魔法より、君に恋をする。

ノアルート 第46章 君と迎える明日

世界を救った翌日、リリアは寝坊した。

 目を覚ました時には、窓から差し込む光がすっかり高くなっていて、枕元の時計を見た瞬間、しばらく動けなかった。昨日の出来事が夢だったのではないかと思うほど、部屋は静かだった。

 黒い月はない。警鐘も聞こえない。胸元に触れてみても、十三本の線は消えていた。

 代わりに、机の上には昨日脱ぎ散らかした制服があり、床には片方だけの靴下が落ちている。

「……終わったんだ」

 世界が救われた実感より先に、片付けなきゃ、と思った。

 けれど今日は休校だった。

 昨日の異常現象による設備点検という名目で、学院は一日すべての授業を停止している。世界が十二回の再構築から解放された、などと一般生徒へ説明できるはずもなく、公式発表は「大規模魔力障害」で統一されたらしい。

 リリアはベッドから降り、制服ではなく簡単な私服へ着替えた。髪を整えている途中で、ふと思い出す。

 昨日、ノアは言った。

 ――明日決めよう。

「今日だ」

 鏡の中の自分を見る。

 昨日までと同じ顔。

 銀白色の髪も、青紫の瞳も変わらない。

 でも。

 今日という日は、昨日までのどの世界にも存在しなかった。

 十二回の続きではない。

 誰かが用意した十三回目でもない。

 自分たちが選んだ、最初の明日。

 そう思ったら、急にノアに会いたくなった。

     *

 男子寮へ向かおうとして、途中で迷った。

 学院に入学して数ヶ月も経っているのだから、そろそろ敷地内くらい完璧に把握していてもいいはずなのに、見覚えのない噴水の前へ出た。

「……どこ」

「こっちが聞きたいよ」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 ノアがいた。

「いた」

「いた、じゃないよ。なんで男子寮に行く途中で旧研究棟まで来るの?」

「男子寮行くって言ってない」

「じゃあどこ行くつもりだったの?」

「ノアのところ」

「同じじゃん」

 ノアが笑いながら近づいてくる。寝起きなのか、いつもより淡い青を帯びた銀髪が少しだけ乱れていた。

「ノアも私探してた?」

「うん」

「なんで?」

「会いたかったから」

「私も」

 それだけ言う。

 以前なら、ノアはその一言だけで大げさなくらい喜んだかもしれない。今は目元を柔らかくして、「そっか」と答えただけだった。

 でも、その顔が嬉しそうなのは分かる。

「ちゃんと寝た?」

「五時間くらい」

「少ない」

「誰かさんが世界を完成させたあと、後処理が大変だったから」

「私寝た」

「知ってる。途中から僕の肩で寝てた」

「覚えてない」

「僕は覚えてる」

 ノアが手を差し出した。

 リリアはその手を取る。

 何かから逃げるためでも、危険から守ってもらうためでもない。どこへ行くかもまだ決めていないのに、自然とそうした。

「で」

 ノアが聞く。

「今日、何する?」

 昨日の続き。

 リリアは考えた。

「朝ご飯」

「もう昼近いよ」

「じゃあ昼ご飯」

「何食べたい?」

「苺のタルト」

「ご飯じゃないね」

「じゃあご飯食べてから苺のタルト」

「いいね」

 それだけで。

 今日の予定が決まった。

     *

 街は驚くほど普通だった。

 昨夜の黒い月について噂している人は多かったけれど、店は開いているし、馬車は走っている。市場では値段交渉の声が飛び交い、子どもたちは道の端で遊んでいた。

 世界が終わりかけた翌日にも、パン屋からは焼きたての匂いがする。

「なんか変」

 リリアが言う。

「何が?」

「普通」

「いいことでしょ」

「うん。でももっと、世界救いましたって感じすると思ってた」

「例えば?」

「王様から表彰されるとか」

「されたい?」

「ちょっと」

「正直だね」

「金一封ほしい」

「そっち?」

「世界救ったから」

「交渉してみる?」

「ルシアン先輩に頼もうかな」

「本当にやりそうだからやめよう」

 くだらない話をしながら歩く。

 昼食を食べ、以前二人で入った店へ向かった。

 同じ窓際の席が空いている。

「ここにする?」

「うん」

 注文するものも、前と同じ。

 苺のタルトが二つ。

「前ここ来た時」

 ノアが言う。

「まだ付き合ってなかったね」

「うん」

「すごく緊張してた」

「ノアが?」

「僕が」

「慣れてそうだった」

「好きな子と二人で出かけるのに慣れてる男だと思われてた?」

「ちょっと」

「ひどいなあ」

 笑いながらフォークを取る。

 リリアは苺を一つ食べてから、ふと思い出した。

「ノア」

「ん?」

「記憶、残ってる?」

 ノアの手が止まった。

 十二の世界。

 偽神が奪おうとしたもの。

「……残ってるよ」

「全部?」

「たぶん」

「そっか」

「気になる?」

「少し」

 ノアは窓の外へ目を向けた。

「変な感じなんだ」

「何が?」

「前は、過去がすぐ後ろにいる感じだった」

 少し考えながら言葉を選ぶ。

「何をしてても、前にも同じことがあった気がした。君が笑えば、昔のリリアが笑った顔を思い出すし、君が危ない目に遭えば、死んだ時のことを思い出す。今を見てるつもりでも、ずっと過去と重なってた」

「今は?」

「遠い」

 ノアが笑った。

「忘れたわけじゃない。でも、ちゃんと昔のことになった」

 リリアはそれを聞いて、少し安心した。

「昔のリリアのこと、まだ好き?」

「大切だよ」

 答えは変わらない。

 でも、もう胸は痛まなかった。

「そっか」

「嫉妬しない?」

「ちょっとはする」

「するんだ」

「でも」

 リリアはノアを見る。

「今ノアの前にいるの私だから」

 ノアが目を細める。

「強くなったね」

「最初から強い」

「そうだった」

「あと、今のノアが好きなのも私」

「うん」

「だからいい」

 過去を消す必要なんてなかった。

 忘れなければ前へ進めないわけでもない。

 過去に好きだった人がいることと、今ここにいる人を愛することは、きっと同時に存在できる。

 ノアがフォークで苺を切りながら言った。

「ねえ、リリア」

「何?」

「来年もここ来ようよ」

「いいよ」

「再来年も」

「うん」

「卒業しても?」

「来れるなら」

「そこは絶対って言ってよ」

「仕事とかあるかもしれない」

「急に現実的」

「大事でしょ」

「大事だけど」

 リリアは少し考えてから、付け足した。

「でも、来たい」

「……うん」

「ノアと」

 それで十分だったらしい。

 ノアは嬉しそうに笑った。

     *

 世界が終わらなかったから、日常は容赦なく戻ってきた。

 翌日には授業が再開され、リリアは提出期限を忘れていた課題を教師に叱られた。ノアは笑ったせいで一緒に怒られ、セシルは二人を見ながら「世界を救っても課題は消えないんだね」と妙に納得していた。

 昼になれば、七人は以前と同じ場所へ集まった。

 以前と全く同じではない。

 それでも、誰かが消えることはなかった。

 アレンは相変わらずノアに突っかかるし、カイルは必要な時以外ほとんど喋らない。レオンハルトは王族としての仕事に追われながらも時々顔を出し、ルシアンは世界の管理者という役割を失ったはずなのに、結局生徒会長として誰より忙しそうだった。

 セシルとは今まで通りだった。

 ただ、時々。

 リリアを見る彼女の瞳に、以前なら気づかなかった感情があることを、今のリリアは少しだけ理解していた。

 それについてセシルは何も言わない。

 リリアも聞かなかった。

 選ばなかったからといって、大切ではなくなるわけではない。

 六人との関係が同じ形で残るわけではないことも、少しずつ分かってきた。

 それでも。

 この世界には明日がある。

 だから、それぞれが自分の未来へ進めばいい。

     *

 季節が変わった。

 春だった学院に夏が来て、秋が過ぎ、冬になった。

 黒い月は二度と現れなかった。

 黒い石もただの石のままだった。

 十三本目の線がリリアの身体へ浮かぶこともない。

 そして。

 また春が来た。

「進級できた」

 新しい青色のネクタイを見ながら、リリアは言った。

「できたね」

「危なかった」

「魔法実技首席なのに、一般教養で進級危ない人初めて見たよ」

「歴史が多い」

「勉強しようね」

「ノアが教えて」

「もちろん」

 二人とも二年生。

 青いネクタイ。

 去年まで赤いネクタイをしていたカイルとルシアンは学院を卒業した。それでも時々顔を出すし、連絡も来る。

 一つ上だったレオンハルトとアレンは、今では三年生だ。

 時間が進んだ。

 当たり前のことなのに。

 ノアは時々、それだけで嬉しそうな顔をする。

「何笑ってるの?」

「進級したなあって」

「さっき私が言った」

「僕も思ったの」

「変なの」

「うん」

 その意味を。

 リリアは知っている。

 だから、それ以上は聞かなかった。

     *

 さらに二年後。

 アルカディアの正門前には、卒業生とその家族が溢れていた。

 リリアは卒業証書を片手に、門の前で立ち止まった。

「卒業した」

「したね」

 隣にいるノアも、同じ卒業証書を持っている。

「三年間早かった」

「僕は長かったな」

「なんで?」

「いっぱいあったから」

「一年目が濃すぎた」

「世界救ったからね」

「二年目と三年目は普通だった」

「それがよかったんだよ」

 ノアが笑う。

 その横顔は、十五歳の頃より少し大人びていた。

 背も少し伸びた。

 声も。

 雰囲気も。

 でも。

 笑う時の目は変わらない。

「リリア」

「何?」

「これからどうする?」

 卒業後。

 リリアは王立魔法研究機関への所属が決まっている。ノアも同じ王都で仕事を始める。

 住む場所も。

 仕事も。

 これから決めることは山ほどある。

「まず」

「うん」

「苺のタルト」

 ノアが吹き出した。

「卒業式の日も?」

「約束した」

「覚えてたんだ」

「覚えてるよ」

「じゃあ行こう」

 歩き出す。

 学院の門を出る。

 リリアは数歩進んでから、立ち止まった。

「ノア」

「ん?」

「手」

 ノアが差し出す。

 握る。

 もう。

 何度したか分からない。

 それでも。

 初めて自分から握った日のことを覚えている。

「ねえ」

「何?」

「これからも一緒にいる?」

 ノアはすぐには答えなかった。

 昔なら。

 きっと。

 永遠を約束した。

 何があっても。

 絶対に。

 ずっと。

 でも今は。

「いたい」

 そう答えた。

「僕は、これからも君と一緒にいたい」

 決められた未来ではない。

 誓約でもない。

 明日、何が起こるか分からない。

 喧嘩するかもしれない。

 違うことを考える日もある。

 それでも。

「リリアは?」

「私も」

 リリアは笑った。

「ノアといたい」

「そっか」

「うん」

 それだけで。

 未来へ進む理由には十分だった。

     *

 街へ向かう途中。

 ノアが突然立ち止まった。

「リリア」

「何?」

「そっちじゃない」

「え?」

「店、反対」

 リリアは道を見る。

「……本当?」

「三年間で治らなかったね」

「今日は考え事してたから」

「何考えてたの?」

「ノアのこと」

 ノアが黙った。

「なら仕方ないか」

「仕方ない?」

「うん」

 笑って。

 繋いだ手を引かれる。

「こっち」

「うん」

 今度は。

 迷わない。

 ノアがいるから、ではない。

 もし一人でも。

 間違えたら戻ればいい。

 違う道を選んだら、また選び直せばいい。

 世界はもう。

 やり直さない。

 だから。

 人は何度でも。

 その続きを選べる。

     *

 十二の世界で。

 ノアは何度も彼女を愛した。

 守ろうとした。

 失った。

 自分の命と引き換えにしてでも、彼女だけは生かしたいと願った。

 それが愛なのだと。

 長い間、本気で思っていた。

 でも。

 今は違う。

 隣を歩く少女がいる。

 昔の誰とも同じではない。

 自分を選ぶ義務なんてなかった少女。

 それでも。

 彼女は自分の手を取った。

「ノア」

「ん?」

「今日、タルト二個食べてもいい?」

「ご飯食べてからね」

「一個先は?」

「駄目」

「なんで?」

「絶対ご飯食べなくなるから」

「食べる」

「信用ないなあ」

「彼女を信用して」

「そこは別問題」

「けち」

「はいはい」

 そんな会話をしながら。

 歩く。

 生きる。

 明日へ行く。

 いつか。

 この手を離す日が来るかもしれない。

 人生に絶対なんてない。

 でも。

 それでいい。

 永遠を保証されなくても。

 運命に決められていなくても。

 今日。

 また彼女を選ぶ。

 そして明日が来たら。

 明日の自分が。

 もう一度選べばいい。

「ノア」

「なに?」

 リリアが振り返る。

「好き」

 不意打ちだった。

 ノアは少しだけ目を見開いて。

 笑った。

「僕も」

 繋いだ手を。

 少しだけ強く握る。

 死ぬためではなく。

 守るためだけでもなく。

 同じ未来を。

 歩くために。

 ――君と、生きる方を選ぶ。

Noah Ferdinand Route

END
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