光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第32話 大したことないホテル

その朝、及川はいつもより早く医局へ来た。

まだ人の少ない時間帯。

落ち着いて今日の手術の画像を確認するつもりだったのだが、医局には先客がいた。

ソファで、藤崎理久が眠っていた。

白衣はまだ着ていない。

腕を組み、少しだけ首を傾けた姿勢で、静かに目を閉じている。

朝の日差しが横顔に当たり、妙に絵になっていた。


……寝顔まで王子なのか。


及川は、朝から少し理不尽なものを見た気がした。

この写真、欲しがる人が結構いるんじゃないか。

いや、撮らないけど。

撮らないけど、仮に売ったら――。

「……見学料、取るよ」

「うわっ!」

及川は思わず声を上げた。

ソファの上で、理久が片目を開けている。

「起きてたんですか」

「今起きた」

「寝顔見てたわけじゃないです」

「見てたよね」

「……見てました」

そこは否定できなかった。

理久は小さく笑い、ゆっくりと身体を起こした。

寝起きだというのに、妙に余裕がある。

「及川、コーヒー飲む?」

「えっ、あ、はい。飲みます。あ、いや、俺がやります」

「大丈夫。及川はやることがあって早く来たんでしょ。支度してていいよ」

そう言って、理久は立ち上がった。


……ほら。


こういうところだ。

後輩にも自然に気を遣う。

それを大げさに見せない。

寝起きでこれなのだから、普段の王子ぶりも納得だった。


及川はありがたく席に戻り、パソコンを開いた。

今日の手術は胃切除。

指導医のもとで、執刀を任されている。

上部消化管班に入ってから、何度も助手につき、手順も頭に入れてきた。

けれど、自分が執刀するとなると話は別だ。


昨夜も画像を確認した。

今朝も、予定より早く目が覚めた。

だったら病院へ来てしまおうと思ったのだ。


画面に術前画像を表示したところで、机にコーヒーが置かれた。

「胃切除? 執刀?」

「はい」

「それで早く来たわけか」

理久が柔らかく笑った。

何も説明していないのに、すぐに見抜かれた。

「細かい方針は上部の先生に確認して」

「はい」

「でも、最初に焦ると全部焦るから。手順を追うことより、今見えているものをちゃんと見ること。そこは外さない方がいいよ」

及川は頷いた。

「あと、怖いと思ったら止まることも忘れない方がいい。止まれる執刀医の方が、見てる側は安心するからね」

「……はい」

単なる励ましではなかった。


緊張していることを否定せず、その状態で何をすべきかを教えてくれる。

班が違うのに、ちゃんと見てくれる。

藤崎先生は、面倒見がいい。

及川は素直にそう思った。

◇

しばらく画像を確認していると、ふと気になった。

藤崎先生は、どうしてあんなに早く来ていたのだろう。

「そういえば先生、なんでこんなに早く来たんですか?」

理久はコーヒーを口に運んだ。

「……泊まりですか?」

言ってから、及川はしまったと思った。

医局で眠っていたからといって、当直だったとは限らない。

余計な詮索だったかもしれない。

「あ、すみません。余計でした」

理久はカップを置き、少し考えるような顔をした。

「……緊張かな」

「え?」

「うん。及川と同じだね」

優しく笑われた。


及川は、少し意外だった。

藤崎先生でも、手術の前に緊張して眠れないことがあるのか。

いつも余裕そうに見えるのに。

自分だけではないのだと思うと、少し気持ちが軽くなった。

「ありがとうございます」

及川が言うと、理久は不思議そうに目を細めた。

「何が?」

「いや、何となくです」

理久はそれ以上聞かなかった。

◇

30分ほどして、中川が医局へ入ってきた。

「おはようございまーす!」

朝から、やけに元気だった。

「俺も今日、胆摘の執刀なんだよね。楽しみ」

嬉しそうに及川の席へ近づいてくる。

「緊張とかしないのかよ」

及川が聞くと、中川は即答した。

「緊張? 俺が? するわけないじゃん。胆嚢取って、俺が絶対治す」


……すごいな。


その自信は、どこから来るのだろう。

及川は少し黙った。

そして、先ほどの理久の言葉を思い出した。


『……緊張かな』


なるほど。

及川は、ようやく理解した気がした。


藤崎先生は、たぶん中川の執刀が心配なのだ。

この男は自信満々だが、実際の手術はそう簡単ではない。

指導する側だって、気を張るだろう。

それを、わざわざ自分に説明せず、「及川と同じだね」と言った。

緊張している後輩の気持ちを軽くしてくれたのだ。


……藤崎先生。


面倒見がいいだけじゃない。

かなり食えない人だ。

及川は、そう思った。

◇

及川がそんな結論に達したとは知らず、理久は手術前の確認を進めていた。

中川の執刀を気にかけていないわけではない。

ただ、今朝早く病院へ来た理由は、そちらではなかった。


昨夜は、妙に寝つきが悪かった。

ゲストルームに綾瀬美月がいる。

ただそれだけのことが、頭から離れなかったのだ。


今朝も、彼女が起きる前に家を出た。

顔を合わせれば、きっと互いに気を遣う。少なくとも初日くらいは、彼女に自分のペースで朝の支度をしてほしかった。

そうして病院へ来たものの、今度は早く着きすぎて、医局のソファでうとうとしてしまった。


『……緊張かな』


及川には、そう答えた。

嘘ではない。

落ち着かなくて早く来たという意味では、確かに同じだった。


ただし。

手術の緊張なら、まだ扱い慣れている。

問題は、自分の家に綾瀬美月がいることだった。


……まったく。

こんな理由、及川に説明できるわけがない。


理久は小さく息を吐き、手術室へ向かった。
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