光のはじまり ― 王子が困るまで ―
理久はダイニングテーブルの端に、予備の鍵を置いた。

家の中を見回す。

彼女が明日の朝、起きてきた時に必要なものは何だろう。


鍵。

出勤前に使う洗面所。

朝食。

それから、家主がすでに出勤していると分かること。


最後の項目に行き着いて、理久は少し考えた。


翌日は手術日だった。

彼女にも、朝は先に出ていると思うと伝えてある。

普段から朝は早い。

とはいえ、彼女が起きるより前に出なければならないほどではない。

いつもどおりにしていれば、リビングで顔を合わせる可能性は十分にあった。

もちろん、顔を合わせたからといって、何か問題があるわけではない。


……問題はないけど。


雨宿りの朝、彼女が随分と慌てていたことを思い出す。

見知らぬ天井の下で目覚め、部屋から出てきた時の、あの落ち着かない顔。

今回は、彼女が自分の意思でゲストルームへ入った。

それでも、寝起きにいきなり自分と顔を合わせるのは、あまり歓迎されないだろう。


理久は、翌朝の予定を頭の中で確認した。

少し早めに病院へ行っても、やることはいくらでもある。

手術記録を確認しておくのもいい。


……うん。それでいいか。


メモ用紙を取り、短く書いた。

『合鍵です。
戸締まりよろしく。
冷蔵庫は好きに使って。
無理しないで』

「無理しないで」

その言葉を書いたところで、少しだけ手が止まった。


綾瀬美月が、それを素直に聞くとは思えない。

明日になれば、仕事へ行き、管理会社に連絡し、荷物のことを考え、住まいをどうするか決めようとするだろう。

全部、自分でやろうとする。

そういう人だ。


だからこそ、今夜くらいは何も考えずに眠ってほしかった。

理久はメモを読み返し、その下にもう一行書き足した。

『朝ごはんは冷蔵庫。食べられそうなら』

それから、鍵の横に置いた。

冷蔵庫を開け、朝に食べられそうなものを確認する。

ヨーグルトとカットフルーツを取り出しやすい位置へ移し、水も補充した。


朝から凝ったものを作る必要はないだろう。

食べる気になれば食べればいいし、食欲がなければ無理に食べなくていい。

それくらいの距離感でいたかった。

洗面所には未開封の歯ブラシを置き、新しいタオルも用意した。

もっと必要なものがあるかもしれないが、今夜のうちに全部揃えようとするのはやめた。


彼女にも、使いたいものを選ぶ自由がある。

必要になったら、その時に聞けばいい。

ひと通り準備を終えたところで、理久は小さく笑った。


……これ、本当にホテルみたいだね。


明日の朝、綾瀬美月が何と言うか。

少しだけ楽しみになっている自分に気づき、また苦笑した。


彼女にとっては大変な夜だった。

そこを忘れてはいけない。


理久はリビングの照明を落とし、洗面所へ向かった。

服を脱ぎ、浴室の扉に手をかける。

その瞬間、ふと意識した。


さっきまで、ここに綾瀬美月がいた。


理久は一度、目を閉じた。


……考えるな。


そう思った時点で、十分考えている。


本当に、困る。
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