魔法より、君に恋をする。
「ここ」

 セシルが立ち止まった先には、重厚な木製の扉があった。

 扉の横に掲げられた銀色のプレートには、《生徒会室》と刻まれている。

「本当に着いた」

「私を何だと思ってるんだ」

「優秀」

「ならなんで驚いた?」

「私と一緒に歩いて一回も迷わなかったから」

「私までお前基準にするな」

 セシルは呆れながらも笑っている。

「終わるまで待ってようか?」

「大丈夫。先に帰ってて」

「でも帰り、一人で平気か?」

「最悪、人に聞く」

「最初からそうしろよ」

「知らない人に話しかけるの、ちょっと面倒」

「お前、意外と人見知り?」

「人見知りじゃない。面倒なだけ」

「それはそれでどうなんだ」

 セシルが苦笑する。

「じゃあ、ちゃんと寮まで帰れよ」

「うん。ありがとう」

「また明日」

「また明日」

 セシルが廊下の向こうへ消えていくのを見届けてから、リリアは扉をノックした。

「どうぞ」

 聞き覚えのある穏やかな声。

「失礼します」

 扉を開ける。

 生徒会室は、想像していたより広かった。

 壁一面を覆う本棚。中央には複数人で使うための長机があり、窓際には生徒会長用らしい大きな机が置かれている。夕方の陽射しが大きな窓から差し込み、室内を淡い橙色に染めていた。

 そして、その机に座っていた人物が顔を上げる。

「いらっしゃい、リリア」

 黒紫色の髪。

 細い銀縁の眼鏡。

 その奥にある紫色の瞳。

 三年生、生徒会長。

 ルシアン・ノクス。

「こんにちは、ノクス先輩」

「こんにちは。ちゃんと辿り着けたんだね」

「……」

 リリアは扉を閉める手を止めた。

「どうして私が迷うって知ってるんですか?」

「有名だから」

「嘘」

 即答した。

 ルシアンが少し目を丸くする。

「ずいぶん信用がないな」

「私が方向音痴だって知ってるのは、今のところ同じクラスの人とレオンハルト先輩くらいです」

「学院という場所では、噂は思った以上に早く広がるものだよ」

「じゃあ、誰から聞いたんですか?」

「さて、誰だったかな」

「やっぱり怪しい」

 リリアが睨むと、ルシアンは困るどころか楽しそうに笑った。

「君はもう少し先輩を敬った方がいい」

「敬語は使ってます」

「敬語で詰め寄ればいいという話ではないんだけどね」

「それで、今日は何の用ですか?」

「座って」

 向かいの椅子を示され、リリアは素直に腰を下ろした。

 机の上には何枚もの書類が置かれている。その一番上にあったのは、見覚えのある測定結果だった。

《リリア・アステル――魔力量測定不能》

「……魔晶石?」

「正解」

「弁償ですか?」

「まだ気にしていたの?」

 ルシアンが声を立てて笑った。

「安心していい。学院の備品だから君に請求することはないよ」

「良かった」

「問題はそちらではなくて、君の魔力だ」

 ルシアンの声音が少し変わった。

 リリアも書類を見る。

「測れなかったんですよね」

「正確には、学院にある通常の測定器では測れなかった」

「じゃあもっと大きい魔晶石を使うとか?」

「三つ目を壊すつもり?」

「壊すつもりで壊してません」

「知ってるよ」

 あまりにも自然に返されて、リリアは顔を上げた。

 ルシアンは書類へ目を落としている。

「……何ですか?」

「何が?」

「今の言い方」

「普通だったと思うけど」

「私のことをよく知ってる人みたいでした」

 紫の瞳がこちらを向く。

 同じ紫色でも、リリアの瞳とは少し違う。リリアのものが明るい紫水晶なら、ルシアンの瞳は夜の底に近い。光の加減によっては黒にも見えるほど深い色だった。

「入学試験の資料はすべて読んでいるからね」

「生徒会長ってそこまで見るんですか?」

「今年の首席くらいは」

「……」

「まだ疑ってる?」

「かなり」

「正直で結構」

 ルシアンは書類を一枚めくった。

「君の入学試験についても少し調べた。実技試験では、試験官から指定された術式を一度見ただけで再現しているね」

「簡単だったので」

「王宮魔導師でも習得に数日はかかる術式だよ」

「そうなんですか?」

「君は自分の基準がおかしいことを、そろそろ自覚した方がいい」

 昨日セシルにも似たようなことを言われた気がする。

「それに、魔法理論の答案も興味深い。最後の問題は模範解答と違う方法で解いている」

「模範解答の方法だと遠回りだったので」

「そうだろうね。君の方法の方が正しい」

 ルシアンはさらりと言った。

 教師ですら採点に時間をかけた部分だった。

「分かるんですか?」

「もちろん」

「先輩も魔法が得意なんですね」

「それなりに」

「それなりってレベルじゃない気がします」

「君に言われたくないな」

 初めて。

 少しだけ会話が楽しいと思った。

 ルシアンは何を考えているのか分からないし、時々妙なことを言う。けれど魔法の話になると、驚くほど会話が通じる。

 リリアは机の上にある答案へ身を乗り出した。

「ここの問題、先輩ならどう解きます?」

「僕?」

「もっと短くできそう」

「できるよ」

「やっぱり」

「見たい?」

「見たいです」

 ルシアンがペンを取る。

 紙の余白に術式を書き始めた。

 最初の三行まではリリアにも理解できた。四行目で知らない記号が現れ、五行目でその記号が既存の術式へ接続される。

「待ってください」

「うん?」

「今の何ですか?」

「どれ?」

「これ」

 リリアは紙を指差す。

「この記号、教本に載ってない」

「よく気づいたね」

「何ですか?」

「古い術式だよ。今ではほとんど使われていない」

「なんで知ってるんですか?」

「本で読んだ」

「どの本?」

「忘れたな」

「また怪しい」

 ルシアンが笑う。

「君、本当に僕を疑うのが好きだね」

「先輩が疑われるようなことばかりするからです」

「なるほど。では今後は気をつけよう」

「今後も会う前提なんですね」

 リリアが何気なく言う。

 ルシアンのペン先が止まった。

「……会うよ」

 返ってきた声は、先ほどまでより少し静かだった。

「君がここにいる限り、何度でも」

 リリアは瞬いた。

 妙な言葉だった。

 ただ同じ学院にいるという意味なら、不自然ではない。それなのに、ルシアンの声には別の意味が含まれているように聞こえた。

「ノクス先輩」

「何?」

「やっぱり、前に会ったことありません?」

「ないよ」

「即答」

「事実だからね」

「じゃあ、なんで初日に私を見て『やっと』って言ったんですか?」

 ルシアンは答えなかった。

 眼鏡の奥の紫色の瞳が、まっすぐリリアを見る。

「先輩?」

「……君は」

 ゆっくり口を開く。

「知らない方が幸せなことがあると思う?」

「急に何ですか」

「質問」

 リリアは少し考えた。

「あるとは思います」

「意外だな。君なら全部知りたいと言うかと思った」

「知る必要があるなら知りたいです。でも、知らなくてもいいことまで全部知りたいとは思わない」

「では、自分に関係することなら?」

「それは知りたい」

 今度は迷わなかった。

「私のことなのに、私だけ知らないのは嫌です」

 ルシアンが黙る。

 窓から入る夕陽が、彼の横顔を照らしていた。

「……そう」

 やがて、わずかに笑う。

「君なら、そう言うと思った」

「また」

「何が?」

「そういうところです」

「気をつけると言ったばかりなのにね」

「全然気をつけてない」

「難しいんだよ」

「何がですか?」

 ルシアンは答えず、机の引き出しから小さな銀色の札を取り出した。

「これを」

「?」

「特別資料室の入室許可証」

 リリアの目が変わった。

「特別資料室?」

「一般生徒には開放されていない魔導書や、古代術式に関する資料が保管されている」

「行きたい」

「だと思った」

「今から行けます?」

「今日は閉室時間が近いから明日」

「何時から?」

「放課後」

「分かりました」

「……魔法の話になると急に素直だね」

「貴重な資料は大事です」

「生徒会長より?」

「比べるものじゃないです」

「つまり僕より大事?」

「だから比べるものじゃないです」

「否定はしてくれないんだ」

 少し残念そうな言い方がおかしくて、リリアは笑った。

「ノクス先輩って、思ってたより変な人ですね」

「それは初めて言われたな」

「嘘」

「どうして?」

「絶対言われてる顔してる」

「顔で判断するのは良くないよ」

「じゃあ性格で判断します」

「もっと悪くなりそうだ」

 二人の間に、小さな笑いが落ちた。

 初日に会った時には、何を考えているのか分からなくて不気味な先輩だと思った。今も分からないことに変わりはないが、少なくとも話しにくい相手ではないらしい。

 むしろ魔法についてなら、もっと話してみたい。

 そう思ったことが少し意外だった。
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