愛を失う数時間前【通常版】
……どうしてチェーンなんか。
苛立ちながら隙間から家の中を覗いた。
階段前の赤絨毯の広間はしんとしている。
「ただいま!」
少し大きな声で言って、呼び鈴を鳴らした。
「未知留、開けて」
数秒待ったが応答がない。
建物自体が古いせいか、今日のように風が強い日は、立て付けの悪い窓を揺らす音が強くなる。
「ううっ、寒いっ」
暴力的な突風に身震いしながら風香はガレージへ走った。
未知留の車は定位置に止まっていた。やはり出掛けているわけではない。
引き返し、また呼び鈴を鳴らした。
家の中からは物音ひとつしなかった。
「……ああ、もうっ!」
風香は門まで戻り、目を凝らして屋敷全体を見渡した。
だがどこにも灯りの漏れる部屋はなく、沈黙するかのようにひっそりとしている。
華族だった未知留の祖先が広大な敷地に建てた洋館は、鬱蒼と茂る木々と共にある。
内部は天井が高い豪華なホール、肖像画が並んだ居間、贅沢なステンドグラスが施された応接間、たくさんの使用人を住まわせていた名残りで、廊下の片側に横並びする部屋など、一般家庭にはありえないような部屋がある。加えて増改築を繰り返したためか構造も複雑で、行き止まりのドアやどこの部屋にも行き着かない廊下、外へ繋がっていない勝手口など、未だに掃除のたびに風香の方向感覚を迷わせた。
「あ、もしかして、のんちゃんの部屋に行ってるのかな……」
風香はその可能性を考え、絶望的な気持ちになった。
未知留が離れの二階にある花音の部屋にいるのであれば、チャイムの音は届かない。
……どうしよう、
……どこか開いてないかなあ。
「――あ! そうだ、中庭! もしかしたら開いてるかも」
風香は声に出した。
……確かこの前、あそこから“ごみ捨て”に出たのよね。
戻りは玄関から入ったため、中庭のドアは施錠をし忘れている。記憶が正しければ……。
祈るような気持ちで中庭に走っていき、そっとドアの取っ手を回した。するとあっけなく開いた。
「はあ、助かったあ」
あのまま十一月の暴風を受けていたら死んでしまうところだと、風香は胸を撫で下ろした。
靴と荷物をひとまずその場に残し、家の中へと入った。
長いL字型の冷えた廊下を小走りに進み、花音の部屋がある棟への扉を開けた。
「まったく……、中庭のドアが開いてなかったらずっと外にいなきゃいけなかったって、文句ぐらい言ってもいいよね」
ブツブツ言いながら急な階段を上がろうとした。バロック音楽が聴こえてきた。
……あれっ、珍しい。
風香は首を捻りながら階段を上がりきった。
音楽が漏れていることもそうだし、普段は沈黙するように閉ざされている花音の部屋から灯りが漏れている。それだけじゃない、そのドアが大きく開いているのだ。
……未知留が中にいて、開けたままにしているのかな?
深く考えずに廊下を進むと、風香の感覚を麻痺させるような甘い声が聞こえてきた。
!
勝手に体が動くのを止めた。風香の直感が、踏み込むなと警告を鳴らしている。どくどくどく、と心臓の音だけが風香を支配した。淫靡な音と一緒に未知留が花音の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
……なに、これ、どういうこと。
思考が停止する。
体が硬直した。
明らかに、“シテいる”気配に感情がついていかなかった。
……え?
……え、待って……
……ありえない
……ふたりは、兄妹なのに……
常識や理性が必死に現実を否定しようとする。だが聞こえてくる卑猥な音や耳を疑う『愛してる』の湿ったそれは聞き間違えるはずのない未知留の声だった。視界が歪んできて、体中の血液が干上がってしまったと感じるほどに気が遠くなる。
風香は後退りした。
……うそだ……
……信じられない、だって……
家の窓という窓を強風がガタガタと激しく揺らす中――風香は逃げ出していた。ふらふらと中庭から外へ出たそれさえも、無意識だった。
行く当てもなく歩き続け、習慣がそうさせたのか、気が付いたらファミレスへ辿り着いていた。
家からここまでの記憶がほとんどなかった。
足を引きずるようにして裏口を進み、誰もいないスタッフルームへ入った。
風香はスチールのベンチに座り込んだ。重たい頭を抱える。
……なにが、起きてるの……?
……私の勘違いなんじゃ……
……いや、そんなわけ、ない……
頭の中には兄妹の“行為”を確信した瞬間、聞こえていたそれぞれの音が効果音のように重なり合って響いている。
風でガタガタと鳴る窓の音、
部屋から流れていた未知留が好きなバロック音楽、
ふたりが、重なっている音、しなるベッド、喘ぎ声――
なにもかもが、永遠と思えるくらいしつこく聞こえて止まない。
……こんなことって、許されるの……?
……いったい、いつから?
裏切られた絶望感と同じくらい、禁忌を冒す兄妹に違和感が湧く。それは嫌悪感と置き換えられるものだったが風香にはこの時、現実を客観視できる余裕はなかった。ただ、未知留の愛を手に入れて完全に塞がったはずだった心の傷口が、いとも簡単に割けたことに怯え、恐怖した。
……私はたまたま運悪く、愛のない両親の元に生まれてしまっただけ。本当はちゃんと愛される存在だった。その証拠に私は未知留に選ばれて結婚したじゃない……
自分の価値を証明してきたたったひとつの指標――。
“ばかだね、本当に信じてたの? 親からだって愛されなかったのに?”
……やめて、
……聞きたくないっ
『現実』を『事実』が嘲笑う声に、風香は耳を塞いだ。