茜と菫の境界線で、夢を見る。
01 二人の約束
これは、夢だ。
目の前に立っている恭介を見上げながら、矢野陽葵はぼんやりと確信した。
陽葵はこの光景を何度も見たことがあった。
目が覚めるのと同時にその内容を忘れてしまうのに、いつもの夢だと見る度に理解する、不思議な夢。
「おかえり、陽葵」
おいで、と恭介が両手を広げる。
陽葵は地面を力の限り蹴り、駆け出す。
恭介が両手を広げたまま、その場にしゃがむ。優しく微笑む。
だけど、近づくにつれて、胸の奥に小さな違和感が広がり始める。
——違う
頭では気づいても、加速度をつけた身体は急には止まれない。吸い込まれるように胸に飛び込んだ陽葵を、彼の腕がしっかりと抱き止める。
「おかえり」
優しい声が耳元をくすぐる。だけど、やっぱり違う。恭介の声より、ほんの少しだけ低い。
「恭介くん」
違うって、わかってる。だけど、その名前を呼ばずにはいられない。しがみつくように、彼の首元に腕を回す。
「大好き」
恭介ではないはずのその身体を強く抱きしめて、彼に、伝える。
「何、急に」
彼は困ったように笑う。
「大好き。だから、いなくならないでね」
真剣な懇願は「何言ってんの」と軽く笑い飛ばされた。真面目に向き合ってもらえないことにチクリと胸が痛んだが、笑ってはぐらかされたのだとすぐに気づく。
大きな手のひらが、陽葵の頭を撫でる。ぎこちない指先は、微かに震えていた。躊躇うような手つきから、彼の嘘が透けて見える。
「恭介くん」
もう一度、名前を呼ぶ。彼は返事をする代わりに「ん?」と顔を覗き込んできた。
目が合う。違和感が確信に変わる。
この人は恭介じゃない。恭介のふりをしている、別の誰か。
「ねぇ、約束して。――……、」
言葉を続けようとしたが、突然、声が出なくなった。口を動かすことはできても、空気が漏れ出るだけだ。
何度喉を開こうとしても、叫んでも、引き絞られたように音が出ない。
どうしても伝えたい言葉があるのに。
「――……っ!」
陽葵の必死さが伝わったのか、彼は一瞬だけ切なげに双眸を細め、そして、穏やかに微笑んだ。
「うん、約束」
彼が大きく頷き、小指を差し出した。
しかし、その小指に触れる直前、足元が吸い込まれていくような感覚に襲われた。引きずり込んでくる闇を振り払おうと、夢から這い出ようともがく。
ハッと目を開けると、そこは必ず、自室のベッドの上。
心臓はドクドクと速く脈打ち、足元には奇妙な浮遊感がこびりついている。
夢を見ていたことは覚えている。自分が誰かに何かを叫んでいたことも覚えている。それなのに、どんな夢だったか、何を叫ぼうとしていたのか、相手が誰だったのか、その内容は記憶の端から欠けてしまっている。