僕らは3人だった 夜が明けるまで
第五話 大丈夫じゃなかった
翌朝。
陽菜は、いつもの角にいた。
「おはよう!」
いつもの声。
いつもの笑顔。
涼と海人は顔を見合わせた。
「……おはよ」
「おう」
3人で歩き始める。
陽菜が昨日見たテレビの話をする。
涼が笑う。
海人が突っ込む。
何も変わらない。
だからこそ、海人は余計に気になった。
「陽菜」
「ん?」
「叔父さんとなんかあった?」
足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「なんで?」
「最近変だから」
「変じゃないよ」
「変だろ」
「どこが?」
「家に呼ばなくなった。すぐ帰るようになった。スマホ触られるの嫌がった」
一つずつ並べられる度に、陽菜の笑顔が少しずつ消えていく。
涼も横から言った。
「僕も気になってた」
「……2人とも心配しすぎ」
陽菜は笑った。
「何もないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあスマホのとき何だったんだよ」
海人が聞くと、陽菜は少し迷った。
「……叔父さんが、見ることあるから」
海人が止まった。
涼も止まる。
数歩先まで進んだ陽菜が振り返った。
「何?」
「見るって何を」
「メッセージとか」
「勝手に?」
「勝手じゃないよ。ちゃんと貸してって言われるし」
「断ったら?」
「……なんで断るの?」
海人は眉を寄せた。
「いや、なんでって」
「保護者だから」
「保護者やったら何してもいいのかよ?」
「そんな言い方しないでよ」
初めて、陽菜の声に苛立ちが混じったのが分かり、海人が黙る。
「叔父さん、私のためにしてくれてるんだから」
「陽菜」
涼が静かに呼んだ。
「嫌じゃないの?」
「何が?」
「スマホ見られるの」
陽菜はすぐには答えなかった。
「……ちょっと嫌だけど」
「じゃあ嫌って言えばいいじゃん」
海人が当たり前のように言う。
「言えるわけないでしょ」
「なんで?」
「だって――」
声が大きくなり、陽菜は慌てて周囲を見た。
登校中の生徒が何人もいる。
声を落とした。
「叔父さん、私のために色々してくれてるんだよ」
「それとこれは別だろ」
「別じゃないよ」
「別だ」
海人は即答した。
「嫌なもんは嫌って言えばいい」
「海人」
そんな海人を涼が止める。
「なに」
「陽菜、困ってる」
「でも――」
「もういいよ」
陽菜が笑った。
無理しているのが、2人には分かってしまう。
「ほんとに大丈夫だから」
海人の眉間に皺が寄った。
「……それ」
「え?」
「最近よく言うな」
陽菜の笑顔が止まる。
「大丈夫、大丈夫って」
「だって大丈夫だもん」
「ほんとに?」
「ほんと」
「俺にはそう見えない」
陽菜が、何も言わなくなった。
違う、言えなくなった。
チャイムの予鈴が遠くから聞こえた。
「……行こ」
涼が言って、3人は再び歩き始めた。
その朝、初めて3人の間に、会話のない時間ができた。
昼休み。
陽菜は別のクラスのため、今日はクラスの友人とお昼を食べていた。
涼と海人は2人で弁当を食べていた。
「海人」
「ん?」
「言い方きつい」
「分かってる」
「陽菜、困ってたよ」
「……分かってるって」
海人は卵焼きを口へ放り込んだ。
「でも、おかしいだろ」
「叔父さん?」
「うん」
涼は箸を止めた。
「保護者が子どものスマホ見るって、そんなに変なこと?」
「変だろ」
「僕も親に見せろって言われたら、見せると思うよ」
海人が羊を見る。
信じられないというような目で。
「嫌でも?」
「……まあ」
「なんで?」
今度は涼が答えに詰まった。
「親だから?」
海人の顔がますます怪訝になる。
「それ理由になってんの?」
涼は少し笑った。
「海人の家が緩いんじゃない?」
「うち?」
「海人、親に普通に言い返すでしょ」
「そりゃ、言い返すだろ」
「僕、あんまりしないよ」
「なんで」
「怒らせても面倒だし」
さらりとした言葉だった。
海人は何も返せなかった。
涼は弁当を食べ続けながら言う。
「それに、親も僕のために言ってるんだし」
その言葉に、海人は昨日から胸に刺さっていたものがまた少し、深くなるのを感じた。
陽菜と涼、同じだ、と。
放課後、3人は一緒に帰った。
朝のことなどなかったように。
陽菜が購買で買った新しいお菓子を3人で分けた。
「これ美味しい!」
「甘すぎ」
「海人くん味覚がおじさん」
「しばくぞ」
「涼くんは?」
「僕は好き」
「ほら!」
「二対一多くね?」
笑った、いつも通りだった。
分かれ道になり、陽菜が少し離れる。
「じゃあね!」
陽菜が手を振る。
「おう」
「また明日」
陽菜が走っていく。
旅人は、その背中を見送った。
「……なあ、涼」
「ん?」
「俺、間違ってる?」
涼が旅人を見る。
「何が?」
「さっきの」
少し考えて、涼は言った。
「分かんない」
「……そっか」
「でも」
涼は陽菜が消えた道を見る。
「陽菜が大丈夫って言ってるんだったら、信じてあげた方がいいんじゃない?」
海人はしばらく黙っていた。
「……そうだな」
13 歳だった。
友達が大丈夫だと言っている。
なら信じることが友達なのだと思った。
思ってしまった。
11月の終わり。
陽菜の生活には新しい決まりが増えていた。
帰宅は17時半まで。
外出するときは行き先を伝える。
誰といるか伝える。
帰宅したらスマートフォンをリビングに置く。
夜21時以降は使わない。
叔父は言った。
「中学生なら普通だ」
だから陽菜もそうなのだと思った。
自分は今まで自由すぎたのだ。
父と母が甘かったのかもしれない。
叔父はちゃんとした大人だから正しいことを教えてくれている。
そう思った。
12月。
期末試験が返ってきた。
「どうだった?」
帰宅するとすぐに叔父が聞いた。
「まあまあ」
「見せて」
陽菜は鞄から答案を出した。
国語。
英語。
理科。
社会。
数学。
叔父が順番に見る。
「数学、78点?」
「うん」
「前より下がってるな」
「今回ちょっと難しくて」
「涼くんは?」
「え?」
「何点だった?」
「……知らない」
嘘だった。
九十二点。
昼休みに見せ合った。
「海人くんは?」
「知らないよ」
八十六点。
知っている。
「友達なのに?」
「点数まで全部知らないよ」
叔父が答案を置いた。
「最近遊びすぎなんじゃないか?」
「そんなことないよ」
「成績下がってるだろ」
「一教科だけだよ。他は上がって――」
「言い訳するな」
陽菜は黙る事を覚えていた。
「誰が学校行かせてやってると思ってる?」
またその言葉。
「……叔父さん」
「だったらちゃんとしろ」
「……はい」
「しばらく放課後遊ぶの禁止な」
思わず顔を上げる。
「え?」
「勉強しろ」
「でも――」
「何?」
「涼くんたちと……」
「毎日学校で会ってるだろ」
「でも冬休みも――」
「陽菜」
低い声。
それだけで、言葉が止まる。
「分かった?」
「…………はい」
翌日。
「ごめん」
放課後陽菜が2人へそう言った。
「しばらく遊べない」
「なんで?」
涼が聞く。
「テスト悪かったから」
「悪かったって何点?」
「数学78点」
「普通じゃん。ってかいいだろ」
「叔父さんがもっと勉強しろって」
海人の顔が変わった。
「また叔父さん?」
「またって言わないで」
「いや、だって」
「私が悪いの」
「何が」
「勉強ちゃんとしてなかったから」
「78取ってんだろ」
「でも下がったから」
「何点取れはいいわけ?」
「知らない!」
陽菜が思わず声を上げた。
二人が黙る。
陽菜自身も驚いていた。
「……ごめん」
俯きながら、陽菜は繰り返した。
「ごめんなさい」
そんな陽菜に涼がゆっくりと近づく。
「陽菜」
「叔父さん悪くないから」
またそれだった。
「私がちゃんとすればいいだけだから」
海人は何か言おうとした。
でも、涼が先に言った。
「分かった」
海人が涼を見る。
「涼」
「陽菜がそう言うなら」
涼は笑った。
優しく、少し困ったように。
「僕ら待ってるから。勉強頑張って」
陽菜がゆっくりと顔を上げる。
「……うん」
少し安心したように笑った。
「ありがとう」
海人は何も言えなかった。
その日の帰り道、海人は涼に静かに聞いた。
「なんで止めた?」
海人が言った。
「何を?」
「俺が言おうとした事」
「陽菜、しんどそうだったから」
「だからだろ」
「追い詰めても駄目だし」
「でも」
そこで涼が立ち止まった。
「海人」
穏やかな声。
「僕、分かるんだよ」
「何が」
「ちゃんとしたら怒られないんでしょ?」
海人は答えられなかった。
「陽菜勉強して、時間守って、叔父さんの言うこと聞いたら」
涼は本気で言っていた。
「それで丸く収まるなら、それが一番いいんだよ」
海人は涼を見た。
「……涼」
「ん?」
「お前も家で、そうしてんの?」
涼が少しだけ目を見開いた。
それから、笑った。
「まあ」
「…………」
「その方が楽だから」
海人は何も言えなくなった。
数日後の夕食。
「味薄いな」
叔父が言った。
「ごめん。醤油取ってくる」
最近、陽菜が夕食を作ることが増えた。
叔父の帰宅が遅いから。
学校へ通わせてもらっている。
だから、これくらいしなければ。
そう思った。
「味噌汁もぬるい」
「温め直す?」
「もういい」
「ごめんなさい」
叔父がため息をつく。
「ほんと、何やらせても中途半端だな」
胸が少しだけ、痛んだ。
「……ごめんなさい」
「それしか言えないのか?」
「…………」
「何?」
「……ごめんなさい」
叔父が鼻で笑う。
食事が終わり、陽菜は皿を片づけた。
洗っているその途中、手が滑ってしまった。
ガシャンと大きな音が響き、皿が割れた。
「あっ……」
「何してんだ!」
背後から大きな声が響く。
「ごめんなさい!」
慌ててしゃがむが、その瞬間腕を掴まれた。
強く、今までされた事もない力で。
「痛っ……」
「ほんとにお前は――」
「痛い、叔父さん」
「誰のせいでこんな生活になったと思ってる!」
陽菜の動きが止まった。
「さっさと片付けろ」
その夜。
陽菜は布団の中で腕を見た。
指の跡が薄く残っていた。
でも、殴られたわけじゃない。
叔父さんは怒っていただけ。
皿を割ったのは、自分。
叔父さんはきっと怪我しそうになったから止めてくれただけだ。
だからこれは、
暴力ではない。
「……大丈夫」
翌朝。
冬服の袖は手首まであった。
何も見えない。
いつもの角。
「おはよう!」
陽菜が笑う。
「おはよ」
涼も笑う。
海人は陽菜を見る。
「……おはよ」
3人で歩き出す。
途中、陽菜が水筒を落としかけた。
「あっ」
海人が反射的に腕を掴む。
「危な」
その瞬間、陽菜の体がびくりと大きく震え、海人の手を振り払った。
「……!」
涼が止まる。
旅人も。
加奈自身も。
3人とも。
「……陽菜?」
涼が呼ぶ。
「…………」
陽菜はすぐに笑った。
「びっくりしただけ!」
海人は自分の手を見る。
それから、加奈の腕を見る。
冬服。
長い袖。
何も見えない。
でも昨日まで、自分が腕を掴んだくらいで、こいつは、
こんな反応をしただろうか。
「陽菜」
「なに?」
「腕」
陽菜の顔から笑顔が消えた。
ほんの一瞬の事。だけど、海人は見逃さなかった。
「……腕が何?」
海人は答えなかった。
涼が2人を見る。
「海人?」
「…………」
また、胸の奥。
あの棘。
夏。
冷蔵庫の前。
叔父の声。
秋。
家へ呼ばなくなった。
門限。
スマートフォン。
外出禁止。
そして今。
海人は初めて、
その違和感から目を逸らさなかった。
「陽菜」
海人の声が低くなる。
「袖、捲って」
陽菜の顔が強張った。
「……なんで?」
「いいから」
「海人くん、学校遅れるよ」
「捲って」
「何もないって」
「じゃあ見せられるだろ」
どこかで聞いた言葉だった。
陽菜の顔が一瞬、怯えた。
海人は気づいた。
そして、自分が陽菜の叔父と同じ言い方をしたことにも、すぐに気づいた。
「……違うな」
声を落とす。
「ごめん」
陽菜が驚いて見る。
海人は無理に触らなかった。
「見せたくないなら、見せなくていい」
「…………」
「でも」
まっすぐ陽菜を見る。
「俺、心配してる」
陽菜の目が揺れた。
「涼も」
涼が頷く。
「うん」
「怒らない」
海人が言った。
「叔父さんのこと悪く言われたくないなら、今は言わない」
「…………」
「だから」
13歳の少年は言葉を探した。
「大丈夫じゃない時くらい」
やっと見つけた。
「大丈夫って言わなくていいだろ」
陽菜は2 人を見た。
何かを言おうとして唇が震えた。
でも結局、
笑った。
「……ほんとに」
声が少し掠れた。
「大丈夫だよ」
海人はその日初めて、
信じなかった。
その夜。
海人はベッドの中で。
何度も考えた。
母親に言うか。
父親に言うか。
先生に言うか。
陽菜は嫌がるだろう。
何もなかったら自分が騒いだせいで、
陽菜と叔父の関係を悪くするかもしれない。
13歳の海人には。
どこからが。
大人へ言うべきことなのか。
分からなかった。
でも、
一つだけ分かった。
陽菜の「大丈夫」は、もう信じたら駄目だ。
陽菜は、いつもの角にいた。
「おはよう!」
いつもの声。
いつもの笑顔。
涼と海人は顔を見合わせた。
「……おはよ」
「おう」
3人で歩き始める。
陽菜が昨日見たテレビの話をする。
涼が笑う。
海人が突っ込む。
何も変わらない。
だからこそ、海人は余計に気になった。
「陽菜」
「ん?」
「叔父さんとなんかあった?」
足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「なんで?」
「最近変だから」
「変じゃないよ」
「変だろ」
「どこが?」
「家に呼ばなくなった。すぐ帰るようになった。スマホ触られるの嫌がった」
一つずつ並べられる度に、陽菜の笑顔が少しずつ消えていく。
涼も横から言った。
「僕も気になってた」
「……2人とも心配しすぎ」
陽菜は笑った。
「何もないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあスマホのとき何だったんだよ」
海人が聞くと、陽菜は少し迷った。
「……叔父さんが、見ることあるから」
海人が止まった。
涼も止まる。
数歩先まで進んだ陽菜が振り返った。
「何?」
「見るって何を」
「メッセージとか」
「勝手に?」
「勝手じゃないよ。ちゃんと貸してって言われるし」
「断ったら?」
「……なんで断るの?」
海人は眉を寄せた。
「いや、なんでって」
「保護者だから」
「保護者やったら何してもいいのかよ?」
「そんな言い方しないでよ」
初めて、陽菜の声に苛立ちが混じったのが分かり、海人が黙る。
「叔父さん、私のためにしてくれてるんだから」
「陽菜」
涼が静かに呼んだ。
「嫌じゃないの?」
「何が?」
「スマホ見られるの」
陽菜はすぐには答えなかった。
「……ちょっと嫌だけど」
「じゃあ嫌って言えばいいじゃん」
海人が当たり前のように言う。
「言えるわけないでしょ」
「なんで?」
「だって――」
声が大きくなり、陽菜は慌てて周囲を見た。
登校中の生徒が何人もいる。
声を落とした。
「叔父さん、私のために色々してくれてるんだよ」
「それとこれは別だろ」
「別じゃないよ」
「別だ」
海人は即答した。
「嫌なもんは嫌って言えばいい」
「海人」
そんな海人を涼が止める。
「なに」
「陽菜、困ってる」
「でも――」
「もういいよ」
陽菜が笑った。
無理しているのが、2人には分かってしまう。
「ほんとに大丈夫だから」
海人の眉間に皺が寄った。
「……それ」
「え?」
「最近よく言うな」
陽菜の笑顔が止まる。
「大丈夫、大丈夫って」
「だって大丈夫だもん」
「ほんとに?」
「ほんと」
「俺にはそう見えない」
陽菜が、何も言わなくなった。
違う、言えなくなった。
チャイムの予鈴が遠くから聞こえた。
「……行こ」
涼が言って、3人は再び歩き始めた。
その朝、初めて3人の間に、会話のない時間ができた。
昼休み。
陽菜は別のクラスのため、今日はクラスの友人とお昼を食べていた。
涼と海人は2人で弁当を食べていた。
「海人」
「ん?」
「言い方きつい」
「分かってる」
「陽菜、困ってたよ」
「……分かってるって」
海人は卵焼きを口へ放り込んだ。
「でも、おかしいだろ」
「叔父さん?」
「うん」
涼は箸を止めた。
「保護者が子どものスマホ見るって、そんなに変なこと?」
「変だろ」
「僕も親に見せろって言われたら、見せると思うよ」
海人が羊を見る。
信じられないというような目で。
「嫌でも?」
「……まあ」
「なんで?」
今度は涼が答えに詰まった。
「親だから?」
海人の顔がますます怪訝になる。
「それ理由になってんの?」
涼は少し笑った。
「海人の家が緩いんじゃない?」
「うち?」
「海人、親に普通に言い返すでしょ」
「そりゃ、言い返すだろ」
「僕、あんまりしないよ」
「なんで」
「怒らせても面倒だし」
さらりとした言葉だった。
海人は何も返せなかった。
涼は弁当を食べ続けながら言う。
「それに、親も僕のために言ってるんだし」
その言葉に、海人は昨日から胸に刺さっていたものがまた少し、深くなるのを感じた。
陽菜と涼、同じだ、と。
放課後、3人は一緒に帰った。
朝のことなどなかったように。
陽菜が購買で買った新しいお菓子を3人で分けた。
「これ美味しい!」
「甘すぎ」
「海人くん味覚がおじさん」
「しばくぞ」
「涼くんは?」
「僕は好き」
「ほら!」
「二対一多くね?」
笑った、いつも通りだった。
分かれ道になり、陽菜が少し離れる。
「じゃあね!」
陽菜が手を振る。
「おう」
「また明日」
陽菜が走っていく。
旅人は、その背中を見送った。
「……なあ、涼」
「ん?」
「俺、間違ってる?」
涼が旅人を見る。
「何が?」
「さっきの」
少し考えて、涼は言った。
「分かんない」
「……そっか」
「でも」
涼は陽菜が消えた道を見る。
「陽菜が大丈夫って言ってるんだったら、信じてあげた方がいいんじゃない?」
海人はしばらく黙っていた。
「……そうだな」
13 歳だった。
友達が大丈夫だと言っている。
なら信じることが友達なのだと思った。
思ってしまった。
11月の終わり。
陽菜の生活には新しい決まりが増えていた。
帰宅は17時半まで。
外出するときは行き先を伝える。
誰といるか伝える。
帰宅したらスマートフォンをリビングに置く。
夜21時以降は使わない。
叔父は言った。
「中学生なら普通だ」
だから陽菜もそうなのだと思った。
自分は今まで自由すぎたのだ。
父と母が甘かったのかもしれない。
叔父はちゃんとした大人だから正しいことを教えてくれている。
そう思った。
12月。
期末試験が返ってきた。
「どうだった?」
帰宅するとすぐに叔父が聞いた。
「まあまあ」
「見せて」
陽菜は鞄から答案を出した。
国語。
英語。
理科。
社会。
数学。
叔父が順番に見る。
「数学、78点?」
「うん」
「前より下がってるな」
「今回ちょっと難しくて」
「涼くんは?」
「え?」
「何点だった?」
「……知らない」
嘘だった。
九十二点。
昼休みに見せ合った。
「海人くんは?」
「知らないよ」
八十六点。
知っている。
「友達なのに?」
「点数まで全部知らないよ」
叔父が答案を置いた。
「最近遊びすぎなんじゃないか?」
「そんなことないよ」
「成績下がってるだろ」
「一教科だけだよ。他は上がって――」
「言い訳するな」
陽菜は黙る事を覚えていた。
「誰が学校行かせてやってると思ってる?」
またその言葉。
「……叔父さん」
「だったらちゃんとしろ」
「……はい」
「しばらく放課後遊ぶの禁止な」
思わず顔を上げる。
「え?」
「勉強しろ」
「でも――」
「何?」
「涼くんたちと……」
「毎日学校で会ってるだろ」
「でも冬休みも――」
「陽菜」
低い声。
それだけで、言葉が止まる。
「分かった?」
「…………はい」
翌日。
「ごめん」
放課後陽菜が2人へそう言った。
「しばらく遊べない」
「なんで?」
涼が聞く。
「テスト悪かったから」
「悪かったって何点?」
「数学78点」
「普通じゃん。ってかいいだろ」
「叔父さんがもっと勉強しろって」
海人の顔が変わった。
「また叔父さん?」
「またって言わないで」
「いや、だって」
「私が悪いの」
「何が」
「勉強ちゃんとしてなかったから」
「78取ってんだろ」
「でも下がったから」
「何点取れはいいわけ?」
「知らない!」
陽菜が思わず声を上げた。
二人が黙る。
陽菜自身も驚いていた。
「……ごめん」
俯きながら、陽菜は繰り返した。
「ごめんなさい」
そんな陽菜に涼がゆっくりと近づく。
「陽菜」
「叔父さん悪くないから」
またそれだった。
「私がちゃんとすればいいだけだから」
海人は何か言おうとした。
でも、涼が先に言った。
「分かった」
海人が涼を見る。
「涼」
「陽菜がそう言うなら」
涼は笑った。
優しく、少し困ったように。
「僕ら待ってるから。勉強頑張って」
陽菜がゆっくりと顔を上げる。
「……うん」
少し安心したように笑った。
「ありがとう」
海人は何も言えなかった。
その日の帰り道、海人は涼に静かに聞いた。
「なんで止めた?」
海人が言った。
「何を?」
「俺が言おうとした事」
「陽菜、しんどそうだったから」
「だからだろ」
「追い詰めても駄目だし」
「でも」
そこで涼が立ち止まった。
「海人」
穏やかな声。
「僕、分かるんだよ」
「何が」
「ちゃんとしたら怒られないんでしょ?」
海人は答えられなかった。
「陽菜勉強して、時間守って、叔父さんの言うこと聞いたら」
涼は本気で言っていた。
「それで丸く収まるなら、それが一番いいんだよ」
海人は涼を見た。
「……涼」
「ん?」
「お前も家で、そうしてんの?」
涼が少しだけ目を見開いた。
それから、笑った。
「まあ」
「…………」
「その方が楽だから」
海人は何も言えなくなった。
数日後の夕食。
「味薄いな」
叔父が言った。
「ごめん。醤油取ってくる」
最近、陽菜が夕食を作ることが増えた。
叔父の帰宅が遅いから。
学校へ通わせてもらっている。
だから、これくらいしなければ。
そう思った。
「味噌汁もぬるい」
「温め直す?」
「もういい」
「ごめんなさい」
叔父がため息をつく。
「ほんと、何やらせても中途半端だな」
胸が少しだけ、痛んだ。
「……ごめんなさい」
「それしか言えないのか?」
「…………」
「何?」
「……ごめんなさい」
叔父が鼻で笑う。
食事が終わり、陽菜は皿を片づけた。
洗っているその途中、手が滑ってしまった。
ガシャンと大きな音が響き、皿が割れた。
「あっ……」
「何してんだ!」
背後から大きな声が響く。
「ごめんなさい!」
慌ててしゃがむが、その瞬間腕を掴まれた。
強く、今までされた事もない力で。
「痛っ……」
「ほんとにお前は――」
「痛い、叔父さん」
「誰のせいでこんな生活になったと思ってる!」
陽菜の動きが止まった。
「さっさと片付けろ」
その夜。
陽菜は布団の中で腕を見た。
指の跡が薄く残っていた。
でも、殴られたわけじゃない。
叔父さんは怒っていただけ。
皿を割ったのは、自分。
叔父さんはきっと怪我しそうになったから止めてくれただけだ。
だからこれは、
暴力ではない。
「……大丈夫」
翌朝。
冬服の袖は手首まであった。
何も見えない。
いつもの角。
「おはよう!」
陽菜が笑う。
「おはよ」
涼も笑う。
海人は陽菜を見る。
「……おはよ」
3人で歩き出す。
途中、陽菜が水筒を落としかけた。
「あっ」
海人が反射的に腕を掴む。
「危な」
その瞬間、陽菜の体がびくりと大きく震え、海人の手を振り払った。
「……!」
涼が止まる。
旅人も。
加奈自身も。
3人とも。
「……陽菜?」
涼が呼ぶ。
「…………」
陽菜はすぐに笑った。
「びっくりしただけ!」
海人は自分の手を見る。
それから、加奈の腕を見る。
冬服。
長い袖。
何も見えない。
でも昨日まで、自分が腕を掴んだくらいで、こいつは、
こんな反応をしただろうか。
「陽菜」
「なに?」
「腕」
陽菜の顔から笑顔が消えた。
ほんの一瞬の事。だけど、海人は見逃さなかった。
「……腕が何?」
海人は答えなかった。
涼が2人を見る。
「海人?」
「…………」
また、胸の奥。
あの棘。
夏。
冷蔵庫の前。
叔父の声。
秋。
家へ呼ばなくなった。
門限。
スマートフォン。
外出禁止。
そして今。
海人は初めて、
その違和感から目を逸らさなかった。
「陽菜」
海人の声が低くなる。
「袖、捲って」
陽菜の顔が強張った。
「……なんで?」
「いいから」
「海人くん、学校遅れるよ」
「捲って」
「何もないって」
「じゃあ見せられるだろ」
どこかで聞いた言葉だった。
陽菜の顔が一瞬、怯えた。
海人は気づいた。
そして、自分が陽菜の叔父と同じ言い方をしたことにも、すぐに気づいた。
「……違うな」
声を落とす。
「ごめん」
陽菜が驚いて見る。
海人は無理に触らなかった。
「見せたくないなら、見せなくていい」
「…………」
「でも」
まっすぐ陽菜を見る。
「俺、心配してる」
陽菜の目が揺れた。
「涼も」
涼が頷く。
「うん」
「怒らない」
海人が言った。
「叔父さんのこと悪く言われたくないなら、今は言わない」
「…………」
「だから」
13歳の少年は言葉を探した。
「大丈夫じゃない時くらい」
やっと見つけた。
「大丈夫って言わなくていいだろ」
陽菜は2 人を見た。
何かを言おうとして唇が震えた。
でも結局、
笑った。
「……ほんとに」
声が少し掠れた。
「大丈夫だよ」
海人はその日初めて、
信じなかった。
その夜。
海人はベッドの中で。
何度も考えた。
母親に言うか。
父親に言うか。
先生に言うか。
陽菜は嫌がるだろう。
何もなかったら自分が騒いだせいで、
陽菜と叔父の関係を悪くするかもしれない。
13歳の海人には。
どこからが。
大人へ言うべきことなのか。
分からなかった。
でも、
一つだけ分かった。
陽菜の「大丈夫」は、もう信じたら駄目だ。