくなる。


……考えるの、やめよう。


理久は立ち上がり、明日の手術に必要な資料をデスクに揃えた。

いつもどおり仕事をすればいい。

彼女も、自分も。

生活はそれぞれのものだ。

◇

しばらくして、スマホが震えた。

綾瀬美月からだった。

浴室と洗面所を使い終えたことと、もう休むという報告。それから、短いお礼の言葉が届いていた。

理久は画面を見て、小さく息を吐いた。


ひとまず、落ち着いたらしい。

少なくとも、今夜は休むつもりになってくれたようだった。

返信は簡単なものにした。

何か必要なら連絡してほしいことと、おやすみ、とだけ。

長々とやり取りを続ける必要はない。

それこそ、同じ家にいるのだから。

理久はスマホを置き、リビングへ戻った。


いつもと変わらない部屋だった。

照明も、家具も、窓の外の夜景も。

ただ、廊下の奥にある部屋を、今夜は誰かが使っている。

たったそれだけの違いなのに、自分の家が少し違って感じられた。

以前、恋人に言われた言葉が、ふと頭をよぎる。


――一度くらい、誰かがいなくなって、本当に困ればいいのに。


理久はダイニングの椅子を引き、腰を下ろした。

彼女と別れたあとも、生活は何も変わらなかった。

食事をして、眠って、病院へ行く。

必要なことを順番にこなしていれば、それでよかった。


綾瀬美月がこの家からいなくなったとしても、きっと同じだ。

食事はできる。

仕事もできる。

部屋の片づけだって、困らない。

元の生活に戻るだけ。


……そうだよね。


理久は少し笑った。

むしろ、彼女がいる今の方が、よほど困っている。

何もしなくていいはずなのに、何か必要なものはないかと考えてしまう。


明日の朝、顔を合わせたら、どんなふうに挨拶すればいいのか。

そんなことまで気になっている。

今まで、誰が家に泊まったところで、こんなに考えたことがあっただろうか。


……いや、なかったな。


そこは、あっさり答えが出た。
< 57 / 82 >

この作品をシェア

pagetop