敵国から嫁いできた悪役王女……のつもりだったのですが、めちゃくちゃ大事にされている上に、契約結婚になるようです。

 現れた黒いその生き物は、漆黒の尾を揺らしながら、ゆったりと魔女に近づいていく。
 そして、雲の形をした魔女の目の前にたどり着くと、ふわりとその柔らかそうな毛を揺らした。

『ルナ。お前がこのようなことをしでかすとは、理解しがたく、想定外である』
『お前、おま、ケイト、お前のホうが! お前がこコに居ルコとのホウが理解できない!』
『それはつまり?』
『掟に背き、禁忌に触れ、過ちを犯しタではないか! お前が、人間と――』

 その必死の声が続くことは無かった。

 青ざめた様子で――いや、雲に血の気も何もあったものだろうか――黒猫を睨みつけたまま、雲の形をした魔女は、金縛りにあったように動けなくなっている。

 その必死の形相を横目で見ながら、黒猫は近くの家具を伝って、雲の肩へと降り立った。そして、アイリス姉さまの体に入った私の目の前にやってきて、そうしてカプリと私の体を口で咥え、動けない雲の手から奪い去ってしまったのである。

「なにをするんですか。アイリス姉さまがよだれで汚れます」
『アイリスごと命を絶とうとしたお前が、よく言うものだ』

 私が運ばれながら文句を言うと、奴は人を口で加えながらもごもごと嫌味を言ってきた。
 非常に器用な奴である。

「ヴィヴィ!」

 猫にくわえられて帰還した私を出迎えてくれたのは、もちろんアイリス姉さまである。
 ふわりとその手に抱えられてしまえば、小型人形サイズの私は、逃げる場所も隙もない。

「……アイリス姉さま、ご無事で」
「それは私のセリフでしょう! なんであんな危険な、私なんかの、もう、ばか! ばか!」
「ごめんなさい」
「絶対許さない!!!」

 自分の暴挙を棚に上げて私に憤るアイリス姉さまは、割と理不尽である。
 アイリス姉さまは、なんだかんだ結構な頻度で理不尽である。

 でも、アイリス姉さまは可愛いので、それでいいのだ。
 というか、ほぼ号泣に近い状態で泣いているアイリス姉さまに勝てる存在は、この世にはいない。

 そんなわけで、私が頬を膨らませながら理不尽に耐えていると、近くで大きく息を吐いた音が聞こえた。
 心の友、メルヒオールである。

「メルヒーもアイリス姉さまになんとか言ってください」
「君は無茶をしすぎだ!」
「メルヒーはすぐにアイリス姉さまの肩を持つ……」
「そうじゃない。僕も心配したんだよ」

 私の心の友は、そんなことをうそぶきながら、ちゃっかり私の体に入ったアイリス姉さまの肩を物理的に抱いていた。
 本当に要領のいい男である。

『そろそろ戻りなさい』

 ぎゅるんと視界が回転して、気が付くと私は自分の体に戻っていた。
 頭がぐらぐらするし、私の手の中にいるのが手のひらサイズのアイリス姉さまも、目を回した様子でこめかみを抑えている。
 どうやら、入れ替わっていたアイリス姉さまと私の魂を、ケイトが無理やり元に戻したらしい。

 急に何をするのだと私がケイトに文句を言おうとしたところで、入り口の扉近くから知っている声が聞こえた。

「あなたが、ケイト――魔女ケイト、ですか」

 声の主は、重役出勤の第一王子マイケルである。
 扉から駆け込んできた彼は、するりとメルヒオールと私の間に入り込んできて、まるで一番の当事者であるような顔をして黒猫に向き合う。
 私が目を瞬いていると、第二王子ミゲルも部屋に駆け込んできた。

 それはつまり、結局この国の王子三人が現場に集まってしまったということだ。

「ここが爆発して全滅しても、モーリス殿下とマクシム殿下が残っているから、この国はまあ大丈夫……」
「君はなにを想定しているんだ、ヴィオレッタ!」
「マイク、違います。ミゲル殿下の心の声を代弁しただけです」
「私はそんな最悪の事態を飲み込んだようなことは考えてないんだが!?」

『お前、ヴィオレッタに選ばれたのか』

 それは、どうやらマイケルに向かって放たれた言葉らしい。
 空気を読まずに会話に割って入った黒猫に、マイケルがギクリと肩を強張らせる。
 ケイトの言葉に、ミゲルも何故か白い顔で固まり、興味津々の顔をしているアイリス姉さまとメルヒオールを横目に、私は首をかしげた。

「別に選んでません」
「ゲホゲホゲホ」
「兄上! 何もないところでむせるなんて、大丈夫ですか!?」
『だが、お前が私のことを口にするなど』
「選んでません」
『……まあいい。私の力も切れた。どうする?』
「え?」

 バキリと音がして、私達は音のした方向を見る。

 巨大化しつつある雲の形をした魔女が、目を血走らせながら、建物の天井近くの梁(はり)を、頭でへし折っていた。
 どうやら、音の発生源は、建物の梁が壊れた音らしい。

 梁が壊れた?

『これは崩れるな』



「——全員撤退!!!!」

 マイケルの合図で、全員が扉から慌てて路地に出た。
 そのまま大通りまで脱出し、兵士達が周囲の人間に避難を呼びかける。

 先ほどまで居た建物を見ると、屋根を突き破って巨大化している魔女の姿が見えた。
 かわいらしい顔つきの雲なのに、歯をガチガチ鳴らしながら、ギョロギョロと目を動かしつつ、世にも恐ろしい形相で私達を見ている。
 おかげで、大通りに居た人達が、絶叫しながら逃げまどっているではないか。

「ケイトォオオオォオオ」

「お父様みたいに叫んでいるわ」
『そういえば、ヴィルクリフも自室でよく叫んでいるな』
「そんなことより! あれをなんとかできませんか!?」
『できない』

 質問をしたマイケルが、虚を突かれたように目を丸くし、次いで「くそっ」と吐き捨てた。

「近衛兵のうち三名は攻撃魔法を、二名は我々の護衛、残り十名は民間人の避難補助に向かえ!」
『人が使う魔法か。そうだな、直径百メートルに方程式を密に書き込んだ魔方陣を使用するのであれば、ルナにも多少の効果は』
「攻撃魔法は中止! 手持ちの物理的な武装を」
『触れた先からルナに比重を変えられる』
「——何か手段は? 申し訳ないが、あなたの魔法でこう、相手を気絶させるとか……」
『私は入れ替わりの魔女である。魂の入れ替えは綱引きだ。使用条件は、隙をつくか、相手の魔力を上回るか、相手の了承を得るかの三択となる』
「あなたの魔力は、あの雲を上回らないのですか?」
『猫は魔女を上回らない』
「なにか隙を突く魔法は!?」

 首をかしげる黒猫に、マイケルがこめかみを抑えながら「我々も撤退だ。全員、避難補助に回ってくれ」と兵士達に指示したところで、黒猫がきゅるりと顔を私のほうに向けた。

『ヴィオレッタ、もういいだろう』
「……」
『嫌そうな顔をするものだ』
「嫌そうな顔かどうかなんて、わかってないくせに」
『勉強中である』
「——どうぞ」

 ため息をつく私に、黒猫が目大きく見開く。

「ケイトフランチェスクアレシュリビェナ=レイ。あなたに一時間ほど、私の体の一時使用権を与えます」

 
   ~✿~✿~✿~

 おかしい。
 ケイトフランチェスクアレシュリビェナ=レイが絡むと、世界はおかしくなってしまうのだ。

 魔女は人間と関わってはいけないはずだ。
 魔女は国と関わってはいけないはずだ。
 魔女は存在を隠さなければならないはずだ。
 魔女にとって、人間ほど愚かしく面白く不可解で興味深い存在はないというのに、触れてはならぬと定められているのだ。

 それが盟約で、それが誓いで、それが大昔に結ばれた約束。

 そのはずなのに、なぜかあのケイトフランチェスクアレシュリビェナ=レイだけが、世界になじんで溶け込んで関係を持つことを許されている。

 お前だけが。
 なぜ、お前だけが。
 なぜ!

「ケイトォオオオォオオオオ」

 ヒルヴィストラウトリスクアリヴィラ=ルナは、腹の底からの呪詛を乗せて、その名を叫ぶ。

 ケイト(入れ替わりの魔女)にずらされた体と魂が、戻っていくのを感じる。
 かの大魔女ケイトであっても、猫の体をもってして全力を発揮することはできないのだ。
 魔女(ヒルヴィス)の体から、魔女(ヒルヴィス)の魂を引きずり出すことができないでいるのだ。

 ケイトを、あのケイトを、禁忌を犯したあのケイトを、それなのに周囲の評価を下げることがない、むしろ一目置かれるようになった許し難い存在を、ヒルヴィストラウトリスクアリヴィラ=ルナが超えることができるかもしれない!

 怒りと、ねじまがった義憤と、歪んだ誇りで、視界が真っ赤に染まるようだ——。


『「ルナ」』


 ふと、視界に入ってきたのは、さらりと揺れる黒髪だ。
 深い紫色の瞳、長いまつ毛に、豊満な体つきの女。
 ケイトの娘、ヴィオレッタ=フォン=ヴィンセント。

 娘は、ふわりとその場から浮かび上がると、屋根を突き抜けるほどに巨大化したヒルヴィスの目の前まで、単身でやってきた。

『「お前、リルフィリルに無断でここに居るだろう」』

 ヒルヴィスの師匠リルフィリル。
 その名前に、びくりとヒルヴィスは体を跳ねさせる。
 余震で住処がさらに崩れ落ち、周囲の建物が大きく揺れる。

 その名を、この娘が知るはずがないのだ。
 知っているのは、ケイトに師事しながらもケイトを忌み嫌うこの娘ではなく——。

「お、おマ、お前! 中に、まさか――」
『「お前をリルフィリルに引き渡す」』
「ま、待て、待ちなさイ。ここで私を見逃すナら、私は」
『「私はお前を見逃さない」』

 がくがく震えるヒルヴィスを、ケイトは真っすぐに見つめる。

『「私の娘達を狙うお前を、見逃すことはない」』

 これはだめだ。
 逃げることはできない。
 仮にヒルヴィスが背を向け、戦いの意思を放棄したならば、ケイト自身の魔法により、魂の隙を突かれ、ヒルヴィスは拘束される。
 この器(魔女の娘の体)をもってすれば、その程度のことはできてしまうはず。

 一方で、戦いを選ぶということは、この娘と本気でやりあうということだ。
 器の中に居るケイトは、その器の全力を出すことができてしまう。
 大魔女ケイトフランチェスクアレシュリビェナ=レイの娘の全力が、ヒルヴィスに及ぶものなのかどうか——。

(退路はない。逃げ場はない。では、前に進むシか、なイ!)

 顔を真っ赤にしたヒルヴィストラウトリスクアリヴィラ=ルナは、その渾身の魔力を籠めて、ケイトの娘を右手で掴み、渾身の力で握りしめた。

 これで、この娘の体は、地を這う蟻のごとき卑小なその身は、潰されたはずだ。
 純潔の魔女ではない体で、ヒルヴィスの力にかなうはずはないのだ!

『「まだお前は、私の娘を害するつもりなのか」』

 手の中から依然として声が聞こえることに、ヒルヴィスは震える。
 さらに魔力を追加し、右腕に力を入れ、こぶしの比重を上げてあげてあげて――。


『「ならば私も、容赦はしない」』


 ぐらりと、視界が揺れた。

 先ほどまでとは違った意味で、ヒルヴィスは状況を把握することができない。

 右手の中から、なにか香りがするような気がする。
 これはなんだろう。
 蜜のような、花のような、華やかで、狂おしい程に甘く甘く、喉から手が出るほどに欲してしまう香り。

『「……なるほど、ヴィオレッタ。お前はそのように花開いたのか」』

 思わず固く握りしめていた右手を開く。
 そこに居るのは、女神のような女性だった。
 しっとりとした黒髪も、長いまつ毛も甘ったるい目じりも、ぽってりとした赤い唇も、なにもかもが愛らしい。

(——愛らしイ!? 私が、魔女のワタシが、そんな感情を、しかし)

 まとわりついてくる娘の魔力が、柔らかく温かく、ヒルヴィスの心臓をねじ上げてくる。
 心音が早い。体中が熱を帯びて、娘を手に入れたくて、よだれが出る。

『「ヒルヴィストラウトリスクアリヴィラ=ルナ。私(・)に(・)嫌(・)わ(・)れ(・)た(・)く(・)な(・)け(・)れ(・)ば(・)——」』

 すべてを元に戻し、自ら拘束されるように。

 後半に言われたことを、ヒルヴィスはうまく認識できなかった。
 ただ、必死に頷き、全ての魔力を解除し、娘の足元に這いつくばる。

 その足に頭を踏まれたけれども、その痛みですら甘い。
 なんだこれは、どういうことなのだ。
 そんな疑問すら、頭をかすめることがない。

 なんという幸福、なんという情動。

 ああ、これが、もしかして、人間達が夢中になるという、噂の——。

『——愛の魔女、ヴィオレッタ。今後はそのように名乗ると良い』
「私は魔女ではありません」

 鈴の音が鳴るような、甘ったるい声で、そんな会話が交わされた。
 しかし、魔女封じの小瓶に詰められながら、『愛』に酔っているヒルヴィスには、その意味をつかみ取ることができなかった。


   ~✿~✿~✿~

『その小瓶は、私の体がある場所に送ると良い』

 私の体を使ってヒルヴィスを捉えたケイトは、一時間たたないうちに、体の主導権を私に返し、黒猫の体に戻った。
 黒猫のケイトの話を聞いて、マイケルがこちらを見てきたので、私はそれで問題ないと頷く。

「では、私がそれを預かります。必ずヴィンセント王国にお送りするとお約束します」

 瓶を受け取ったマイケルは、少し嫌そうな顔をしながら、懐にその小瓶をしまう。
 そのあと、複雑そうな顔をして、黒猫を見た。

 黒猫ケイトは、なぜか第二王子ミゲルの腕の中に鎮座しているのだ。
 抱いているミゲルも、複雑な顔をして猫の後ろ頭を見ている。
 ケイト曰く、このポジションを確保していないと、初めて王宮の外に出たミゲルの飼い猫フローラが、不安で頭の中でにゃんにゃん泣いて騒がしいらしい。

「それよりも、あなたに話をお聞きしたく」
『娘達の危機は去った。私も去る』
「えっ!? で、ですが、少しだけでも」

「——ケイト、さん」

 黒猫は目を見開いた後、ゆっくりと声のしたほうに顔を向けた。

 そこに居るのは、アイリス姉さまだ。
 その大きさは、元々のアイリス姉さまのものに戻っており、簡素なガウンの上あら大きな掛け布を羽織り、メルヒオールに支えられている。

 実は、ヒルヴィスが魔女封じの小瓶に収まったあの瞬間、アイリス姉さまは元の大きさに戻っていた。
 小さくなった服を引きちぎるようにして元に戻ったアイリス姉さまは、あわや路上で生まれたままの姿を晒すところであったが、そんなことはメルヒオールが許さなかったらしい。
 比重の魔女の情報を知った彼は、ここに駆けつけてくるときに、既に掛け布とガウンを数枚用意してきており、私の体に乗り移ったケイトがヒルヴィスに近づいた時点で、アイリス姉さまを掛け布で包んでいたのだ。
 本当に、兄二人と違って、抜け目のない男である。

「私、あなたに沢山聞きたいことがあります。あなたのことを……あ、あと、私の——」
『アイリス。お前には悪いことをしたと思っている』

 息を呑むアイリス姉さまに、ケイトは続ける。

『あと二ヶ月で、私の刑期が終わる』
「……刑期?」
『ヴィオレッタはなにも話していないのだな』

 横目でこちらを見てくる黒猫とアイリス姉さまに、私は顔を逸らす。

『二ヶ月後に、会いに来てくれると助かる。クリスタもケイトも、お前に会いたがっている』
「えっ? ケイト?」
『だが、お前が怒っているなら話は別だ。この国でずっと過ごすのも悪くないことだろう。……とも言っていた』
「あの……」
『では、時間切れだ』

 それだけ言い残すと、魔女ケイトは去っていった。
 去ってしまった。

 爆弾だけを残して、人の心がわからないあの魔女!!!

「ヴィオレッタ。今からゆっくり、お話を聞きましょうか」

 サッとマイケルの後ろに隠れた私を、アイリス姉さまは逃がしてくれなかった。

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