八月の蛍
終章 蛍と提灯
八月十五日、盆の夕方に、柚木と拓海はもう一度、城見町を訪ねた。
捜査は、とうに終わっていた。書類の上では、何も残っていなかった。それでも二人は来た。約束したからである。提灯が消えていないか、盆のたびに確認しに来る、と。
木戸初枝の家の軒先には、提灯が灯っていた。
夕暮れの中で、白い紙が内側から柔らかく光り、川風にゆっくりと揺れていた。
「ようこそ、お越しくださいました」
初枝は、二人を仏間に通した。
仏間と呼べる部屋に、その家は変わっていた。箪笥の上の学生服の写真の横に、真新しい位牌があった。そして写真の前に、あの菓子箱が蓋を開けて置かれていた。
白い石が二十、行儀よく並んでいた。
行李ごと、上原治郎が届けに来たのだという。山向こうの老人は玄関先で深く頭を下げ、茶も飲まずに帰っていったらしい。「いい働き者でした」とだけ言い残して。
「毎晩、寝る前に一つずつ触るんです」
初枝は、石の一つを手に取った。平成十九年、と書かれた石だった。
「この石の年は、あの子は十七。この石の年は、二十歳。……そうやって触っていると、不思議なもので、いなかった二十年が、ちゃんとあった二十年に変わっていくんです。あの子は毎年、帰ってきていた。私はそれを二十年遅れで、今、一年ずつ受け取っているところなんです」
線香を上げ、鈴を鳴らして、拓海は長いこと手を合わせた。
顔も知らない人だった。声も知らない。それなのに、この夏、自分の胸の中には、木戸浩太という人間がはっきりと住んでいた。両手に火傷のある、段取りのいい、飯を三杯食う男が。
位牌の横には、布に包まれた細長いものが供えてあった。中身は訊かなくてもわかった。谷村幸治が十五の浩太に与え、浩太が逃げる朝に美砂子の勝手口へ返し、美砂子が二十年、油を引き続けた、あの鉋である。
「納骨のときに、美砂子さんと相談して、お墓に入れることにしたんです」
初枝は、布の上からそっと手を添えた。
「それまでは、ここであの子と一緒にいさせてやろうと思って。……不思議なものですね、刑事さん。仏壇も位牌も、二十年、とうとう作れなかったのに。道具が一つ横にあるだけで、ここがあの子の居場所らしくなるんです。職人の家というのは、そういうものなのかもしれません」
茶の間で西瓜を馳走になっているとき、初枝がふと言った。
「刑事さん。一つだけ、白状していいですか」
「なんです」
「私はね、本当は、知っていたんです」
初枝は、湯呑みを両手で包んで、庭先の提灯を見た。
「盆の間は、提灯の蝋燭を、寝るまでに新しいものに替えて、朝まで点けておくんです。蝋燭というのは、朝まで放っておいたら燃え尽きて、蝋が受け皿に流れて固まります。それなのに――盆の明けの朝だけ、毎年、蝋燭が途中で消してあるんです。指で摘んだみたいに、芯だけ黒くなって、蝋が半分残っている」
柚木は、湯呑みを持つ手を止めた。
「風かしら、と最初の年は思いました。でも、風で消えた蝋燭と、指で消した蝋燭は、芯の形が違います。……二年目もそうでした。三年目も。二十年、盆の明けの朝だけ、蝋燭が指で消してある。私はそれを誰にも言わずに、毎年、確かめていたんです」
「なぜ、誰にもおっしゃらなかったんです」
拓海が、思わず訊いた。
「言えば、誰かが待ち伏せします」
初枝は、こともなげに言った。
「警察かもしれない。町の人かもしれない。誰が待ち伏せしても、あの子は捕まってしまう。……だから私は、知らん顔で蝋燭を替え続けたんです。気づいていない母親のふりが、私にできる、たった一つの――」
初枝は、そこで少し笑って、目元を拭った。
「たった一つの、返事でした」
柚木は、深く息を吐いた。
「……初枝さん。あなたたち親子は二十年間、日本一ゆっくりした文通をしていたんですね。一年に一往復。切手も要らない、字も要らない。蝋燭の芯と、新しい提灯の紙だけの文通だ」
「本当ですね」
初枝は笑った。それから、庭の向こうの川に目をやった。
「刑事さん。町のほうから、話が来ているんです。来年から、七月に『蛍祭り』をやろうと。銘板の除幕も、それに合わせて。……あの子が最後に見たのが七月の蛍だったと、どこで聞いたのか、みんな知っていましてね。八月の祭りは谷村さんの慰霊で、七月の蛍は浩太の、と」
初枝は、そこで少しおどけた顔をした。
「蛍という字はね、この間、知也くんのところの坊やに習ったんですけど、虫の上に火が載っているんだそうです。私は、いい字だと思いました。火は二十年、うちの子の敵でした。火付けの汚名の火です。それが来年からは、あの子の祭りの火になる。……敵だったものが味方になるまで、二十年。長かったけれど、間に合いました」
帰り際、初枝は玄関まで送りに出て、軒先の提灯を見上げた。
「今晩も点けておきます。もう目印は要らないのですけどね。……いえ、違うか。まだ要るんですね。今晩は盆です。大勢帰ってくる晩ですから」
「ええ」
柚木は、目を細めた。
「今晩は道が混みます。目印は、多いほうがいい」
県警本部に戻ったのは、翌日の夕方だった。
報告書の綴りは、この夏の厚みそのままに重かった。
めくれば、全部そこにあった。川で見つかった名なしの男。爪の手入れ。二十個の白い石。中学の作文と一致した筆跡。七歳の耳が保管していた金属音。使い捨てカメラの九枚。焼け焦げた配管。母ちゃんへ、で始まる手記。どの一枚も、最初はばらばらの紙切れだった。それが綴じ紐一本で束ねられると、一人の人間の、まっすぐな一生になった。
落とすんじゃない、拾うんだ――。
この綴りは、と拓海は思った。取調べで落とした調書は一枚もない。全部、どこかに落ちていたものを拾って歩いた記録だ。
拓海は自分の机で報告書の綴りを整え、最後のページに日付を入れた。それから、机の一番下の抽斗を開けた。
筆記具の箱の奥に、青いビー玉が一つ転がっている。
兄の慎吾が遺した、青い硝子の玉。十二年前、話を聞いてくれる大人が一人もいなかった夏に、拓海が兄の抽斗から一つだけ持ち出したものだった。拓海は、それを手に取らなかった。取らないまま、しばらく眺めた。石を二十年撫で続けた男と、提灯を二十年灯し続けた母親の夏の後では、この小さな青い玉との付き合い方も、少し変わって見えた。急いで握らなくても、ここにある。ここにあることを知っている。今は、それで足りた。
拓海は、抽斗を静かに閉めた。
「三雲。あがりか」
柚木が、上着を肩に掛けて立っていた。
「はい。柚木さんも」
「うちの奥さんが、今晩は新しい蕎麦屋に行くと言って聞かない。佐知子の言う新しい店は、たいてい古い店より当たりでね。……お前も、どうだ」
「え、ご一緒していいんですか」
「若い者はよく食うから、連れて歩くと店に喜ばれる」
夕暮れの廊下を、二人は並んで歩いた。
「柚木さん。一つ、訊いていいですか」
「なんだ」
「この仕事を続けていたら……いつか僕にも、わかるようになりますか。柚木さんみたいに、人の二十年が」
柚木は、少し考えてから答えた。
「わかるようには、ならない。人の二十年は、他人にわかってたまるものじゃない。……ただな、三雲。わからないものを、わからないまま、雑に扱わずに拾って歩く。それなら、明日からでもできる。お前はこの夏、もう始めていた」
窓の外で、街の灯が一つ、また一つと点き始めていた。
どの灯の下にも、誰かの二十年があるのだと拓海は思った。それを思える刑事に、自分は少しだけなり始めている。
蕎麦屋は、当たりだった。
佐知子は、ざるを手繰りながら、事件の中身は何一つ訊かなかった。その代わり、帰り際に店先で一言だけ言った。
「今度の出張、長かったですね。……いい夏でした?」
「ああ」
柚木は、少し考えてから答えた。
「いい夏だった。悲しい話なのに、いい夏だったと言える夏が、たまにあるんだ」
「それなら、けっこう」
佐知子は、それ以上何も訊かなかった。訊かないことが上手な人と暮らしている果報を、柚木は蕎麦湯の湯気の向こうで、しみじみと思った。
店を出ると、夜になっていた。
拓海は二人と別れて、一人で夜道を歩いた。見上げると、街の明かりの向こうに、遠い山並みが黒く横たわっていた。あの山の向こうの川で、今年も来年も、七月になれば小さな緑の火が灯る。
誰かの帰り道を、照らすために。
(了)
捜査は、とうに終わっていた。書類の上では、何も残っていなかった。それでも二人は来た。約束したからである。提灯が消えていないか、盆のたびに確認しに来る、と。
木戸初枝の家の軒先には、提灯が灯っていた。
夕暮れの中で、白い紙が内側から柔らかく光り、川風にゆっくりと揺れていた。
「ようこそ、お越しくださいました」
初枝は、二人を仏間に通した。
仏間と呼べる部屋に、その家は変わっていた。箪笥の上の学生服の写真の横に、真新しい位牌があった。そして写真の前に、あの菓子箱が蓋を開けて置かれていた。
白い石が二十、行儀よく並んでいた。
行李ごと、上原治郎が届けに来たのだという。山向こうの老人は玄関先で深く頭を下げ、茶も飲まずに帰っていったらしい。「いい働き者でした」とだけ言い残して。
「毎晩、寝る前に一つずつ触るんです」
初枝は、石の一つを手に取った。平成十九年、と書かれた石だった。
「この石の年は、あの子は十七。この石の年は、二十歳。……そうやって触っていると、不思議なもので、いなかった二十年が、ちゃんとあった二十年に変わっていくんです。あの子は毎年、帰ってきていた。私はそれを二十年遅れで、今、一年ずつ受け取っているところなんです」
線香を上げ、鈴を鳴らして、拓海は長いこと手を合わせた。
顔も知らない人だった。声も知らない。それなのに、この夏、自分の胸の中には、木戸浩太という人間がはっきりと住んでいた。両手に火傷のある、段取りのいい、飯を三杯食う男が。
位牌の横には、布に包まれた細長いものが供えてあった。中身は訊かなくてもわかった。谷村幸治が十五の浩太に与え、浩太が逃げる朝に美砂子の勝手口へ返し、美砂子が二十年、油を引き続けた、あの鉋である。
「納骨のときに、美砂子さんと相談して、お墓に入れることにしたんです」
初枝は、布の上からそっと手を添えた。
「それまでは、ここであの子と一緒にいさせてやろうと思って。……不思議なものですね、刑事さん。仏壇も位牌も、二十年、とうとう作れなかったのに。道具が一つ横にあるだけで、ここがあの子の居場所らしくなるんです。職人の家というのは、そういうものなのかもしれません」
茶の間で西瓜を馳走になっているとき、初枝がふと言った。
「刑事さん。一つだけ、白状していいですか」
「なんです」
「私はね、本当は、知っていたんです」
初枝は、湯呑みを両手で包んで、庭先の提灯を見た。
「盆の間は、提灯の蝋燭を、寝るまでに新しいものに替えて、朝まで点けておくんです。蝋燭というのは、朝まで放っておいたら燃え尽きて、蝋が受け皿に流れて固まります。それなのに――盆の明けの朝だけ、毎年、蝋燭が途中で消してあるんです。指で摘んだみたいに、芯だけ黒くなって、蝋が半分残っている」
柚木は、湯呑みを持つ手を止めた。
「風かしら、と最初の年は思いました。でも、風で消えた蝋燭と、指で消した蝋燭は、芯の形が違います。……二年目もそうでした。三年目も。二十年、盆の明けの朝だけ、蝋燭が指で消してある。私はそれを誰にも言わずに、毎年、確かめていたんです」
「なぜ、誰にもおっしゃらなかったんです」
拓海が、思わず訊いた。
「言えば、誰かが待ち伏せします」
初枝は、こともなげに言った。
「警察かもしれない。町の人かもしれない。誰が待ち伏せしても、あの子は捕まってしまう。……だから私は、知らん顔で蝋燭を替え続けたんです。気づいていない母親のふりが、私にできる、たった一つの――」
初枝は、そこで少し笑って、目元を拭った。
「たった一つの、返事でした」
柚木は、深く息を吐いた。
「……初枝さん。あなたたち親子は二十年間、日本一ゆっくりした文通をしていたんですね。一年に一往復。切手も要らない、字も要らない。蝋燭の芯と、新しい提灯の紙だけの文通だ」
「本当ですね」
初枝は笑った。それから、庭の向こうの川に目をやった。
「刑事さん。町のほうから、話が来ているんです。来年から、七月に『蛍祭り』をやろうと。銘板の除幕も、それに合わせて。……あの子が最後に見たのが七月の蛍だったと、どこで聞いたのか、みんな知っていましてね。八月の祭りは谷村さんの慰霊で、七月の蛍は浩太の、と」
初枝は、そこで少しおどけた顔をした。
「蛍という字はね、この間、知也くんのところの坊やに習ったんですけど、虫の上に火が載っているんだそうです。私は、いい字だと思いました。火は二十年、うちの子の敵でした。火付けの汚名の火です。それが来年からは、あの子の祭りの火になる。……敵だったものが味方になるまで、二十年。長かったけれど、間に合いました」
帰り際、初枝は玄関まで送りに出て、軒先の提灯を見上げた。
「今晩も点けておきます。もう目印は要らないのですけどね。……いえ、違うか。まだ要るんですね。今晩は盆です。大勢帰ってくる晩ですから」
「ええ」
柚木は、目を細めた。
「今晩は道が混みます。目印は、多いほうがいい」
県警本部に戻ったのは、翌日の夕方だった。
報告書の綴りは、この夏の厚みそのままに重かった。
めくれば、全部そこにあった。川で見つかった名なしの男。爪の手入れ。二十個の白い石。中学の作文と一致した筆跡。七歳の耳が保管していた金属音。使い捨てカメラの九枚。焼け焦げた配管。母ちゃんへ、で始まる手記。どの一枚も、最初はばらばらの紙切れだった。それが綴じ紐一本で束ねられると、一人の人間の、まっすぐな一生になった。
落とすんじゃない、拾うんだ――。
この綴りは、と拓海は思った。取調べで落とした調書は一枚もない。全部、どこかに落ちていたものを拾って歩いた記録だ。
拓海は自分の机で報告書の綴りを整え、最後のページに日付を入れた。それから、机の一番下の抽斗を開けた。
筆記具の箱の奥に、青いビー玉が一つ転がっている。
兄の慎吾が遺した、青い硝子の玉。十二年前、話を聞いてくれる大人が一人もいなかった夏に、拓海が兄の抽斗から一つだけ持ち出したものだった。拓海は、それを手に取らなかった。取らないまま、しばらく眺めた。石を二十年撫で続けた男と、提灯を二十年灯し続けた母親の夏の後では、この小さな青い玉との付き合い方も、少し変わって見えた。急いで握らなくても、ここにある。ここにあることを知っている。今は、それで足りた。
拓海は、抽斗を静かに閉めた。
「三雲。あがりか」
柚木が、上着を肩に掛けて立っていた。
「はい。柚木さんも」
「うちの奥さんが、今晩は新しい蕎麦屋に行くと言って聞かない。佐知子の言う新しい店は、たいてい古い店より当たりでね。……お前も、どうだ」
「え、ご一緒していいんですか」
「若い者はよく食うから、連れて歩くと店に喜ばれる」
夕暮れの廊下を、二人は並んで歩いた。
「柚木さん。一つ、訊いていいですか」
「なんだ」
「この仕事を続けていたら……いつか僕にも、わかるようになりますか。柚木さんみたいに、人の二十年が」
柚木は、少し考えてから答えた。
「わかるようには、ならない。人の二十年は、他人にわかってたまるものじゃない。……ただな、三雲。わからないものを、わからないまま、雑に扱わずに拾って歩く。それなら、明日からでもできる。お前はこの夏、もう始めていた」
窓の外で、街の灯が一つ、また一つと点き始めていた。
どの灯の下にも、誰かの二十年があるのだと拓海は思った。それを思える刑事に、自分は少しだけなり始めている。
蕎麦屋は、当たりだった。
佐知子は、ざるを手繰りながら、事件の中身は何一つ訊かなかった。その代わり、帰り際に店先で一言だけ言った。
「今度の出張、長かったですね。……いい夏でした?」
「ああ」
柚木は、少し考えてから答えた。
「いい夏だった。悲しい話なのに、いい夏だったと言える夏が、たまにあるんだ」
「それなら、けっこう」
佐知子は、それ以上何も訊かなかった。訊かないことが上手な人と暮らしている果報を、柚木は蕎麦湯の湯気の向こうで、しみじみと思った。
店を出ると、夜になっていた。
拓海は二人と別れて、一人で夜道を歩いた。見上げると、街の明かりの向こうに、遠い山並みが黒く横たわっていた。あの山の向こうの川で、今年も来年も、七月になれば小さな緑の火が灯る。
誰かの帰り道を、照らすために。
(了)