光のはじまり ― 王子が困るまで ―
綾瀬美月の息が止まった。

すぐには答えない。


理久は待った。

彼女が簡単に言えるはずがないことくらい、分かっている。

それでも、聞かずにはいられなかった。

「先生のこと……」

そこまで言って、声が止まる。

理久は目を逸らさなかった。

喉元で止まっている言葉が、見える気がした。


好き。


たぶん、その二文字。


……そうなんだろ?


けれど、彼女は言わなかった。

「……だと思います」

肝心な部分だけ、抜け落ちていた。

「……え?」

一瞬、追いつかなかった。

「聞こえなかったんだけど」

聞こえなかったわけではない。

言っていないのだ。

分かっていて、聞いた。


綾瀬美月は視線を伏せた。

「何も、言ってないので……」

理久は黙った。

笑えなかった。

困ったように、ほんの少しだけ息を吐く。


……やっぱり、言わない。


泣いて。

帰れなくなって。

終わったことにするのが苦しいとまで言って。

それでも、最後の言葉だけはくれない。


俺に言わせたいの?

……簡単に言えると思ってる?


相手は、同じ病院で働く看護師だ。

年下で、院内では距離を置いてきた相手。

それも、最初から恋愛の対象として考えるつもりなどなかった、綾瀬美月。


今までの自分なら、こんな状況にはならなかった。

女性と距離を縮めることも、好意を伝えることも、特別難しいことではなかったはずだ。

それなのに、今回は違う。

彼女に好きだと言うことが、何を意味するのか。

そんなことくらい、分かっている。

そんな自分が、信じられなかった。

「先生は……」

綾瀬美月が顔を上げた。

「先生は、私のこと……どう思ってるんですか」

理久の胸の奥が、揺れた。

今度は、自分が答える番だった。


……そうだよね。


自分が聞いたのだから。

けれど、言葉が出てこなかった。

好きだと言えば、彼女との関係は変わる。

ここにいてほしいと言えば、彼女の選択を縛るかもしれない。

医師と看護師。

同じ病院で働く以上、その立場から逃げることはできない。

分かっている。

だから、距離を守ってきた。

それなのに、自分から引き止めた。


……どうして、俺ばっかり。


一瞬、そんな思いがよぎった。

先に言ってくれたら。

綾瀬美月が、自分の気持ちを認めてくれたら。


……いや。


彼女だって、怖いのかもしれない。

だから、言えない。

自分も同じだ。



……ああ。

本当に、困った。



何も言わなければ、また終わってしまう。

笑っているから大丈夫だと思って。

帰ると言ったから、それが答えだと思って。

言葉の裏側を見ないまま、きれいに手を離してしまう。

もう、それはしたくなかった。


理久は、短く息を吸った。

「……帰ってほしく、ないと思った」

声に出した瞬間、胸の奥が苦しくなった。


好きだとは言わなかった。

ここにいてとも言わなかった。

それでも。

これ以上ないくらい、本音だった。


綾瀬美月の目が、わずかに揺れる。

理久は、そこで一歩下がった。

「帰るなら、送る」

静かに言った。

「スーツケースも持つし、部屋まで行く。必要なら、部屋の確認も一緒にする」

彼女が帰ると決めるなら、邪魔はしない。

それだけは、譲れなかった。

「でも、今日、自分の部屋に帰るのがつらいなら、無理に帰らなくていい」

綾瀬美月は、黙って聞いていた。

「決めるのは、綾瀬さん」

そう告げた自分の声が、妙によそよそしく聞こえた。


ーー綾瀬さん。


病院でも、家でも、ずっとそう呼んできた。


心の中では、綾瀬美月。


誰よりも近くにいた夜も、帰ってほしくないと気づいた瞬間も。

ずっと、その距離を守ってきた。


けれど、もう何もなかった顔には戻れない。

明日も、その先も、彼女にここへ帰ってきてほしい。

そんな願いを、まだ口にできないのなら。

せめて。

「綾瀬さん」

「はい」

「……美月って、呼んでいい?」

彼女の表情が止まった。

「え?」

理久は、少しだけ目を伏せた。

それから、もう一度彼女を見る。

「美月」

名前を呼んだ。

自分の声が、思ったより静かだった。

けれど、その二文字を口にした途端、もう元の距離には戻れない気がした。


美月が視線を逸らした。

「……まだ、いいとは言ってません」

「うん」

理久は、少しだけ笑った。

「でも、だめとも言われてない……よね?」

美月は答えず、玄関のスーツケースを見た。

理久も、何も言わなかった。


帰ってほしくない。


その気持ちを、もう一度口にすることはしなかった。

「……今日は」

美月が、口を開いた。

「今日は、戻します」

理久の息が、一瞬止まった。

「荷物を?」

美月は頷いた。

「荷物を、ここに」


……そっか。


理久は何も言わずに、一歩下がった。

美月がスーツケースの持ち手を握る。

一度履いた靴を、もう一度脱いだ。

キャスターが、小さく床を鳴らす。

荷物が、もう一度この家に戻ってくる。

美月が顔を上げた時、理久は手元の封筒を差し出した。

「これ」

「返したものです」

「うん」

「受け取ったじゃないですか」

「受け取った」

理久は静かに頷いた。

「でも、今日ここにいるなら、持ってて」

美月は、すぐには手を伸ばさなかった。

理久も、そのまま待った。

「……今日だけです」

「うん」

「今日だけ、借ります」

「分かった」

美月が封筒を受け取った。

返された鍵が、もう一度彼女の手に戻る。

理久は、それを見つめていた。


……よかった。


閉じた扉の内側で、二人はまだ同じ場所にいた。
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