敵国から嫁いできた悪役王女……のつもりだったのですが、めちゃくちゃ大事にされている上に、契約結婚になるようです。

 目の前に、アイリス姉さまが居る。

 まだ、生きて目の前にアイリス姉さまが。

 そう思うと、私の心は急浮上し、同時に、手のひらサイズに変えられた姉さまが、雲のような生き物に握られているその光景が、私の脳みその血管を引きち切らんばかりに苛立たせてくる。

「ヴィ、ヴィヴィ……」
「アイリス姉さま、帰りますよ」
『私が彼女を放スと思っテいるのカい』
「返してもらいに来ました」

 私は気持ちの赴くままに、近くにある椅子を右手で素早く投擲する。
 けれども、椅子は、私が狙った雲のような生き物に衝突する前に、その体積を大きく縮めて、床に落ちてしまった。

 椅子だけではない。

 小物、本、割れたカップに破損した扉の破片。
 ありとあらゆるものを投げつけだけれども、全て小さい玩具のような姿になり、そのまま床に吸い込まれていってしまう。

 私が眉をひそめたところで、意外なところから声が上がった。
 アイリス姉さまである。

「ヴィヴィ! あなた、何をするのよ! 私にも当てる気なの!?」
「大丈夫です、姉さま」

 青い顔で叫ぶアイリス姉さまは、小さくなっていても可愛い。小さくなっているので、余計に可愛らしい。
 それはそれとして、姉さまがあまりにも不安そうにしているので、それもそうかと、私は渾身の笑みを浮かべる。

「もし姉さまが死んだら、私も後を追いますから」

 アイリス姉さまは、私の覚悟を受け止めてくれたようだ。
 白い顔でガクガクと震えているのは、自分の窮地と魔女の恐ろしさを理解したからだろう。

 早く助けてあげなければ。

「待て、ヴィオレッタ!」

 睨み合う雲と私、ほか数名の膠着した空間に、割って入るように駆け込んできたのは、護衛を引き連れたメルヒオールだった。

 ちなみに、マイケルはおそらくまだ馬車にいることだろう。
 最後に見た時は、走り出す私を追おうとして、周りの護衛達とミゲルに「危険だから兄上はここにいてください!」と取り押さえられていた。

 メルヒオールがそれとなく私達の馬車に同乗し、兄を囮に二番手に駆けつけてきたのと比べると、なかなか要領が悪いことである。

「ヴィオレッタ、待つんだ! アイリス様を保護するまでは、強硬な姿勢は良くない!」
『よウやく、ヤっと、話がわカる人間が現れまシたか』
「貴殿の目的はなんだ。私はこの国の第三王子メルヒオール、話によっては、貴殿の希望に沿うよう取り図ることも」
『私はアイリス=フォン=ヴィンセントの子がホシい』
「――ヴィオレッタ、あいつをどうにか無力化できないか!?」

 舌の根も乾かぬうちに縋ってくるメルヒオールに、私は雲とアイリス姉さまから目を離さずに思考する。

 私は魔女ではない。
 教育を施されたことはなく、魔法の授業も、アイリス姉さまの後ろで見てきただけ。
 あとは、ケ(・)イ(・)ト(・)の(・)侵(・)入(・)を度々受けてきた程度。

 だからそう、使えるものは、人類の教養レベルの魔法、魔力で殴る身体強化、そして、低級の入れ替わり魔法だけなのだ。
 とても魔女に対抗できるものではない。

 そして、この場で最もよくないことは、このまま雲にアイリス姉さまを連れ去られてしまうこと。
 相手は今、私達を舐めているから、このように会話をしているだけで、少しでも警戒させたならば、その姿をくらませてしまうことだろう。

 そして、アイリス姉様は、魔女のおもちゃになってしまう。

 私が唇を噛んだところで、壁際に下がっている紐を持った茶髪の女が叫んだ。

「ちょ、ちょっと待ちなさい! この紐の先が見えないの! あなたの――分、個体? 子ども? ええと、もう一人の魔女ヒルヴィスは、私が捕えてるのよ!」

 その言葉に、雲の足元で、机に潰され、縄で拘束された男がビクリと身を捩る。
 私が意に介さないでいると、雲は大きなその目をニタリと細めた。

『ケイトの弟子は、身の丈だけは分かっていルようでスね』

 ゆらゆらとアイリス姉さまを握る手を揺らしながら、雲は、魔女は、告げてくる。

『我が分個体程度に、アイリス=フォン=ヴィンセント以上の価値があルと?』

 しくしくと机の下の男が泣き出し、壁際の女は絶句している。

「サヴィちゃまに似た女、下がりなさい」
「似た女ってなによ!? 本人でしょうが!」
「アイリス姉さまをこんな目に合わせたのは、サヴィちゃま本人で?」
「サヴィちゃまに似た女ですことよ!!!」
「メルヒー」

 私の呼びかけに、メルヒオールがピクリと反応する。

「アイリス姉さまがどんな姿になっても、助けてあげてほしい」
「……それはだめだ、ヴィオレッタ」

 雲から目を離さないまま、メルヒオールが私の肩に手をかける。
 私がなにをしようとしているのか、おおよそ検討がついているのだろう。

 やはりメルヒーオールは心の友である。

『魔女でモない、人でモない、半端者のお前が、私かラ、アイリス=フォン=ヴィンセントを奪い返セると?』

 ニタリと目を細める雲に、私は不快感で思わず顔を歪める。

 この雲は一体、何を見ているのだ。
 ちゃんと目がついているのか。

「私は人間です」

 頭上で、ギョッと目を剥く気配がする。

 頭上だけじゃない。

 視界の中で、メルヒオールに肩を掴まれている黒(・)髪(・)の(・)王(・)女(・)が、驚いた様子で、私(・)を見ている。

『お、お前、オマえ、おマエ! 私のアイリス=フォン=ヴィンセントを!!』
「アイリス姉さまは、私のものですよ」

 そう告げた後、私は大きく口を開ける。

 それは命を絶つために。
 アイリス姉さまを、私だけのものにするために。

 視界の中で金の髪が揺れて、ああ、アイリス姉さまの髪だと、そう思う。


 そう、私があの日、見た色。


 十年前のあの庭で、私を求めて話しかけてきた、初めての人間。


 キラキラしたまぶしい服を着ていた小さな女の子の、あの淡い水色の瞳を最後に見ることができないのは、少しだけ、心残りで――。









『決断が早すぎる』

 全身がしびれているかのように動かない。

 魂が、何者かに縛られているのだ。

 他者の魂に魔力の鎖をかけて、自分の魂と繋げてしまう魔法。
 私では、相手の不意を突くか、同意を得なえれば成し得ないそれ。

 ――入れ替わりの魔女の起こす奇跡の余波。

『なぜ、何故、ナゼだ! 何故おマエが、この場に来らレるのですカ!』

 頭上で悲鳴のような声が上がり、その場に居る誰しもが動けない中、優雅な尾を振りながら視界の中心に躍り出てきたのは、艶やかな黒い毛が美しい猫――ミゲルズ=スーパー=キューティフル=ゴージャス=シルク=フローリア=ブラックだ。
 金色の瞳がチャーミングな、成猫の長毛種の黒猫ちゃん。

 しかし、その瞳の奥にある意思は、彼女自身のものではなく、魔女であれば、私達ケイトの系譜の者(家族)に近づく魔女であれば、それを見逃すことはない。

『――ケイトフランチェスクアレシュリビェナ=レイ!!』

『その名で呼ばれるのは久しぶりだ。なあ、ルナよ』

 きらきらと輝く金色の目を細める黒猫に、雲のような生き物は、歯を――そう、口と歯があるのだ――をギリリと食いしばる。

『私の娘達に手を出して、ただで済むと思っているのかな?』

 そう、ミゲルの飼い猫フローラちゃんの中に存在しているのは、入れ代わりの魔女の魂。

 魔女の世界での刑により、十八年前から眠りについている侍女ケイトの体の持ち主――ケイトフランチェスクアレシュリビェナ=レイである。
< 172 / 181 >

この作品をシェア

pagetop