魔法より、君に恋をする。
二十分後。
「……おかしい」
リリアは見知らぬ中庭に立っていた。
図書館へ向かったはずだった。
途中までは合っていたと思う。
たぶん。
けれど目の前にあるのは図書館ではなく、小さな噴水と花壇だった。
「こんなところあったっけ」
学院の敷地は広い。
入学して二週間も経っていないリリアが知らない場所など、いくらでもある。
つまり、完全に迷った。
「戻ろう」
さすがに知らない場所へ進むなと言われたばかりなので、今日は素直に引き返すことにした。
踵を返そうとして、木陰に人がいることに気づく。
長椅子に一人の男子生徒が座っていた。
金色の髪。
蒼の徽章。
「……レオンハルト先輩?」
呼びかけると、青年の肩がわずかに揺れた。
顔を上げたレオンハルトを見て、リリアは少し驚いた。
いつもの笑顔がない。
制服の上着は隣に置かれ、タイも少し緩んでいる。背もたれに身体を預けて空を眺める姿には、普段の隙のない王子らしさがなかった。
「リリア?」
「こんにちは」
「……こんにちは」
レオンハルトは反射的に姿勢を正そうとしたものの、途中で諦めたらしい。
「珍しいね。こんなところで」
「迷いました」
「やっぱり」
「笑わないでください」
「ごめん。でも君らしいなと思って」
「先輩は何してるんですか?」
「休憩」
「ここで?」
「静かだからね」
リリアは周囲を見渡した。
確かに誰もいない。
校舎の裏手にある小さな中庭らしく、遠くから生徒たちの声がかすかに聞こえてくる程度だった。
「隠れてるんですか?」
「……どうしてそう思ったの?」
「いつもと違うから」
「そんなに?」
「はい。制服も適当だし、顔も違う」
「顔?」
「いつもの笑顔じゃない」
レオンハルトが少し驚いたようにリリアを見る。
「よく見てるんだね」
「分かりやすいですよ」
「そう言われたのは初めてだな」
「みんな言わないだけじゃないですか?」
「……そうかもしれないね」
リリアは空いている場所を見た。
「隣、座ってもいいですか?」
「もちろん」
少し距離を空けて腰を下ろす。
風が木々を揺らし、金色の髪がさらりと動いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
気まずくはない。
リリアは静かな時間が嫌いではなかった。
「何も聞かないんだね」
先に口を開いたのはレオンハルトだった。
「何を?」
「どうしてここにいるのか、とか」
「聞いてほしいんですか?」
「……いや」
「じゃあ聞きません」
「君は変わってるね」
「よく言われます」
レオンハルトは少し笑った。
「疲れてるんですか?」
リリアが尋ねる。
今度は彼が黙った。
「そう見える?」
「見えます」
「みんなには元気そうだと言われるよ」
「元気そうにしてるからじゃないですか?」
何でもないことのように答えると、レオンハルトは目を瞬いた。
「笑ってるし。でも、笑うのって元気じゃなくてもできますよね」
「……そうだね」
「だから疲れてるなら休んだ方がいいと思います」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、肩の力を抜くように息を吐く。
「君は時々、ずるいね」
「何もしてませんけど」
「だからだよ」
「意味分からないです」
「分からなくていいよ」
「またそうやって誤魔化す」
「ごめん」
今度の笑い方は、学院でよく見る第二王子の笑顔とは違った。
少し疲れていて、どこか困ったような、それでも安心しているような笑顔だった。
リリアはその顔を眺める。
「そっちの方がいいです」
「何が?」
「今の笑い方」
レオンハルトの目が見開かれる。
「いつものも綺麗ですけど、ちょっと作ってる感じがするから」
「……そこまで言う?」
「駄目でした?」
「いや」
彼は俯き、片手で額を押さえた。
「参ったな」
「何がですか?」
「君には格好つけられないらしい」
「別に格好つけなくていいと思います」
「僕は王子だからね。そういうわけにもいかないんだ」
「学院でも?」
「学院でも」
「大変ですね」
「それだけ?」
「他に何て言えばいいんですか?」
「普通なら、頑張ってくださいとか」
「もう頑張ってる人に頑張れって言っても疲れるだけじゃないですか?」
また、レオンハルトが黙った。
何か変なことを言っただろうか。
「レオンハルト先輩?」
「……もう少しだけ、ここにいてくれる?」
思いがけない言葉だった。
「私が?」
「うん」
「いいですけど」
「ありがとう」
二人で並んで空を見る。
話さなくてもいいらしい。
王子様でも疲れるんだな、とリリアは当たり前のことを思った。
そのまましばらく過ごしたあと、レオンハルトがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、君は図書館へ行こうとしていたんだよね?」
「はい」
「ここ、図書館と正反対だよ」
「……」
「どれくらい歩いた?」
「二十分くらい」
「それは完全に迷ってるね」
「学院を探索してました」
「図書館へ行く途中に?」
「そうです」
レオンハルトは少し耐えていたが、やがて声を立てて笑い始めた。
「そんなに笑います?」
「ごめん。君があまりにも真顔で言うから」
「本当なのに」
「分かった。そういうことにしておこう」
「その言い方、嫌いです」
レオンハルトの笑い声が止まった。
「……どうしました?」
「いや」
彼は不思議そうに眉を寄せる。
「なんとなく、前にも同じことで怒られたような気がした」
リリアの表情が変わった。
「誰に?」
「分からない」
「私じゃなくて?」
「君とは入学式の日が初対面だろう?」
「そうですけど」
レオンハルト自身も困惑している。
やはり、ルシアンやカイルとは違う。
知っているのに隠している人の顔ではない。
「今日の授業でも思ったんですけど」
「うん?」
「レオンハルト先輩、本当に私と会ったことないですか?」
「……どうして?」
「先輩みたいな人が他にもいるから」
「僕みたいな?」
「私を初めて見たはずなのに、初めてじゃないみたいなことを言う人」
レオンハルトの青い瞳がわずかに揺れる。
「誰?」
「秘密です」
「そこは教えてくれないんだ」
「先輩は私に秘密ないんですか?」
問い返すと、レオンハルトは困ったように笑った。
「あるよ。王子だからね」
「じゃあお互い様です」
「一本取られたな」
彼は少し考えてから、自分の右手を見た。
「僕は君を知らない。少なくとも、覚えてはいないよ」
「覚えてはいない?」
「今日、君の魔力に触れた時、懐かしいと思ったのは本当だと思う。でも、理由が分からない」
レオンハルトは自分でも答えを探すように、ゆっくり言葉を選んでいた。
「それに君と話していると、時々、次に何を言われるのか知っているような気がする。でも実際には分からない。変だろう?」
「かなり」
「即答だね」
「だって変です」
「そうだね」
レオンハルトが笑う。
今度は作っていない方の笑顔だった。
「だから、もし僕がまた変なことを言ったら教えてくれる?」
「いいですよ」
「ありがとう」
「その代わり、何か思い出したら私にも教えてください」
レオンハルトの表情が少しだけ変わる。
「約束?」
「約束です」
「……分かった」
彼は頷いた。
「約束する」
リリアは満足して立ち上がった。
「じゃあ図書館行きます」
「今から?」
「はい」
「もう結構いい時間だけど」
「少しだけ調べたいことがあるので」
「送るよ」
「図書館まで?」
「放っておいたら次はどこへ行くか分からないから」
「一回迷っただけです」
「今日だけで?」
「……今日は一回です」
「それは一回迷った人の言い方じゃないな」
レオンハルトも立ち上がり、隣に置いていた制服の上着を手に取った。
タイを整えようとする彼を見て、リリアは何となく言った。
「そのままでいいんじゃないですか?」
「え?」
「今は誰もいないし」
レオンハルトは緩んだタイへ触れたまま、リリアを見る。
「私しか見てないから」
深い意味はなかった。
けれどレオンハルトは動かなかった。
「……先輩?」
「リリア」
「はい」
「そういうこと、あまり男に言わない方がいいよ」
「なんで?」
「……分からないなら、今はいい」
「またそれ」
「これは本当に、今は分からなくていい」
レオンハルトは困ったように笑った。
その耳がわずかに赤いことに、リリアは気づかなかった。
「……おかしい」
リリアは見知らぬ中庭に立っていた。
図書館へ向かったはずだった。
途中までは合っていたと思う。
たぶん。
けれど目の前にあるのは図書館ではなく、小さな噴水と花壇だった。
「こんなところあったっけ」
学院の敷地は広い。
入学して二週間も経っていないリリアが知らない場所など、いくらでもある。
つまり、完全に迷った。
「戻ろう」
さすがに知らない場所へ進むなと言われたばかりなので、今日は素直に引き返すことにした。
踵を返そうとして、木陰に人がいることに気づく。
長椅子に一人の男子生徒が座っていた。
金色の髪。
蒼の徽章。
「……レオンハルト先輩?」
呼びかけると、青年の肩がわずかに揺れた。
顔を上げたレオンハルトを見て、リリアは少し驚いた。
いつもの笑顔がない。
制服の上着は隣に置かれ、タイも少し緩んでいる。背もたれに身体を預けて空を眺める姿には、普段の隙のない王子らしさがなかった。
「リリア?」
「こんにちは」
「……こんにちは」
レオンハルトは反射的に姿勢を正そうとしたものの、途中で諦めたらしい。
「珍しいね。こんなところで」
「迷いました」
「やっぱり」
「笑わないでください」
「ごめん。でも君らしいなと思って」
「先輩は何してるんですか?」
「休憩」
「ここで?」
「静かだからね」
リリアは周囲を見渡した。
確かに誰もいない。
校舎の裏手にある小さな中庭らしく、遠くから生徒たちの声がかすかに聞こえてくる程度だった。
「隠れてるんですか?」
「……どうしてそう思ったの?」
「いつもと違うから」
「そんなに?」
「はい。制服も適当だし、顔も違う」
「顔?」
「いつもの笑顔じゃない」
レオンハルトが少し驚いたようにリリアを見る。
「よく見てるんだね」
「分かりやすいですよ」
「そう言われたのは初めてだな」
「みんな言わないだけじゃないですか?」
「……そうかもしれないね」
リリアは空いている場所を見た。
「隣、座ってもいいですか?」
「もちろん」
少し距離を空けて腰を下ろす。
風が木々を揺らし、金色の髪がさらりと動いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
気まずくはない。
リリアは静かな時間が嫌いではなかった。
「何も聞かないんだね」
先に口を開いたのはレオンハルトだった。
「何を?」
「どうしてここにいるのか、とか」
「聞いてほしいんですか?」
「……いや」
「じゃあ聞きません」
「君は変わってるね」
「よく言われます」
レオンハルトは少し笑った。
「疲れてるんですか?」
リリアが尋ねる。
今度は彼が黙った。
「そう見える?」
「見えます」
「みんなには元気そうだと言われるよ」
「元気そうにしてるからじゃないですか?」
何でもないことのように答えると、レオンハルトは目を瞬いた。
「笑ってるし。でも、笑うのって元気じゃなくてもできますよね」
「……そうだね」
「だから疲れてるなら休んだ方がいいと思います」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、肩の力を抜くように息を吐く。
「君は時々、ずるいね」
「何もしてませんけど」
「だからだよ」
「意味分からないです」
「分からなくていいよ」
「またそうやって誤魔化す」
「ごめん」
今度の笑い方は、学院でよく見る第二王子の笑顔とは違った。
少し疲れていて、どこか困ったような、それでも安心しているような笑顔だった。
リリアはその顔を眺める。
「そっちの方がいいです」
「何が?」
「今の笑い方」
レオンハルトの目が見開かれる。
「いつものも綺麗ですけど、ちょっと作ってる感じがするから」
「……そこまで言う?」
「駄目でした?」
「いや」
彼は俯き、片手で額を押さえた。
「参ったな」
「何がですか?」
「君には格好つけられないらしい」
「別に格好つけなくていいと思います」
「僕は王子だからね。そういうわけにもいかないんだ」
「学院でも?」
「学院でも」
「大変ですね」
「それだけ?」
「他に何て言えばいいんですか?」
「普通なら、頑張ってくださいとか」
「もう頑張ってる人に頑張れって言っても疲れるだけじゃないですか?」
また、レオンハルトが黙った。
何か変なことを言っただろうか。
「レオンハルト先輩?」
「……もう少しだけ、ここにいてくれる?」
思いがけない言葉だった。
「私が?」
「うん」
「いいですけど」
「ありがとう」
二人で並んで空を見る。
話さなくてもいいらしい。
王子様でも疲れるんだな、とリリアは当たり前のことを思った。
そのまましばらく過ごしたあと、レオンハルトがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、君は図書館へ行こうとしていたんだよね?」
「はい」
「ここ、図書館と正反対だよ」
「……」
「どれくらい歩いた?」
「二十分くらい」
「それは完全に迷ってるね」
「学院を探索してました」
「図書館へ行く途中に?」
「そうです」
レオンハルトは少し耐えていたが、やがて声を立てて笑い始めた。
「そんなに笑います?」
「ごめん。君があまりにも真顔で言うから」
「本当なのに」
「分かった。そういうことにしておこう」
「その言い方、嫌いです」
レオンハルトの笑い声が止まった。
「……どうしました?」
「いや」
彼は不思議そうに眉を寄せる。
「なんとなく、前にも同じことで怒られたような気がした」
リリアの表情が変わった。
「誰に?」
「分からない」
「私じゃなくて?」
「君とは入学式の日が初対面だろう?」
「そうですけど」
レオンハルト自身も困惑している。
やはり、ルシアンやカイルとは違う。
知っているのに隠している人の顔ではない。
「今日の授業でも思ったんですけど」
「うん?」
「レオンハルト先輩、本当に私と会ったことないですか?」
「……どうして?」
「先輩みたいな人が他にもいるから」
「僕みたいな?」
「私を初めて見たはずなのに、初めてじゃないみたいなことを言う人」
レオンハルトの青い瞳がわずかに揺れる。
「誰?」
「秘密です」
「そこは教えてくれないんだ」
「先輩は私に秘密ないんですか?」
問い返すと、レオンハルトは困ったように笑った。
「あるよ。王子だからね」
「じゃあお互い様です」
「一本取られたな」
彼は少し考えてから、自分の右手を見た。
「僕は君を知らない。少なくとも、覚えてはいないよ」
「覚えてはいない?」
「今日、君の魔力に触れた時、懐かしいと思ったのは本当だと思う。でも、理由が分からない」
レオンハルトは自分でも答えを探すように、ゆっくり言葉を選んでいた。
「それに君と話していると、時々、次に何を言われるのか知っているような気がする。でも実際には分からない。変だろう?」
「かなり」
「即答だね」
「だって変です」
「そうだね」
レオンハルトが笑う。
今度は作っていない方の笑顔だった。
「だから、もし僕がまた変なことを言ったら教えてくれる?」
「いいですよ」
「ありがとう」
「その代わり、何か思い出したら私にも教えてください」
レオンハルトの表情が少しだけ変わる。
「約束?」
「約束です」
「……分かった」
彼は頷いた。
「約束する」
リリアは満足して立ち上がった。
「じゃあ図書館行きます」
「今から?」
「はい」
「もう結構いい時間だけど」
「少しだけ調べたいことがあるので」
「送るよ」
「図書館まで?」
「放っておいたら次はどこへ行くか分からないから」
「一回迷っただけです」
「今日だけで?」
「……今日は一回です」
「それは一回迷った人の言い方じゃないな」
レオンハルトも立ち上がり、隣に置いていた制服の上着を手に取った。
タイを整えようとする彼を見て、リリアは何となく言った。
「そのままでいいんじゃないですか?」
「え?」
「今は誰もいないし」
レオンハルトは緩んだタイへ触れたまま、リリアを見る。
「私しか見てないから」
深い意味はなかった。
けれどレオンハルトは動かなかった。
「……先輩?」
「リリア」
「はい」
「そういうこと、あまり男に言わない方がいいよ」
「なんで?」
「……分からないなら、今はいい」
「またそれ」
「これは本当に、今は分からなくていい」
レオンハルトは困ったように笑った。
その耳がわずかに赤いことに、リリアは気づかなかった。