愛を失う数時間前【通常版】
前編
01 裏切りの夜
お疲れ様でーす、と言いながら女子更衣室のドアを開け、勤務先のファミレスに出勤した風香は、そこに今日はいるはずのない同僚が着替えているのを見て頭の中に「?」を浮かべた。
「由真ちゃん、今日出番になったの?」
深夜早朝の営業枠は出勤するメンツが曜日ごとに決まっている。木曜日は真由で、水曜日は風香。
「え~?」
風香の言葉に、由真が時間差で真顔になった。
「やっちゃったあ……、勘違いしちゃった……」
由真はへなへなと、目の前のベンチに座り込んだ。
「ここまで着替えたのにぃ」
「ははは……」
笑うしかないのだが、確かに、休みの日に職場へ来てしまったらへこむ。しかも由真の家は店からは少し遠い。
「風ちゃん、今日と明日交換して――って言ったらダメ?」
「……え」
由真はすでにファミレスの制服であるワンピースにエプロン、首元にはスカーフ、そしてロゴの入った髪留めも付けていて、あとは指定のパンプスを履くだけだった。一方の風香はジャケットにマフラー、足元はロングブーツ。
「あとで駅前に出来たカフェでスイーツ奢るから!」
必死に拝む由真に、風香は苦笑しながら折れた。
「わかったよ。奢らなくていいけど一緒に行って?」
せっかく準備し出勤したのは自分も同じだが、風香はまだ着替えていなかったし、家と店は徒歩で十五分ほどの距離だ。由真よりは、ここで引き返してもダメージが少ない。
「風ちゃーん」
抱きつかれ、その背中をとんとんと叩く。
由真は風香よりひとつ年下だが、これまでなにかと協力し合って過ごしてきた仲だった。
「今日はたのんだよ」
由真をホールへ送り出し、ひとり残されて――脱力した。
「じゃあ、また、帰ろ……」
わざと口に出し、気まずさを逃がして職場を後にした。
通りへ出ると冷たい強風が肌を刺した。
マフラーで口元まで隠して歩き出し、通り沿いにあるコーヒーショップで足を止めた。
午後九時半。
ぽっかり空いてしまった時間に図らずも余裕をみつける。だが同時に、家を出る前に夫が“眠気覚まし”にコーヒーを淹れてくれたことも思い出す。
――まあいいか、別のもの飲めばいいもんね。
気持ちを切り替えて、風香は空いている店内へ足を踏み入れた。
閉店時間まで三十分。
「……飲んだらすぐ、出ますね」
何も言われてないのに、注文を終えるとカフェ店員に伝えていた。
「お疲れさまです。大丈夫ですよ、ゆっくりしてくださいね」
労われ、その優しさが胸に沁みた。
最近、誰かに優しくされると泣きたくなる――と、気づいた。
由真にも『風ちゃんは頑張りすぎなのよ……』と認めてもらえただけで、涙が出そうになってしまった。
フレーバーコーヒーを手に、出入り口に近い席に座った。
あまり時間はないがヘーゼルナッツの香りに癒されて、ほっとした。
ふと、自分の荒れた指に目がいった。
……あ、ハンドクリーム塗り忘れちゃった、
家では家事をするだけで手いっぱいでクリームを付ける余裕がなく、いつからかファミレスのロッカーに入れるようになっていた。
……こんなガサガサな手じゃ、繋ぎたいなんて思わないよね
スキンシップのない夫婦関係は自分のせいなのだろうかと、結婚してからより考えるようになった。――溜息を落とす。
夫の未知留とは高校時代からつきあっている。
容姿、頭脳、性格、家柄。欠けているところがない――と、未知留を知る人たちが口を揃えて言うくらい、完璧な“恋人”。
そんな人と『大学』と『就職』とで環境が変われば、遅かれ早かれ別れることになるだろう……。そう思っていた。
けれど『大学を卒業したら結婚しよう』とプロポーズされた。
その約束通り今年の春、結婚した。
『いつか家を改装してカフェをやりたいんだ。そうすれば妹の花音も社会の中で生きられるかもしれないし』
未知留の夢を知ってからは、風香の目標も同じになった。
……そういえば、のんちゃん、今日は機嫌よかったな
未知留にとってたったひとりの家族である花音は、小学生の頃から部屋に引きこもっている。
結婚を機に未知留と決めたルールのひとつに、花音の食事があった。
風香が同居することによってますます部屋から出られなくなった花音のために、朝と昼の時間帯は風香が、夕食は帰宅した未知留が準備をすることになった。
せめて栄養バランスの良い食事を摂ってもらいたくて、慣れない料理を頑張っているが、偏食の花音はなかなか食べきってくれなかった。
……今日は、ノックしたら顔見せてくれたもんね
風香は頬を揺らした。
返事がなくても毎回声を掛けるようにしていた。
いつか、家族になった自分にも心を開いてくれたらと……希望を抱いて。
+ +
「ただいま」
玄関ドアに鍵を差し込み、開けようとしたらチェーンが掛かっていた。
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