幕末恋愛物語

〜夏〜

幕末恋愛物語 ~夏~

季節の変わり目、という言葉の意味を幼き頃によく考えた。そして、幼い私が出した結論はこうだ。桜が咲けば春、緑葉の中に蝉が見えれば夏、紅葉が見えれば秋、木の葉が枯れれば冬。季節の変わり目は、木々が衣を変える時だ。

「桂さんは面白いことを考えますね」
「別に、面白くはないだろう」

桜、いいや、梅が咲き誇っていたあの日から彼女はお礼と称して私の下宿先に顔を出すようになった。来る時はいつも片手に食材袋を持って、下宿先の台所を借りて、手料理を振る舞ってくれる。それがなかなか美味いので、彼女の好意を断る事ができずにいるのだ。無論、迷惑では無いが年頃の女が家に居るのはどうにも落ち着かん。

「いいえ。面白いです。普通はそんなこと考えませんよ」
「そうだろうか。では、梅は季節をなんと考える?」

戯れに聞いた質問だが、彼女は私が考えてみたことすらない新鮮な答えを返してくれた。

「そうですね……春になれば八百屋さんに菜の花が並んで、夏になれば茄子や唐柿が並びます。秋になると、山菜やきのこがあって、冬になればお魚が安くなる。私の季節は、食べ物からなっているのかもしれません」
「それは面白い。良いことを聞いたよ」

彼女の答えを噛み締めながらフッと笑うと、ポカンとした顔で私を見ていた梅の顔にも花が咲いた。この顔は悪くない。彼女の表情を見ると、私はいつも春を感じるのだ。

「桂さんの笑う顔、初めて見た」
「何をいきなり」
「好きです、その笑顔。もっと見たいなあ」
「……馬鹿な事を」

少し熱を持った顔を冷ますように梅から身体を背け、書きかけの故郷への手紙を仕上げようと筆を持った。

「あら、照れていらっしゃるんですか?」
「梅、こういう時は男を立てるものだ」
「……ふふ、それは失礼致しました」

一拍置いて聞こえた梅の声。その柔らかな声につい口元が弛む。なんのことは無い、彼女からはきっと私の顔は見えていまい。

「それじゃあ、私はそろそろお暇致しますね」
「もう行くのか?」

いつもより少し早い。その違和感が無性に気になって、再び身体を彼女の方へ向けて聞いてしまう。もう既に戸口に立った彼女は、草履を引っ掛けながら、顔だけこちらへ向けてふんわり笑った。

「今日は少し用事がありまして」

用事。

その真っ当な返しに少し面食らって、固まってしまう。

脳裏には普段の彼女の行動が頭の中で描き出されている。いつも彼女はもう少し部屋に居座って、私が練兵館で貰ってきた菓子を頬張ったり、私の事務仕事を横から覗いてきたりしているのだ。

これは私の悪い性分だが、細やかな変化が気になって仕方がないのだ。考えまいとしても、自然と考えてしまう。
彼女さえいなければ、この小さな違和感に頭を苛まれずに済むものを。

「そうか。道中、気を付けて帰りなさい」
「はい、お心遣いありがとうございます。桂さんも、お仕事頑張ってくださいね」

お梅はそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。もう少し、なにか……いや、なんとはなく普通の事だ。文机に向き直り、止まってしまった筆を再び動かし始める。しかし、これが進まない。

用事。その一言が妙に気になるのだ。なんの用事かぐらい、普通言うものだろう。お梅の言い方が良くない。

私は自分の事は棚に上げて、お梅に悪態をつく事に集中した。いつもは納得いかない事があっても、そうして心の中で毒づいてしまえば、いつもの調子を取り戻すことができる。しかし今日ばかりはそうもいかない。お梅に悪態をつく度に、彼女の花のような笑顔が頭に浮かんでくるのだ。

「これは困った」

手に持った筆を文机に放り出し、ごろんと後ろに寝転んで天井を見つめる。

こんな気持ちになるのなら、どこに行くのだと聞いてみれば良かった。次同じ事があれば迷わず聞こう。そう考えたところで、私は目を閉じ、つかの間の休息に入ろうと思考を棄てる。

ミーンミンミン……

そうか、今は夏だった。そこまで気付いてフッとまた口元が弛む。どうやら、私が考える季節の定義は誤っていたようだ。彼女一人が微笑むだけで順序が狂う季節など、聞いた事がないわ。





「坂本龍馬?」

練兵館の師範である、斎藤弥九郎先生からそう告げられたのは夏も真っ盛りの八月の事である。

「ああ。千葉道場の門人でね、これがいい男なんだ」
「はあ」
「今度、笹本君の祝言があるだろう? そこに来てもらおうと思ってね。ひとつ、君に世話を頼みたい」

また面倒臭い役割が回ってきたものだ。千葉道場の坂本龍馬の接待など、一体それがなんのためになるというのだ。それに、笹本君の祝言には本来顔を出さないつもりだった。その日は梅がまた世話を焼きに来る日なのだから。

「斎藤先生がそこまで仰る坂本君とやら、会ってみたいが生憎、その日は用事がありまして。笹本君にも断りを入れようと考えておったのです」
「用事? 長州人の君が、江戸で用事とね?」

当たり前のように聞き返す先生に、少し息を呑みながらも、頭の中で必死に言い訳を取り繕う。人の祝言を放り出して女と逢瀬など、口が裂けても言えぬ事だ。

「まさにそれです。その日、藩邸に罷り来いと言われておりまして」
「ほう。日はずらせんのかね?」
「はい。私の都合だけでは無く、相手の都合もございますれば」
「まあ、お国の事とあらば仕方が無いの。坂本君の世話は他に頼むとしよう」
「お役に立てず、申し訳ない」

斎藤先生が道場の方へ入っていくのを見てソッと胸を撫で下ろす。上手く誤魔化せたようだ。第一、私は笹本なんかに興味は無い。何処ぞの御家人の息子か知らんが、家柄を鼻にかけ、武道を下に見る糞以下の人間だ。兄弟子でなかったら、口すらまともに聞きたくない相手だ。

梅が来んかったとしても、奴の祝言に行ったかは怪しいな。そんな事を考えながら、私はまた剣を振るった。





さて、祝言の日である。

いつもよりスッキリ目覚め、何処か落ち着かない気持ちでいつものように太陽を拝み、そして朝飯を食う。太陽が真上へ登る時間に、今日も梅は来るはずだ。

しかし、

「……来ない」

腹の虫もとうとう鳴くのを止め、少し凹んだ腹がやけに寂しい。全く、情けない限りだ。これじゃあまるで、私は梅に……。

「そんな馬鹿な」

一体、今日はなんの用事があるというのだ。用事、また用事。いやまさか、風邪を引いたのだろうか。それとも、道中辻斬りにでも巻き込まれたのか。昨今乱れる江戸の情勢を鑑みるに、ありえない話では無い。

そこまで考えて、私は無意識に立ち上がった。こう心配し始めると、私は止まらない。案ずるより産むが易しである。何度も言うが、私はきめ細やかな性分なのである。

私は今日、藩邸へ出頭している。この着流しではまずい。私は戸棚から羽織と袴を取り出し、手早く着替える。そして、腰に大小を差し、下駄を履く。これで、何処からどう見ても、お勤め帰りの武士に見えるだろう。

向かうは試衛館道場だ。私はそれ以外に、彼女が居そうな場所を知らぬのである。

見慣れた試衛館の古びた門を抜け、誰か居ないかと道場の方へ足を踏み入れる。すると、何やら騒がしい。練兵館ではあまり聞かぬ馬鹿笑いが道場にこだましていた。

「あれ、あれれ? 桂さんだ! 練兵館の桂さん、そうですよね?」
「いかにも」

運良く門人に出会うことができたようだ。それに、私を知っているなら尚更都合がいい。

「近藤君はいますか」
「近藤さん? 近藤さんは……あ。主人は今、出掛けております」

その門人は、何処か改まった様子を取り繕ってそう言った。その青々しい表情からも察せられるが、まだかなり若いのだろう。礼儀作法もままならぬといった様子だ。

「そうですか。では、塾頭はどちらに?」

塾頭。その単語を出し、ふと思う。試衛館に塾頭など居ただろうか。それに、塾頭と名乗るほどの剣士が居たとはとても思えん。

「はい。こちらに居ります」

目の前の少年がそういうのを聞いて、辺りを見回す。それらしい人は、何処にもいない。恐らく、私はこの若人に馬鹿にされているのだ。

「鎌をかけるにしても、相手を選びなさい。私はその類いのしょうもない嘘が最も……」
「だから、塾頭はこちらに居ります」
「はあ?」
「私が、試衛館道場の塾頭です。沖田総司と申します」
「君が、かね?」
「ええ、私が」

にわかには信じ難いことだった。この少年の見た目から察するに、大目に見ても十四、五と言ったところだろう。その若さで、塾頭……? となると、他の無骨な門人達はこの少年に負けたと言う事なのか。少年の目を見る限り、嘘をついている訳では無さそうだ。

「それは、大変失礼しました。あまりに若いものですから、つい」
「ふふ、よく言われます」

そう笑ったこの少年の笑顔が、何処か胸の内で引っかかる。

「桂さんはどうしてこちらに? 塾頭の私が、お話を伺いましょう!」

少年、いや、沖田君は自慢げに胸を張った。

「こちらに梅という女性はいらっしゃいますか?」
「ええ、居りますとも。姉をお探しですか?」
「ええ、そうなんで……ん、姉……?」
「あれぇ、ご存知なかったんですか? 梅は私の姉ですよ」

あまりに連続で衝撃を食らったものだから、頭がクラクラして、目の前で火花が散った。この目の前の若い門人、いや塾頭が、彼女の弟……。

「それに、桂さんがここに居らっしゃることの方が私は驚きました。姉は、貴方と会う為に、近藤先生の付き添いで練兵館の祝言に行っておりますので」
「な、それは誠ですか……」
「誠ですよ。嘘はお嫌いなのでしょう? いやしかし、おかげで面白いものを見ることが出来ました」

真実を知ってみると、この少年の笑顔に違和感を感じたのも頷ける。兄弟そっくりの笑顔である。ただ、この少年の笑みには純粋さは毛ほども感じられないが。

「教えて下さり、感謝致します。それでは、私はこれで」
「あれ、もう行っちゃうんですか? まさか、今から祝言に参加するおつもりで?」
「ええ。元より、私も招待を受けた身ですので」
「へえ。桂さんは余程姉を好いていらっしゃるんですね」

何気なく放たれた言葉に、壺で頭をかち割られたかのような衝撃が走る。私が、梅を好いている? 私を好いているのは梅の方だろう。しかし、この少年にはそう見えたのだろう。まあ、好きか嫌いかで言えば、前者に入る。それは間違いない。彼はそれを指して、あのような言い方をしたのだろう。ならば、変に反論せぬほうが良い。

「では、私はこれで」

足早に試衛館の門を抜け、祝言が行われているという練兵館道場へ走る。きっと今頃は、宴会の最中に違いない。

練兵館の敷地に足を踏み入れると、やはりいつもより何処か騒がしい。私はその声の方を辿るように歩き、襖の前で立ち止まった。少し息を整えて、それから襖を開く。

「これがわしの腹踊りじゃあ!」

襖を開くと、褌一丁で片足を挙げた男と目が合う。自然と、宴会場に居た人達の視線も私の方へ向いた。私はその中に梅の顔を探した。するとすぐに、ちょうど入口近く、近藤の隣でこちらを見るその顔を見つけることができた。

「桂君、来てくれたのか! 藩邸の用事は?」
「思いの外早く済んだので、こちらへ参りました。笹本君、この度は本当におめでとう」

駆け寄ってきた師範に経緯を適当に説明しながら、ついでに花婿に会釈をする。この程度で充分だろう。私の目的は梅である。すぐに膳を運んできた女中に、末席の方に運ぶよう頼む。

「いやいや、桂君をそんな隅に座らせる訳には行かんよ! 田舎道場よりも下とは、面目が立たん!」

笹本が慌てて皆に間隔を詰めるように言うものだから、私は上座の方に座らざるを得なくなる。これでは、とても梅と言葉を交わす事など出来ん。

「あんたが練兵館の桂さんか!」

渋々上座の方へ行く私の背に、また何か災難が降りかかる。振り返ると、先程腹踊りをしようとしていた男が田舎臭い笑みを浮かべて私を見ていた。

「わしは千葉道場の坂本龍馬ぜよ。会いたかったがよ、桂さん」
「その訛り、土佐の方の出身で?」
「お。よう分かっちょりますのお……噂は誠のようじゃ!」
「噂?」
「佐久間象山先生から聞いた噂じゃ。長州人の若い侍の中に、この世を動かすかもしれん男がおると」
「あの、佐久間先生が?」

坂本さんは、深く頷いた。いやしかし、佐久間先生がそんな事を。以前、西洋の兵学について教えを乞おうと、先生の元に駆け込んだ事がある。いきなり来た私を快く迎えてくださった深い懐をお持ちの、とても聡明な方だった。その雰囲気は、故郷の若先生にも似たものを感じたものだ。

「あんたに会う為にここまで来ちゅうのに、初めは居らんかったきい、やきもきしたぜよ」
「ああ、それは失礼をいたしました。しかし、貴方はどうして佐久間先生をご存知なのですか?」
「わしは、先生の元で西洋砲術を学んじゅうけえのお」
「成程」

それからすっかり話し込んでしまい、終いには、

「今の幕府の装備では、西洋にはとても及ばん」
「わしも同じ意見じゃ。もう日本の中だけを見ておってはいかんぜよ」
「幕府は諸藩の意見をもっと聞くべきだ」
「今後は日本人全員で、一丸となって戦わにゃいかん!」

等という、政治の話にまで移行してしまった。中々ここまで話せる者も珍しく、つい熱が入ってしまう。

「坂本君の考えは、些か理想論だ」
「桂さんは考えが硬くっていかん」

そこまで話して、ふと視界の隅で梅が立ち上がるのを見えた。まだ一言も交わしておらんのに、これはまずい。私は厠に行くと嘯いて、梅の背を追った。

「お梅!」
「桂さん?どうされたんですか?」

私が焦って来ても、特に笑顔も浮かべずに首を傾げる梅の姿に、心臓が汗をかく。私は知らず知らずのうちに、彼女が私を嬉しそうに笑って迎えてくれるのを期待していたのだろう。

「どうして帰る、私に会い来た訳では無いのか?」
「え?」
「私も、お前に会いたかった。だから……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

焦った心は、つい余計な事まで口走らせる。改めて梅を見ると、その顔は梅の花の如く紅色に染まっていた。その顔が、なんというか、また心を啄んで口が動く。

「私は、わざわざ試衛館道場にまで足を運んだ」
「桂さんが、試衛館に?」
「お前の弟に会った。彼から、お前が私の為に笹本君の祝言に来ていると聞いて、急いで私は……」
「弟? 私に弟なんて居ませんが……」
「は、はあ?」

ダメだ、帰ろう。今日はもう疲れた。

思えば、この一日の為にあまりに労力を使い過ぎた。わざわざ藩邸に行ったと嘯いたり、女が来ぬと試衛館にわざわざ出向いたり。そこで嘘をつかれ、欺かれ、祝言の席に来たかと思えば、彼女の前で恥をかいた。それも全部、無理をしたからだ。普段の私なら、こんな恥を犯すなど有り得ない。

「では、私はこれで」
「え! 桂さんが帰られるんですか?」
「もう良い、充分だ。それに……」
「それに?」
「日差しが暑すぎる! こんなところに居ては、私は馬鹿になる!」

暑さで脳が茹だる。
もう夏なんて、クソ喰らえだ。
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