光のはじまり ― 王子が困るまで ―
言ってから、ほんの少しだけ意外に思った。

あまりにも自然に出てきた言葉だったからだ。


綾瀬美月は、玄関で足を止めた。

そして少し遅れて、きちんと頭を下げる。

「……お邪魔します」

理久はリビングから顔を出した。

「堅いな」

「実際、そうなので」

「そう?」

「そうです」

理久は小さく笑った。


……まあ、そうだよね。


ここは、彼女にとって一時的な避難先だ。

けれど、こちらにはもう、彼女がこの玄関から入ってくることが、少しずつ当たり前になっている。

話題を変えるように、先日冷蔵庫に残しておいたスープのことを聞いた。

彼女は礼を言ったあと、作りすぎたという説明には納得していないらしいことを、律儀に伝えてきた。

「じゃあ、次はもう少し多く作る」

「そういう意味ではありません」

いつもの調子だった。

少し疲れているようにも見えたので尋ねてみたが、返事は「普通です」。それ以上は追及しなかった。

やがて彼女は挨拶をして、ゲストルームへ戻っていく。

理久も「おやすみ」と返し、引き止めなかった。


扉が閉まる。

リビングへ戻った理久は、タブレットに視線を落とした。

けれど、さっき読んでいた行が、なかなか頭に入ってこなかった。


ーーおかえり。


あまりにも自然に口をついた。

彼女にとっては、帰ってきたと言われる場所ではないのかもしれない。

それでも、言わなければよかったとは思わなかった。

そこが、少々厄介だった。

◇

翌日。

仕事がひと段落し、理久が医局へ向かっていると、廊下の向こうから桐谷が歩いてきた。

「よぉ。今日は外来?」

「外来のあと、検査」

「相変わらず忙しいな」

「まあね」

桐谷は当然のように隣へ並んだ。

何か話したいことがある時の顔だった。

理久は横目で見る。

「何」

「いや。そういえば、火事で家に帰れないらしいね」


……ああ。

10A病棟で話題になっているのなら、桐谷の耳に入るのも当然だ。


理久は前を向いたまま答えた。

「そうみたいだね」

「病棟で話題になってたな」

「そう」

「白々しいなぁ」

「何が」

桐谷が、横からこちらを見る。

「親友に話してくれないのかよ」

「何を?」

「どこに泊まってる、とか」

理久は少しだけ間を置いた。

「……大したことないホテル」

桐谷が眉を上げた。

「何だ、それ」

「本人が周りにそう言ってた」

「へえ」

桐谷は黙った。

理久も、それ以上は何も言わなかった。


病院の廊下だ。

綾瀬美月との約束もある。

いくら桐谷でも、軽々しく話すつもりはなかった。

けれど、桐谷は少し声を落として、何でもない調子で続けた。

「お前んち?」

理久は、ちらっと横を見た。

「何でそうなるの」

「長年いると、何となく分かる」

「……」

「ビンゴかよ」
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