魔法より、君に恋をする。
ルシアンルート 第44章 命令じゃなく、名前を呼んで
銀白色の光が、夜空を貫いていた。
ルシアンは生徒会室を飛び出した。階段を駆け下り、渡り廊下を抜ける。普段なら転移術式を使えば一瞬だった。けれど女子寮周辺の魔力が異常なほど乱れている。下手に空間へ干渉すれば、何が起こるか分からない。
右手が熱い。
走るたび、手の甲から腕へ伸びた紫黒色の線が脈打っている。
《管理対象ELICIA――魔力上昇》
《危険域到達まで――》
「黙れ」
表示を消す。
すぐにまた浮かぶ。
《第一権限――魔力制限 使用可能》
「使わない」
誰に言うでもなく吐き捨てた。
それでも知識が頭の中へ流れ込んでくる。
右手を向ける。
彼女の名を指定する。
命令式を一つ唱える。
それだけで、リリアの魔力を強制的に停止できる。
簡単だった。
あまりにも。
「……ふざけるな」
最初のリリアに使った権限。
彼女が拒否しても。
泣いても。
怒っても。
管理者である自分の命令が優先される。
それを。
今のリリアに使う。
考えただけで吐き気がした。
女子寮が見える。
何人もの生徒が外へ避難していた。
「生徒会長!」
一人がルシアンに気づく。
「中にまだ生徒が――」
「全員外へ。教師へ連絡を」
「でも」
「僕が行く」
返事を待たず、中へ入った。
魔力の圧が身体を叩く。
銀白色の光。
廊下の壁に、細い亀裂のようなものが走っている。
物理的な亀裂ではない。
空間そのものだ。
「リリア!」
返事はない。
階段を上る。
二階。
三階。
彼女の部屋へ近づくほど、右手の印が強く光る。
《管理対象――近接》
「その呼び方をやめろ」
扉の前。
「リリア!」
中から小さな声がした。
「……先輩?」
いる。
「入るよ」
「待って!」
ルシアンの手が止まった。
「来ないで!」
「どうした?」
「分かんない!」
声が震えている。
「寝ようとしたら急に魔力が出て……止められない」
「怪我は?」
「ない」
「苦しい?」
「ちょっと」
「分かった」
扉越しに話す。
「僕が入ってもいい?」
「……危なくない?」
「僕のことは気にしなくていい」
「でも」
「リリア」
一度、呼吸を整える。
「君のところへ行きたい」
少しの沈黙。
「……来て」
扉を開けた。
銀白色の光が溢れる。
部屋の中央。
リリアが床に座り込んでいた。
胸元から無数の術式線が伸びている。
壁へ。
床へ。
天井へ。
その全てが、世界のどこかへ繋がろうとしていた。
「ルシアン先輩」
「ここにいる」
一歩。
近づく。
《同期率――三十一・二パーセント》
数字が跳ねた。
「先輩、来たら上がる」
「見えている」
「離れて」
「嫌だ」
「でも」
「君が一人にされる方が怖いと言っただろう」
「今はそんな場合じゃ」
「今だからだよ」
もう一歩。
三十三。
三十五。
「先輩!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「そうだね」
ルシアンはリリアの数歩手前で止まった。
「だから一緒に考える」
「……どうしたら止まる?」
「原因はおそらく、古い機構からの強制接続だ」
「切れる?」
「試す」
術式を展開する。
リリアの周囲を解析する。
接続線。
魔力経路。
中心候補。
黒い月。
そして。
自分。
「……やっぱり」
「何?」
「僕の管理権限を経由している」
「先輩のせい?」
「違う」
リリアが言うより先に否定した。
「僕が原因ではない。君も原因じゃない」
「うん」
「僕たちを利用しているだけだ」
「じゃあ壊して」
「やってみる」
ルシアンが魔力を流す。
一本。
接続線を切る。
銀白色の光が一瞬弱くなる。
「いける?」
「もう一本」
切る。
さらに一本。
だが。
切った場所から、二本に増えた。
「……増えた」
「自己修復している」
「どうする?」
ルシアンは答えない。
右手が熱い。
《第一権限――魔力制限》
《推奨》
《対象の魔力を停止してください》
分かっている。
これを使えば止まる。
今すぐ。
「ルシアン先輩?」
「……方法はある」
「何?」
「僕の権限で、君の魔力を止められる」
リリアの表情が変わる。
「昨日の」
「ああ」
「管理権限?」
「ああ」
「使ったら?」
「暴走は止まる可能性が高い」
「その代わり?」
ルシアンは黙った。
「あるんでしょ?」
「……世界に、僕が管理者で君が管理対象だと認識させることになる」
「同期率は?」
「上がると思う」
「どれくらい?」
「分からない」
リリアが少し俯く。
「じゃあ使わない」
「僕もそのつもりだ」
「他の方法探す」
「ああ」
迷わず同じ答えになった。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
ルシアンは別の術式を組む。
「君自身で魔力を抑えられる?」
「やってる」
「僕が補助する」
「触らないでできる?」
「ああ」
魔力を重ねる。
干渉ではない。
制御でもない。
ただ、彼女自身が自分の力を掴めるように道筋を作る。
「リリア。息を吸って」
「うん」
「ゆっくり」
「うん」
「君の魔力だ」
「……うん」
「世界のものじゃない」
「うん」
「黒い月のものでもない」
「うん」
「僕のものでもない」
銀白色の光が僅かに揺れる。
「君のものだ」
「私の」
「ああ」
「私が決める」
「そう」
少しずつ。
光が弱くなる。
「できてる?」
「できている」
「本当?」
「嘘は言わない」
「先輩、時々言うじゃん」
「今それを言う?」
「ちょっと落ち着いた」
「ならよかった」
さらに弱くなる。
ルシアンも少し息を吐く。
いける。
管理権限を使わなくても。
彼女自身の意思で止められる。
そう思った瞬間。
黒い光が走った。
「リリア!」
「え――」
銀白色の術式線が一斉に反転した。
外へ溢れていた魔力が。
今度はリリアの身体へ押し戻される。
「っ……!」
リリアの身体が折れる。
「リリア!」
「痛……っ」
ルシアンが反射的に駆け寄る。
「どこが痛い?」
「胸……」
呼吸が浅い。
魔力が過剰に逆流している。
まずい。
このままでは魔力経路そのものが損傷する。
《対象ELICIA――魔力過負荷》
《第一権限使用を推奨》
「……」
《魔力制限を実行してください》
「先輩」
リリアが顔を上げる。
「何?」
「顔、怖い」
「……ごめん」
「何かある?」
「このままだと危ない」
「どれくらい?」
「魔力経路が壊れる可能性がある」
「それって」
「最悪の場合、命に関わる」
リリアの顔から色が消える。
右手が熱い。
使え。
止めろ。
管理しろ。
命令しろ。
昔と同じように。
《実行待機》
「ルシアン先輩」
「……何?」
「使う?」
リリアも分かっている。
「管理権限」
「使いたくない」
「私も使われたくない」
「ああ」
「でも死ぬのも嫌」
胸が痛んだ。
「……僕も嫌だ」
「じゃあどうする?」
「考えている」
時間がない。
リリアの魔力はさらに上がっている。
呼吸も苦しそうだ。
右手を向ければ。
一言で。
終わる。
「先輩」
「うん」
「私に聞いて」
ルシアンが顔を上げる。
「何を?」
「使っていいか」
「……」
「勝手に命令するのが嫌なんでしょ?」
「ああ」
「私も嫌」
「うん」
「だったら聞いて」
リリアが苦しそうに、それでもまっすぐ彼を見る。
「私が決めるから」
ルシアンは動けなかった。
何千年も前。
最初の彼女へ。
自分は聞かなかった。
『動くな』
命令した。
彼女の命を守るため。
正しいと思って。
でも今回は。
「……リリア」
「うん」
「僕の管理権限を使えば、君の魔力を止められる可能性が高い」
「うん」
「その代わり、接続が強くなるかもしれない」
「うん」
「僕の命令が、今後もっと君へ届きやすくなる可能性もある」
「……うん」
「それでも」
喉が詰まる。
言いたくない。
でも聞く。
「使ってもいい?」
リリアは数秒、目を閉じた。
そして。
「使って」
答えた。
「今は生きたい」
「……分かった」
「でも約束して」
「何?」
「これを、私を管理していいって許可だと思わないで」
「絶対に思わない」
「今日だけ」
「ああ」
「今の暴走を止めるためだけ」
「ああ」
「それ以外に使わないで」
「約束する」
「じゃあ」
リリアが手を伸ばした。
震えている。
「お願いします」
ルシアンはその手を見た。
触れていいのか迷う。
「手」
リリアが言う。
「握ってて」
「……いいの?」
「怖いから」
ルシアンは左手で、その手を握った。
強く。
「ここにいる」
「うん」
「離さない」
「うん」
右手を上げる。
紫黒色の術式が展開される。
嫌になるほど身体が覚えていた。
《第一権限――起動》
リリアの身体に銀白色の術式が浮かぶ。
彼女が少し震えた。
「怖い?」
「怖い」
「僕もだ」
「先輩も?」
「ああ」
「そっか」
リリアが左手を握り返す。
「じゃあ一緒」
「ああ」
ルシアンは右手を向けた。
命令式が喉まで出かかる。
『ELICIA――魔力を停止せよ』
それが正しい術式。
でも。
言えなかった。
「……嫌だ」
「先輩?」
「その言い方をしたくない」
「でも術式が」
「少し待って」
ルシアンは術式を見る。
管理者から対象への命令。
一方的な接続。
だから。
「命令である必要があるのか?」
「え?」
「術式が必要としているのは、僕の権限と君の魔力への干渉だ」
「うん」
「言葉そのものじゃない」
「変えられる?」
「やってみる」
「失敗したら?」
「すぐ正規術式を使う」
「分かった」
ルシアンは右手を下ろさない。
でも。
命令ではなく。
リリアを見る。
「リリア」
「うん」
「僕の声、聞こえる?」
「聞こえる」
「僕が今から君の魔力に触れる」
「うん」
「嫌だったら言って」
「うん」
「止めてほしくなったら止める」
「うん」
「君の力を奪うんじゃない」
左手を握る。
「少しだけ、休ませる」
リリアの目が僅かに潤む。
「……うん」
「いい?」
「お願い」
ルシアンは目を閉じた。
「リリア」
名前を呼ぶ。
「今だけ、僕に預けて」
右手の術式が光った。
銀白色の光が揺れる。
リリアが息を呑む。
でも。
命令式は発動しなかった。
代わりに。
紫黒色と銀白色。
二つの魔力がゆっくり重なる。
「……止まって」
命令ではない。
願うように。
「お願いだから」
光が弱くなる。
「リリア」
もう一度。
「大丈夫」
さらに弱くなる。
「僕がいる」
魔力の奔流が細くなる。
そして。
消えた。
静寂。
「……」
リリアの身体から力が抜けた。
「リリア!」
倒れる身体を抱き止める。
「大丈夫?」
「……うん」
「痛い?」
「もう痛くない」
「気持ち悪くない?」
「平気」
「意識は?」
「先輩がうるさいくらいある」
「……よかった」
その一言だけ。
声が震えた。
リリアが顔を上げる。
「先輩」
「何?」
「泣きそう?」
「……泣かないよ」
「嘘」
「今は君の方が大事」
「私平気」
「本当に?」
「うん」
リリアはルシアンの胸へ少し寄りかかった。
「疲れた」
「休んで」
「このまま?」
「嫌でなければ」
「このままがいい」
ルシアンの腕が背中へ回る。
抱きしめる。
さっきまで触れることさえ避けていたのに。
今は離せなかった。
「……怖かった」
リリアが小さく言う。
「ああ」
「死ぬかと思った」
「言わないで」
「先輩も思った?」
「……少し」
「そっか」
抱く腕が強くなる。
「苦しい」
「あ、ごめん」
「でも離さないで」
「どっち?」
「少し弱くして抱いて」
「難しい注文だね」
「できるでしょ」
「やってみる」
腕の力が緩む。
「これ?」
「ちょうどいい」
「よかった」
しばらく二人とも何も言わなかった。
リリアは彼の胸へ耳を当てていた。
速い。
「先輩」
「何?」
「心臓すごい」
「君のせいだよ」
「怖かったから?」
「それもある」
「他は?」
「君を抱いているから」
「……今それ言う?」
「正直にと言われているからね」
少し笑った。
それだけで、ようやく本当に助かった気がした。
「ねえ」
「うん」
「さっきの、命令じゃなかったよね」
「……ああ」
「何したの?」
「権限そのものは使った」
「うん」
「でも命令式を変えた」
「変えられたんだ」
「本来は想定されていない使い方だ」
「何でできたの?」
「君が許可したからかもしれない」
「私が?」
「ああ」
「管理者が対象を強制的に制御するんじゃなくて」
ルシアンが考える。
「君が僕に、一時的な干渉を許可した」
「それって」
リリアが少し顔を上げる。
「管理じゃない?」
「……少なくとも僕は、そう思いたい」
「私も」
リリアはまた胸へ頭を戻す。
「命令されてる感じしなかった」
「本当?」
「うん」
「怖くなかった?」
「術式は怖かった」
「……うん」
「でも先輩は怖くなかった」
ルシアンの呼吸が止まった。
「それ」
「何?」
「今、かなり嬉しい」
「そっか」
「ありがとう」
「どういたしまして」
少しして。
ルシアンが思い出したように顔を上げた。
「同期率」
「あ」
忘れていた。
監視術式を展開する。
《同期率――》
二人で見る。
《四十八・七パーセント》
「……」
「……」
「上がりすぎじゃない?」
「ああ」
「二十四だったよね?」
「二十四・一」
「倍」
「ほぼね」
「管理権限使ったから?」
「おそらく」
リリアは少し不安になる。
「まずい?」
「良くはない」
「どのくらいから命令できる?」
「分からない。ただ」
ルシアンは右手を見る。
紫黒色の線は肩の近くまで伸びていた。
「第二権限が戻っている可能性がある」
「何だっけ?」
「行動領域の制限」
「……嫌」
「使わない」
「うん」
「絶対に」
「信じてる」
また即答された。
ルシアンが黙る。
「何?」
「君は」
少し困ったように笑う。
「怖くないの?」
「先輩のこと?」
「ああ」
「怖くない」
「僕は今、君を強制的に止められる力を持っている」
「でも使わないでしょ?」
「……ああ」
「さっきも聞いてくれた」
「ああ」
「じゃあ信じる」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないよ」
リリアは少し身体を起こした。
近い距離で彼を見る。
「先輩が今まで何したか聞いたし、昔間違えたのも知ってる」
「うん」
「それでも今の先輩見て決めてる」
「……」
「私が自分で」
ルシアンの表情が変わった。
「だから勝手に『信じられる価値がない』とか決めないでね」
「……そこまで言っていないよ」
「言いそう」
「否定できないな」
「でしょ」
「分かった」
「よし」
リリアは満足する。
ルシアンが少し笑った。
「君には本当に敵わないね」
「知ってる」
「随分自信がついた」
「恋人なので」
「それは関係ある?」
「ある」
少しだけいつもの空気が戻る。
その時。
ルシアンが何かに気づいた。
「待って」
「何?」
「同期率が」
四十八・七。
四十八・七。
四十八・七。
「止まってる」
「ああ」
「抱きしめてるのに?」
「そうだね」
「じゃあ触るの関係ないじゃん」
「完全に無関係とはまだ言えない」
「でも」
リリアは彼の服を少し掴む。
「今は上がってない」
「ああ」
「じゃあ」
少し迷って。
「もうちょっとこのままでいていい?」
ルシアンは答える前に、腕を少しだけ強くした。
「言葉より先に答えてる」
「……そうだね」
「余裕ない?」
「今日はないよ」
「そっか」
「君が死ぬかもしれないと思ったから」
声が変わった。
リリアは顔を上げる。
「先輩」
「何?」
「生きてるよ」
「ああ」
「ここにいる」
「ああ」
「触ってる」
「……うん」
リリアは自分からルシアンの頬へ手を伸ばした。
触れる前。
「触っていい?」
聞く。
ルシアンが少し驚く。
それから笑った。
「ああ」
頬へ触れる。
「いるでしょ?」
「ああ」
「私も先輩触れる」
「うん」
「先輩も私触れる」
「……うん」
「だから大丈夫」
ルシアンが目を閉じた。
頬に触れたリリアの手へ、自分の手を重ねる。
「リリア」
「何?」
「キスしてもいい?」
こんな時なのに。
いや。
こんな時だからかもしれない。
「うん」
眼鏡はかけたままだった。
いつもより少し不器用に近づいてくる。
唇が触れる。
短い。
離れる。
でも。
ルシアンは完全には離れなかった。
額が触れる。
「……もう一度してもいい?」
リリアは少し驚いた。
いつもなら、自分が言う側だった。
「先輩から二回目聞いた」
「嫌?」
「嬉しい」
「では?」
「して」
二度目。
今度は少しだけ長かった。
唇が離れたあとも、リリアは目を閉じたままだった。
「……リリア?」
「もう終わり?」
ルシアンが息を止める。
「……君は」
「何?」
「今それを言うのは反則だよ」
「だって」
目を開ける。
「先輩がしたいなら、もう一回していいよ」
「……本当に?」
「うん」
ルシアンはしばらく動かなかった。
それから。
眼鏡を外した。
「あ」
「何?」
「本気だ」
「何の?」
「キス」
「今までも本気だったよ」
「眼鏡外すから」
「君の中でどういう基準になっているんだろうね」
テーブルも何もない。
ルシアンは眼鏡をベッド脇へ置く。
戻ってくる。
「リリア」
「はい」
「嫌だったら止めて」
「うん」
「苦しかったら?」
「止める」
「怖くなったら?」
「言う」
「よし」
「確認多い」
「今日は許して」
「許す」
今度はルシアンから頬へ触れる。
三度目。
さっきまでよりゆっくり近づいて。
唇が重なる。
離れるかと思った。
でも離れない。
ほんの少しだけ角度が変わって、もう一度触れる。
リリアの手が無意識にルシアンの服を掴んだ。
それに気づいたのか、ルシアンがすぐ離れる。
「……大丈夫?」
「何で離れたの?」
「服を掴んだから」
「嫌じゃない」
「本当?」
「うん」
「……そう」
ルシアンの耳が少し赤い。
「先輩」
「何?」
「今の好き」
「キス?」
「うん」
「……僕も」
「もう一回?」
「リリア」
「何?」
「今日は僕の理性を試さないでくれるかな」
「理性?」
「そこはまだ知らなくていい」
「また秘密」
「恋人にも秘密はある」
「ケチ」
「ケチで結構」
でもルシアンは笑っていた。
リリアも笑う。
その時。
監視術式が小さく音を立てた。
二人同時に固まる。
「……同期率?」
「ああ」
見る。
《同期率――四十八・七パーセント》
「上がってない」
「……そうだね」
「三回キスしたのに」
「回数を数えないでくれるかな」
「四回?」
「リリア」
「どこから一回か分かんなくなった」
「そこを議論する必要はない」
「でも上がってない」
「ああ」
ルシアンの表情が変わる。
「やっぱり、恋愛感情そのものが原因ではない」
「じゃあ何?」
「管理関係だ」
「管理?」
「昨日大きく上がったのは、僕たちが管理権限について互いを強く意識した時」
「今日は?」
「僕が実際に権限を使った」
「それで二十四上がった」
「ああ」
「じゃあ」
リリアが彼を見る。
「普通に好きでいる分には大丈夫?」
「可能性は高い」
「手繋いでも?」
「ああ」
「抱きしめても?」
「ああ」
「キスも?」
「……ああ」
リリアの顔が明るくなる。
「よかった」
「そこが一番?」
「全部大事」
「そう」
「先輩も嬉しいでしょ?」
「かなり」
「じゃあよかった」
ルシアンはリリアを見つめた。
さっきまで。
死ぬかもしれないと思った。
手の中から消えるかもしれないと思った。
それなのに今。
彼女は自分の腕の中で。
キスできると喜んでいる。
思わず笑った。
「何?」
「いや」
「何か変?」
「君らしいなと思って」
「褒めてる?」
「ものすごく」
リリアも笑った。
その夜。
魔力が完全に落ち着くまで、ルシアンは女子寮に残った。
ベッドへ横になったリリアの隣。
椅子へ座る。
「先輩」
「何?」
「帰らないの?」
「君が眠るまでいる」
「昨日も似たようなことした」
「生徒会室でね」
「手」
布団から右手を出す。
ルシアンが見る。
「繋ぐ?」
「うん」
「いいよ」
手を取る。
指を絡める。
「同期率」
「四十八・七」
「上がってない?」
「上がってない」
「よし」
リリアが目を閉じる。
「ルシアン先輩」
「何?」
「今日も好きだった」
ルシアンの指が少し強くなる。
「……今日も?」
「うん」
「僕もだよ」
「明日は?」
「明日決めるんじゃなかった?」
「そうだった」
「でも」
「何?」
ルシアンは繋いだ手を見る。
「多分、明日も好きだよ」
リリアが目を開けた。
「多分?」
「絶対と言うと君が喜ぶから」
「絶対?」
「……絶対」
「よし」
「満足?」
「うん」
「では寝なさい」
「命令?」
ルシアンの表情が一瞬固まった。
リリアが笑う。
「冗談」
「……君」
「ごめん」
「本当に心臓に悪い」
「じゃあお願いして」
「何を?」
「寝てくださいって」
ルシアンは少し呆れたあと。
笑った。
「リリア」
「はい」
「今日はもう十分頑張ったから、ゆっくり休んでください」
「はい」
「明日の朝、また会おう」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、ルシアン先輩」
少しして。
リリアの呼吸が穏やかになる。
眠った。
それでもルシアンは手を離さなかった。
監視術式を見る。
《同期率――四十八・七パーセント》
変化なし。
そして。
《旧管理者権限――復元率 二十九パーセント》
《第一権限――魔力制限》
《第二権限――行動領域制限》
二つが復元している。
だが。
その下。
新しい記録が追加されていた。
《第一権限使用履歴――一》
《使用形式――》
ルシアンが目を細める。
《命令式――未使用》
《対象個体による許諾を確認》
《強制管理――不成立》
「……不成立?」
さらに文字が浮かぶ。
《管理構造に不整合を検出》
《旧管理者LUCIAN NOXによる権限形式の改変を確認》
《修復処理を開始》
ルシアンの表情が変わった。
「修復?」
嫌な言葉だった。
世界にとっての「修復」。
それは。
自分たちにとって正しいとは限らない。
《旧管理者の自律判断――障害》
《対象個体の拒否権――障害》
《正常な管理関係への復元を開始します》
「……させない」
右手を握る。
その瞬間。
眠っていたリリアの指が、無意識にルシアンの手を握り返した。
ルシアンは彼女を見る。
眠っている。
何も知らない。
「大丈夫」
小さく言う。
けれど。
そこで止まった。
大丈夫にする。
守る。
僕が何とかする。
また一人で決めそうになった。
ルシアンは少し笑う。
「……危ないな」
長年の癖は、簡単には消えない。
だから言い直した。
「明日、一緒に考えよう」
眠っているリリアには聞こえていない。
それでもよかった。
手を繋いだまま。
ルシアンは朝を待った。
そして世界の深部では。
古い機構が、静かに次の処理を始めていた。
《管理構造修復》
《第一段階――旧管理者の拒否権を制限》
《第二段階――対象個体の拒否権を制限》
《第三段階――命令権の完全復元》
《開始まで――七十二時間》
ルシアンは生徒会室を飛び出した。階段を駆け下り、渡り廊下を抜ける。普段なら転移術式を使えば一瞬だった。けれど女子寮周辺の魔力が異常なほど乱れている。下手に空間へ干渉すれば、何が起こるか分からない。
右手が熱い。
走るたび、手の甲から腕へ伸びた紫黒色の線が脈打っている。
《管理対象ELICIA――魔力上昇》
《危険域到達まで――》
「黙れ」
表示を消す。
すぐにまた浮かぶ。
《第一権限――魔力制限 使用可能》
「使わない」
誰に言うでもなく吐き捨てた。
それでも知識が頭の中へ流れ込んでくる。
右手を向ける。
彼女の名を指定する。
命令式を一つ唱える。
それだけで、リリアの魔力を強制的に停止できる。
簡単だった。
あまりにも。
「……ふざけるな」
最初のリリアに使った権限。
彼女が拒否しても。
泣いても。
怒っても。
管理者である自分の命令が優先される。
それを。
今のリリアに使う。
考えただけで吐き気がした。
女子寮が見える。
何人もの生徒が外へ避難していた。
「生徒会長!」
一人がルシアンに気づく。
「中にまだ生徒が――」
「全員外へ。教師へ連絡を」
「でも」
「僕が行く」
返事を待たず、中へ入った。
魔力の圧が身体を叩く。
銀白色の光。
廊下の壁に、細い亀裂のようなものが走っている。
物理的な亀裂ではない。
空間そのものだ。
「リリア!」
返事はない。
階段を上る。
二階。
三階。
彼女の部屋へ近づくほど、右手の印が強く光る。
《管理対象――近接》
「その呼び方をやめろ」
扉の前。
「リリア!」
中から小さな声がした。
「……先輩?」
いる。
「入るよ」
「待って!」
ルシアンの手が止まった。
「来ないで!」
「どうした?」
「分かんない!」
声が震えている。
「寝ようとしたら急に魔力が出て……止められない」
「怪我は?」
「ない」
「苦しい?」
「ちょっと」
「分かった」
扉越しに話す。
「僕が入ってもいい?」
「……危なくない?」
「僕のことは気にしなくていい」
「でも」
「リリア」
一度、呼吸を整える。
「君のところへ行きたい」
少しの沈黙。
「……来て」
扉を開けた。
銀白色の光が溢れる。
部屋の中央。
リリアが床に座り込んでいた。
胸元から無数の術式線が伸びている。
壁へ。
床へ。
天井へ。
その全てが、世界のどこかへ繋がろうとしていた。
「ルシアン先輩」
「ここにいる」
一歩。
近づく。
《同期率――三十一・二パーセント》
数字が跳ねた。
「先輩、来たら上がる」
「見えている」
「離れて」
「嫌だ」
「でも」
「君が一人にされる方が怖いと言っただろう」
「今はそんな場合じゃ」
「今だからだよ」
もう一歩。
三十三。
三十五。
「先輩!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「そうだね」
ルシアンはリリアの数歩手前で止まった。
「だから一緒に考える」
「……どうしたら止まる?」
「原因はおそらく、古い機構からの強制接続だ」
「切れる?」
「試す」
術式を展開する。
リリアの周囲を解析する。
接続線。
魔力経路。
中心候補。
黒い月。
そして。
自分。
「……やっぱり」
「何?」
「僕の管理権限を経由している」
「先輩のせい?」
「違う」
リリアが言うより先に否定した。
「僕が原因ではない。君も原因じゃない」
「うん」
「僕たちを利用しているだけだ」
「じゃあ壊して」
「やってみる」
ルシアンが魔力を流す。
一本。
接続線を切る。
銀白色の光が一瞬弱くなる。
「いける?」
「もう一本」
切る。
さらに一本。
だが。
切った場所から、二本に増えた。
「……増えた」
「自己修復している」
「どうする?」
ルシアンは答えない。
右手が熱い。
《第一権限――魔力制限》
《推奨》
《対象の魔力を停止してください》
分かっている。
これを使えば止まる。
今すぐ。
「ルシアン先輩?」
「……方法はある」
「何?」
「僕の権限で、君の魔力を止められる」
リリアの表情が変わる。
「昨日の」
「ああ」
「管理権限?」
「ああ」
「使ったら?」
「暴走は止まる可能性が高い」
「その代わり?」
ルシアンは黙った。
「あるんでしょ?」
「……世界に、僕が管理者で君が管理対象だと認識させることになる」
「同期率は?」
「上がると思う」
「どれくらい?」
「分からない」
リリアが少し俯く。
「じゃあ使わない」
「僕もそのつもりだ」
「他の方法探す」
「ああ」
迷わず同じ答えになった。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
ルシアンは別の術式を組む。
「君自身で魔力を抑えられる?」
「やってる」
「僕が補助する」
「触らないでできる?」
「ああ」
魔力を重ねる。
干渉ではない。
制御でもない。
ただ、彼女自身が自分の力を掴めるように道筋を作る。
「リリア。息を吸って」
「うん」
「ゆっくり」
「うん」
「君の魔力だ」
「……うん」
「世界のものじゃない」
「うん」
「黒い月のものでもない」
「うん」
「僕のものでもない」
銀白色の光が僅かに揺れる。
「君のものだ」
「私の」
「ああ」
「私が決める」
「そう」
少しずつ。
光が弱くなる。
「できてる?」
「できている」
「本当?」
「嘘は言わない」
「先輩、時々言うじゃん」
「今それを言う?」
「ちょっと落ち着いた」
「ならよかった」
さらに弱くなる。
ルシアンも少し息を吐く。
いける。
管理権限を使わなくても。
彼女自身の意思で止められる。
そう思った瞬間。
黒い光が走った。
「リリア!」
「え――」
銀白色の術式線が一斉に反転した。
外へ溢れていた魔力が。
今度はリリアの身体へ押し戻される。
「っ……!」
リリアの身体が折れる。
「リリア!」
「痛……っ」
ルシアンが反射的に駆け寄る。
「どこが痛い?」
「胸……」
呼吸が浅い。
魔力が過剰に逆流している。
まずい。
このままでは魔力経路そのものが損傷する。
《対象ELICIA――魔力過負荷》
《第一権限使用を推奨》
「……」
《魔力制限を実行してください》
「先輩」
リリアが顔を上げる。
「何?」
「顔、怖い」
「……ごめん」
「何かある?」
「このままだと危ない」
「どれくらい?」
「魔力経路が壊れる可能性がある」
「それって」
「最悪の場合、命に関わる」
リリアの顔から色が消える。
右手が熱い。
使え。
止めろ。
管理しろ。
命令しろ。
昔と同じように。
《実行待機》
「ルシアン先輩」
「……何?」
「使う?」
リリアも分かっている。
「管理権限」
「使いたくない」
「私も使われたくない」
「ああ」
「でも死ぬのも嫌」
胸が痛んだ。
「……僕も嫌だ」
「じゃあどうする?」
「考えている」
時間がない。
リリアの魔力はさらに上がっている。
呼吸も苦しそうだ。
右手を向ければ。
一言で。
終わる。
「先輩」
「うん」
「私に聞いて」
ルシアンが顔を上げる。
「何を?」
「使っていいか」
「……」
「勝手に命令するのが嫌なんでしょ?」
「ああ」
「私も嫌」
「うん」
「だったら聞いて」
リリアが苦しそうに、それでもまっすぐ彼を見る。
「私が決めるから」
ルシアンは動けなかった。
何千年も前。
最初の彼女へ。
自分は聞かなかった。
『動くな』
命令した。
彼女の命を守るため。
正しいと思って。
でも今回は。
「……リリア」
「うん」
「僕の管理権限を使えば、君の魔力を止められる可能性が高い」
「うん」
「その代わり、接続が強くなるかもしれない」
「うん」
「僕の命令が、今後もっと君へ届きやすくなる可能性もある」
「……うん」
「それでも」
喉が詰まる。
言いたくない。
でも聞く。
「使ってもいい?」
リリアは数秒、目を閉じた。
そして。
「使って」
答えた。
「今は生きたい」
「……分かった」
「でも約束して」
「何?」
「これを、私を管理していいって許可だと思わないで」
「絶対に思わない」
「今日だけ」
「ああ」
「今の暴走を止めるためだけ」
「ああ」
「それ以外に使わないで」
「約束する」
「じゃあ」
リリアが手を伸ばした。
震えている。
「お願いします」
ルシアンはその手を見た。
触れていいのか迷う。
「手」
リリアが言う。
「握ってて」
「……いいの?」
「怖いから」
ルシアンは左手で、その手を握った。
強く。
「ここにいる」
「うん」
「離さない」
「うん」
右手を上げる。
紫黒色の術式が展開される。
嫌になるほど身体が覚えていた。
《第一権限――起動》
リリアの身体に銀白色の術式が浮かぶ。
彼女が少し震えた。
「怖い?」
「怖い」
「僕もだ」
「先輩も?」
「ああ」
「そっか」
リリアが左手を握り返す。
「じゃあ一緒」
「ああ」
ルシアンは右手を向けた。
命令式が喉まで出かかる。
『ELICIA――魔力を停止せよ』
それが正しい術式。
でも。
言えなかった。
「……嫌だ」
「先輩?」
「その言い方をしたくない」
「でも術式が」
「少し待って」
ルシアンは術式を見る。
管理者から対象への命令。
一方的な接続。
だから。
「命令である必要があるのか?」
「え?」
「術式が必要としているのは、僕の権限と君の魔力への干渉だ」
「うん」
「言葉そのものじゃない」
「変えられる?」
「やってみる」
「失敗したら?」
「すぐ正規術式を使う」
「分かった」
ルシアンは右手を下ろさない。
でも。
命令ではなく。
リリアを見る。
「リリア」
「うん」
「僕の声、聞こえる?」
「聞こえる」
「僕が今から君の魔力に触れる」
「うん」
「嫌だったら言って」
「うん」
「止めてほしくなったら止める」
「うん」
「君の力を奪うんじゃない」
左手を握る。
「少しだけ、休ませる」
リリアの目が僅かに潤む。
「……うん」
「いい?」
「お願い」
ルシアンは目を閉じた。
「リリア」
名前を呼ぶ。
「今だけ、僕に預けて」
右手の術式が光った。
銀白色の光が揺れる。
リリアが息を呑む。
でも。
命令式は発動しなかった。
代わりに。
紫黒色と銀白色。
二つの魔力がゆっくり重なる。
「……止まって」
命令ではない。
願うように。
「お願いだから」
光が弱くなる。
「リリア」
もう一度。
「大丈夫」
さらに弱くなる。
「僕がいる」
魔力の奔流が細くなる。
そして。
消えた。
静寂。
「……」
リリアの身体から力が抜けた。
「リリア!」
倒れる身体を抱き止める。
「大丈夫?」
「……うん」
「痛い?」
「もう痛くない」
「気持ち悪くない?」
「平気」
「意識は?」
「先輩がうるさいくらいある」
「……よかった」
その一言だけ。
声が震えた。
リリアが顔を上げる。
「先輩」
「何?」
「泣きそう?」
「……泣かないよ」
「嘘」
「今は君の方が大事」
「私平気」
「本当に?」
「うん」
リリアはルシアンの胸へ少し寄りかかった。
「疲れた」
「休んで」
「このまま?」
「嫌でなければ」
「このままがいい」
ルシアンの腕が背中へ回る。
抱きしめる。
さっきまで触れることさえ避けていたのに。
今は離せなかった。
「……怖かった」
リリアが小さく言う。
「ああ」
「死ぬかと思った」
「言わないで」
「先輩も思った?」
「……少し」
「そっか」
抱く腕が強くなる。
「苦しい」
「あ、ごめん」
「でも離さないで」
「どっち?」
「少し弱くして抱いて」
「難しい注文だね」
「できるでしょ」
「やってみる」
腕の力が緩む。
「これ?」
「ちょうどいい」
「よかった」
しばらく二人とも何も言わなかった。
リリアは彼の胸へ耳を当てていた。
速い。
「先輩」
「何?」
「心臓すごい」
「君のせいだよ」
「怖かったから?」
「それもある」
「他は?」
「君を抱いているから」
「……今それ言う?」
「正直にと言われているからね」
少し笑った。
それだけで、ようやく本当に助かった気がした。
「ねえ」
「うん」
「さっきの、命令じゃなかったよね」
「……ああ」
「何したの?」
「権限そのものは使った」
「うん」
「でも命令式を変えた」
「変えられたんだ」
「本来は想定されていない使い方だ」
「何でできたの?」
「君が許可したからかもしれない」
「私が?」
「ああ」
「管理者が対象を強制的に制御するんじゃなくて」
ルシアンが考える。
「君が僕に、一時的な干渉を許可した」
「それって」
リリアが少し顔を上げる。
「管理じゃない?」
「……少なくとも僕は、そう思いたい」
「私も」
リリアはまた胸へ頭を戻す。
「命令されてる感じしなかった」
「本当?」
「うん」
「怖くなかった?」
「術式は怖かった」
「……うん」
「でも先輩は怖くなかった」
ルシアンの呼吸が止まった。
「それ」
「何?」
「今、かなり嬉しい」
「そっか」
「ありがとう」
「どういたしまして」
少しして。
ルシアンが思い出したように顔を上げた。
「同期率」
「あ」
忘れていた。
監視術式を展開する。
《同期率――》
二人で見る。
《四十八・七パーセント》
「……」
「……」
「上がりすぎじゃない?」
「ああ」
「二十四だったよね?」
「二十四・一」
「倍」
「ほぼね」
「管理権限使ったから?」
「おそらく」
リリアは少し不安になる。
「まずい?」
「良くはない」
「どのくらいから命令できる?」
「分からない。ただ」
ルシアンは右手を見る。
紫黒色の線は肩の近くまで伸びていた。
「第二権限が戻っている可能性がある」
「何だっけ?」
「行動領域の制限」
「……嫌」
「使わない」
「うん」
「絶対に」
「信じてる」
また即答された。
ルシアンが黙る。
「何?」
「君は」
少し困ったように笑う。
「怖くないの?」
「先輩のこと?」
「ああ」
「怖くない」
「僕は今、君を強制的に止められる力を持っている」
「でも使わないでしょ?」
「……ああ」
「さっきも聞いてくれた」
「ああ」
「じゃあ信じる」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないよ」
リリアは少し身体を起こした。
近い距離で彼を見る。
「先輩が今まで何したか聞いたし、昔間違えたのも知ってる」
「うん」
「それでも今の先輩見て決めてる」
「……」
「私が自分で」
ルシアンの表情が変わった。
「だから勝手に『信じられる価値がない』とか決めないでね」
「……そこまで言っていないよ」
「言いそう」
「否定できないな」
「でしょ」
「分かった」
「よし」
リリアは満足する。
ルシアンが少し笑った。
「君には本当に敵わないね」
「知ってる」
「随分自信がついた」
「恋人なので」
「それは関係ある?」
「ある」
少しだけいつもの空気が戻る。
その時。
ルシアンが何かに気づいた。
「待って」
「何?」
「同期率が」
四十八・七。
四十八・七。
四十八・七。
「止まってる」
「ああ」
「抱きしめてるのに?」
「そうだね」
「じゃあ触るの関係ないじゃん」
「完全に無関係とはまだ言えない」
「でも」
リリアは彼の服を少し掴む。
「今は上がってない」
「ああ」
「じゃあ」
少し迷って。
「もうちょっとこのままでいていい?」
ルシアンは答える前に、腕を少しだけ強くした。
「言葉より先に答えてる」
「……そうだね」
「余裕ない?」
「今日はないよ」
「そっか」
「君が死ぬかもしれないと思ったから」
声が変わった。
リリアは顔を上げる。
「先輩」
「何?」
「生きてるよ」
「ああ」
「ここにいる」
「ああ」
「触ってる」
「……うん」
リリアは自分からルシアンの頬へ手を伸ばした。
触れる前。
「触っていい?」
聞く。
ルシアンが少し驚く。
それから笑った。
「ああ」
頬へ触れる。
「いるでしょ?」
「ああ」
「私も先輩触れる」
「うん」
「先輩も私触れる」
「……うん」
「だから大丈夫」
ルシアンが目を閉じた。
頬に触れたリリアの手へ、自分の手を重ねる。
「リリア」
「何?」
「キスしてもいい?」
こんな時なのに。
いや。
こんな時だからかもしれない。
「うん」
眼鏡はかけたままだった。
いつもより少し不器用に近づいてくる。
唇が触れる。
短い。
離れる。
でも。
ルシアンは完全には離れなかった。
額が触れる。
「……もう一度してもいい?」
リリアは少し驚いた。
いつもなら、自分が言う側だった。
「先輩から二回目聞いた」
「嫌?」
「嬉しい」
「では?」
「して」
二度目。
今度は少しだけ長かった。
唇が離れたあとも、リリアは目を閉じたままだった。
「……リリア?」
「もう終わり?」
ルシアンが息を止める。
「……君は」
「何?」
「今それを言うのは反則だよ」
「だって」
目を開ける。
「先輩がしたいなら、もう一回していいよ」
「……本当に?」
「うん」
ルシアンはしばらく動かなかった。
それから。
眼鏡を外した。
「あ」
「何?」
「本気だ」
「何の?」
「キス」
「今までも本気だったよ」
「眼鏡外すから」
「君の中でどういう基準になっているんだろうね」
テーブルも何もない。
ルシアンは眼鏡をベッド脇へ置く。
戻ってくる。
「リリア」
「はい」
「嫌だったら止めて」
「うん」
「苦しかったら?」
「止める」
「怖くなったら?」
「言う」
「よし」
「確認多い」
「今日は許して」
「許す」
今度はルシアンから頬へ触れる。
三度目。
さっきまでよりゆっくり近づいて。
唇が重なる。
離れるかと思った。
でも離れない。
ほんの少しだけ角度が変わって、もう一度触れる。
リリアの手が無意識にルシアンの服を掴んだ。
それに気づいたのか、ルシアンがすぐ離れる。
「……大丈夫?」
「何で離れたの?」
「服を掴んだから」
「嫌じゃない」
「本当?」
「うん」
「……そう」
ルシアンの耳が少し赤い。
「先輩」
「何?」
「今の好き」
「キス?」
「うん」
「……僕も」
「もう一回?」
「リリア」
「何?」
「今日は僕の理性を試さないでくれるかな」
「理性?」
「そこはまだ知らなくていい」
「また秘密」
「恋人にも秘密はある」
「ケチ」
「ケチで結構」
でもルシアンは笑っていた。
リリアも笑う。
その時。
監視術式が小さく音を立てた。
二人同時に固まる。
「……同期率?」
「ああ」
見る。
《同期率――四十八・七パーセント》
「上がってない」
「……そうだね」
「三回キスしたのに」
「回数を数えないでくれるかな」
「四回?」
「リリア」
「どこから一回か分かんなくなった」
「そこを議論する必要はない」
「でも上がってない」
「ああ」
ルシアンの表情が変わる。
「やっぱり、恋愛感情そのものが原因ではない」
「じゃあ何?」
「管理関係だ」
「管理?」
「昨日大きく上がったのは、僕たちが管理権限について互いを強く意識した時」
「今日は?」
「僕が実際に権限を使った」
「それで二十四上がった」
「ああ」
「じゃあ」
リリアが彼を見る。
「普通に好きでいる分には大丈夫?」
「可能性は高い」
「手繋いでも?」
「ああ」
「抱きしめても?」
「ああ」
「キスも?」
「……ああ」
リリアの顔が明るくなる。
「よかった」
「そこが一番?」
「全部大事」
「そう」
「先輩も嬉しいでしょ?」
「かなり」
「じゃあよかった」
ルシアンはリリアを見つめた。
さっきまで。
死ぬかもしれないと思った。
手の中から消えるかもしれないと思った。
それなのに今。
彼女は自分の腕の中で。
キスできると喜んでいる。
思わず笑った。
「何?」
「いや」
「何か変?」
「君らしいなと思って」
「褒めてる?」
「ものすごく」
リリアも笑った。
その夜。
魔力が完全に落ち着くまで、ルシアンは女子寮に残った。
ベッドへ横になったリリアの隣。
椅子へ座る。
「先輩」
「何?」
「帰らないの?」
「君が眠るまでいる」
「昨日も似たようなことした」
「生徒会室でね」
「手」
布団から右手を出す。
ルシアンが見る。
「繋ぐ?」
「うん」
「いいよ」
手を取る。
指を絡める。
「同期率」
「四十八・七」
「上がってない?」
「上がってない」
「よし」
リリアが目を閉じる。
「ルシアン先輩」
「何?」
「今日も好きだった」
ルシアンの指が少し強くなる。
「……今日も?」
「うん」
「僕もだよ」
「明日は?」
「明日決めるんじゃなかった?」
「そうだった」
「でも」
「何?」
ルシアンは繋いだ手を見る。
「多分、明日も好きだよ」
リリアが目を開けた。
「多分?」
「絶対と言うと君が喜ぶから」
「絶対?」
「……絶対」
「よし」
「満足?」
「うん」
「では寝なさい」
「命令?」
ルシアンの表情が一瞬固まった。
リリアが笑う。
「冗談」
「……君」
「ごめん」
「本当に心臓に悪い」
「じゃあお願いして」
「何を?」
「寝てくださいって」
ルシアンは少し呆れたあと。
笑った。
「リリア」
「はい」
「今日はもう十分頑張ったから、ゆっくり休んでください」
「はい」
「明日の朝、また会おう」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、ルシアン先輩」
少しして。
リリアの呼吸が穏やかになる。
眠った。
それでもルシアンは手を離さなかった。
監視術式を見る。
《同期率――四十八・七パーセント》
変化なし。
そして。
《旧管理者権限――復元率 二十九パーセント》
《第一権限――魔力制限》
《第二権限――行動領域制限》
二つが復元している。
だが。
その下。
新しい記録が追加されていた。
《第一権限使用履歴――一》
《使用形式――》
ルシアンが目を細める。
《命令式――未使用》
《対象個体による許諾を確認》
《強制管理――不成立》
「……不成立?」
さらに文字が浮かぶ。
《管理構造に不整合を検出》
《旧管理者LUCIAN NOXによる権限形式の改変を確認》
《修復処理を開始》
ルシアンの表情が変わった。
「修復?」
嫌な言葉だった。
世界にとっての「修復」。
それは。
自分たちにとって正しいとは限らない。
《旧管理者の自律判断――障害》
《対象個体の拒否権――障害》
《正常な管理関係への復元を開始します》
「……させない」
右手を握る。
その瞬間。
眠っていたリリアの指が、無意識にルシアンの手を握り返した。
ルシアンは彼女を見る。
眠っている。
何も知らない。
「大丈夫」
小さく言う。
けれど。
そこで止まった。
大丈夫にする。
守る。
僕が何とかする。
また一人で決めそうになった。
ルシアンは少し笑う。
「……危ないな」
長年の癖は、簡単には消えない。
だから言い直した。
「明日、一緒に考えよう」
眠っているリリアには聞こえていない。
それでもよかった。
手を繋いだまま。
ルシアンは朝を待った。
そして世界の深部では。
古い機構が、静かに次の処理を始めていた。
《管理構造修復》
《第一段階――旧管理者の拒否権を制限》
《第二段階――対象個体の拒否権を制限》
《第三段階――命令権の完全復元》
《開始まで――七十二時間》