光のはじまり ― 王子が困るまで ―
中川の胆摘は、予想以上にうまくいった。

理久は術中の様子を思い返しながら、記録を確認していた。


普段の中川は、少々調子がいい。

今日のように朝から自信満々な姿を見ると、さすがに心配にもなる。

けれど、術野に入ってからの手は、以前より落ち着いていた。

迷うところでは無理に進まない。

見えていないものを、見えたことにはしない。

指導医の指示もきちんと聞いている。


……へえ。成長してるね。


理久は記録を閉じ、少し笑った。

朝のあの勢いだけを見れば、どうなることかと思ったが、本人なりに準備してきたのだろう。

もう少し論文にも興味を持ってほしいところではある。


とはいえ、そこまで一度に求めても仕方がない。

中川には中川の長所がある。

少なくとも、今日の手術は悪くなかった。

◇

昼過ぎ。

食堂で理久がトレーを手に席へ着くと、中川は昼定食に小鉢をいくつも乗せ、さらに揚げ物まで取ってきていた。

「すっかりご機嫌だね」

「朝からゼリー飲料しか飲めなかったんですよ」

「緊張してたんだね」

「いえ、寝坊です」

「……」

隣にいた相澤が、無言で中川の肘をつついた。

中川が一瞬、動きを止める。

「あ、寝坊ではなく、しっかり睡眠を取った結果、朝食を摂る時間がなくなりました」

理久は、危うく笑いそうになった。

言い方を変えただけで、内容はほとんど変わっていない。

「睡眠も大切だね」

そう返すと、中川は満足そうに頷いた。

相澤は、分かりやすく呆れている。


いい組み合わせなのかもしれない。

相澤が見て、中川が動く。

中川が余計なことを言い、相澤が止める。

医局では少し騒がしい二人だが、手術の時にはそれぞれの役割がある。


理久は食事を終え、水をひと口飲んだ。

「さてと、病棟に行こうか」

「はい」

中川と相澤も立ち上がった。

食器を返し、中川と相澤とともに食堂の出口へ向かった時だった。


「……ホテルだよ」


聞き慣れた声が耳に入った。


綾瀬美月。


理久は、視線を動かさなかった。

どうやら同僚に、火事のあとの滞在先を聞かれているらしい。


……ああ。そう答えるよね。


藤崎先生の家に泊まっています。

そんなことを食堂で言えるはずがない。


病院では今までどおり。

それは、昨夜彼女と交わした約束でもあった。

だから、何も聞かなかった顔で通り過ぎようとした。


ところが。

「うん。あ、いや、大したことないホテルだよ」


……ん?


危うく、足が止まりそうになった。


大したことない?


理久は中川の話に相槌を打ちながら、そのまま歩いた。

顔には出さない。

美月の方も見ない。

ただ、頭の中で、昨夜から今朝までにしたことを振り返っていた。


ゲストルームを用意した。

鍵を置いた。

歯ブラシとタオルも揃えた。

朝食も、食べられるようにしておいた。

朝から彼女に気を遣わせないよう、顔も合わせずに家を出た。

そこまでして。


……評価、厳しくない?


理久は、何事もなかったように食堂を出た。

もちろん、分かっている。

咄嗟に出た言葉だ。

同僚に詳しく聞かれないように、目立たない滞在先を装っただけだろう。

自分との約束を守ってくれたのだから、むしろありがたい。

それは理解している。


ただ、少しだけ。

引っかかった。

理久は、思わず口元を緩めた。


初日の宿泊評価としては、なかなか手厳しい。

◇

昼休憩を終えた頃。

理久はスマホを取り出した。

綾瀬美月とのやり取りを開く。

今朝、家を出てから顔は合わせていない。

食堂では、普段どおりに見えた。

それなら、少しくらいはいいだろう。

理久は短く打った。


『大したことないホテル、快適?』


送信する。

スマホを置き、小さく笑った。

別に、根に持っているわけではない。


ただ。

せめて口コミくらいは回収しておきたい。
< 60 / 82 >

この作品をシェア

pagetop