僕らは3人だった 夜が明けるまで
第四話 大丈夫
翌朝。
待ち合わせ場所へ行くと、陽菜はもう来ていた。
「おはよう!」
昨日のことなど何もなかったように笑っている。
「珍し」
海人が言った。
「何が?」
「お前が一番早い」
「私だってやればできるんですー」
「毎日やれ」
「嫌ですー」
涼が穏やかに笑う。
「朝から元気だね」
「涼くん眠そう」
「昨日ちょっと遅くまで起きてたから」
「夜更かし?」
「ううん、勉強」
「真面目!」
いつもの朝。
3人で出かけた。
図書館で宿題をして。
昼にファストフードを食べて。
ゲームセンターへ寄った。
陽菜は笑っていた。
昨日の夜自分の家で言われたことを、二人には話さなかった。
話すほどのことではないと思った。
叔父の言うことはもっともだ。
仕事から疲れて帰ってきて、知らない子どもが家にいたら休まらない。
涼と海人は叔父にとっては他人なのだから。
だから、次から外で遊べばいい。
それだけだった。
夏休みが終わり、2学期になった。
3人の日常は続いた。
ただ、少しだけ変わった。
「今日、陽菜ん家行く?」
涼が聞くと、陽菜は一瞬だけ黙った。
「今日は無理かな」
「なんかあるの?」
「叔父さん疲れてるから」
「そっか」
「公園行こう!」
「いいよ」
その日は公園へ行った。
次も。
その次も。
気づけば。
陽菜の家で遊ぶことはなくなった。
九月。
「陽菜」
夕食中、叔父が箸を置いた。
「最近、帰り遅くないか?」
「え?」
「今日何時だった?」
「17時半くらい」
「中学生の女がそんな時間までうろつくな」
陽菜は少し驚いた。
まだ外は明るかった。
友達と一緒だった。
「涼くんと海人くんと――」
「誰と一緒かは聞いてない」
声が強くなったのが分かり、陽菜は口を閉じる。
「ごめんなさい」
「18時前には家にいろ」
「……うん」
「返事」
「はい」
叔父はまた食事を始めた。
「お前のこと心配して言ってるんだからな」
「うん」
「女の子なんだから。何かあってからじゃ遅いだろ」
「……うん」
「分かればいい」
その言葉を聞くと、陽菜は少し安心した。
心配してくれている。
怒られたのではない。
大事にされているのだ。
そう思ってしまった。
翌日。
「じゃ、今日あっちの公園行くか」
海人がそう言うと、陽菜は少し困ったように笑った。
「ごめん。私、先帰るね」
「は?」
「門限」
「何時?」
「18時前」
海人が時計を見るも、まだ16時半だった。
「余裕じゃん」
「でも宿題もあるし」
「昨日まで普通に遊んでたじゃん」
「今日からちゃんとするの!」
「じゃあね!」
走っていく陽菜に、涼が手を振る。
「また明日」
「うん!」
海人は遠ざかる背中を見ていた。
「……なんだよ」
「門限くらい普通じゃないの?」
涼が言う。
「まあ」
普通だ。
中学生の姪に早く帰ってこいと言う保護者。
何もおかしくない。
「行こ、海人」
「……おう」
10月。
「スマホ」
夕食後、叔父が手を出した。
陽菜は瞬きをする。
「え?」
「見せて」
「なんで?」
「最近ずっと触ってるだろ」
「友達と話してるだけだよ」
「だから、それを確認する」
「……え?」
叔父の顔から、笑顔が消えた。
「俺はお前の保護者だぞ」
「でも……」
「何?」
陽菜はスマートフォンを握った。
「……友達との話だから」
「俺に見られて困ることでも話してるのか?」
「違うけど」
「じゃあ見せられるだろ」
理屈が分からなかった。
でも、
反論する言葉も見つからなかった。
「陽菜」
「……はい」
スマートフォンを渡すとすぐに、叔父はメッセージを開いた。
クラスメイト。
部活動。
そして。
3人のグループ。
画面を上へ滑らせていく。
『明日何時?』
『10時!』
『陽菜は絶対遅れる』
『遅れませんー!』
『この前15分遅れた』
『あれは寝坊じゃない!』
『何だったんだよ』
『……寝坊』
叔父が鼻で笑った。
「くだらないな」
胸が少し痛んだ。
「……返して」
「まだ見てる」
「叔父さん」
「なんだ?」
「……返して」
叔父が顔を上げ、目が合った。
陽菜は、怖いと思った。
初めてだった。
「誰のおかげで、そのスマホ使えてると思ってる?」
「…………」
「料金払ってるの、俺だろ」
それは違う。
父と母が残したお金がある。
そう言いかけた。
でも、言わなかった。
「……ごめんなさい」
叔父はしばらくしてスマートフォンを返した。
「俺はお前が変なことに巻き込まれないようにしてるだけだ」
「……うん」
「お前のためだよ」
「うん」
部屋へ戻り、ベッドへ座る。
スマートフォンを開く。
海人からメッセージが来ていた。
『明日朝練あるから先行く』
陽菜は文字を打つ。
『了解! 頑張ってね!』
送信。
いつもの文章。
いつもの自分。
叔父に見られたことは。
書かなかった。
11月。
涼は陽菜が変わったと思い始めていた。
大きくではない。
本当に、少しだけ。
以前より早く帰る。
以前よりスマートフォンを気にする。
遊びに誘っても断ることが増えた。
でも、学校では笑っている。
3人でいるときも変わらない。
「陽菜」
昼休み、涼が優しく陽菜に聞く。
「ん?」
「なんかあった?」
「何が?」
「最近」
「何もないよ?」
即答だった。
「本当に?」
「ほんと」
陽菜は何でもないように笑う。
「叔父さんとは?」
一瞬。
ほんの一瞬。
笑顔が止まった。
「普通だよ」
海人がそれを見ていた。
「……陽菜」
「なに?」
「スマホ貸して」
「え?」
「時間見る」
「自分のあるでしょ」
「充電切れた」
「涼くんの見れば?」
「陽菜の方が近い」
海人が手を伸ばすと、陽菜は反射的にスマートフォンを胸へ抱いた。
「やだ……!」
3人とも止まった。
「何だよ……」
海人が言う。
いつも、陽菜ははいはいと言いながらスマホを渡してくるのに。
「……なんでもない」
「なんでもない反応じゃないだろ」
「ほんとになんでもない!」
「陽菜」
涼も心配そうに見る。
「なにかあった?」
「ないって!」
声が少し大きくなった。
周りの生徒がこちらを見る。
陽菜は気づいて、笑った。
「ごめん。昨日ゲームしてて遅くなったから、眠いだけ」
「……そうなの?」
「うん」
涼はそれ以上聞かなかった。
海人は聞こうとした。
でも、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。
「ほら、戻ろ!」
陽菜が立ち上がり走っていく。
海人はその背中を見た。
また。
胸の奥に。
小さな棘が刺さった。
その日の夜。
宮原家。
「海人、風呂!」
「あとで!」
「あとで言うて入らないじゃない!」
「入るって!」
「十分以内!」
「はいはい!」
テレビを見ながら返事をすると、父親が横から笑った。
「お前、母さんに怒られてばっかだな〜」
「おとんもだろ」
「俺は大人だから」
「昨日ゴミ出し忘れて怒られてた」
「それは言うな」
母親の声が飛んでくる。
「2人とも聞こえてるからね!」
「はい!」
父と息子の声が揃う。
海人は笑った。
そのとき。
スマートフォンが光った。
涼。
『陽菜、なんか変じゃない?』
海人の笑顔が消える。
『俺も思っとった』
涼。
『叔父さんかな』
海人の指が止まる。
夏。
ビールの件。
『あんまり頻繁に呼ぶな』
それは陽菜から後になって聞いた。
門限。
スマートフォン。
今日の反応。
点だったものが。
少しずつ。
繋がり始める。
『明日聞こ』
送信する。
涼から。
『うん』
海人は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「海人!」
「分かったって!」
母親の声。
いつもの家。
いつもの夜。
海人はまだ知らなかった。
自分が今感じている違和感が、正しいことを。
同じ頃。
陽菜の家。
「これ、何?」
叔父が1枚の紙をテーブルへ置いた。
学校から配られた、進路に関する簡単な希望調査だった。
「まだ1年生だから、将来やってみたいことを書くやつ」
「これ」
叔父の指がひとつの欄を叩く。
『大学進学』
「大学行くつもりなの?」
「……行けたら」
「誰が金出すの?」
「お父さんとお母さんが、私のために貯めてくれてたって……」
その瞬間、叔父の顔が変わった。
「誰から聞いた?」
「え?」
「金の話」
「前に、お母さんが……」
「死んだ人間の話するなよ!」
怒鳴り声に陽菜の肩が跳ねた。
初めてだった。
ここまで大きな声を出されたのは。
「…………」
叔父も黙った。
「……悪い」
「…………」
「仕事で疲れてるんだ」
「……うん」
「急にお前を引き取って、俺だって色々大変なんだよ」
「……うん」
「分かるだろ?」
「うん」
「お前のこと嫌いで言ってるんじゃない」
叔父が陽菜の頭へ手を置いた。
体が少しだけ、固まった。
「家族なんだから」
「…………うん」
「俺しかいないんだぞ」
陽菜が顔を上げる。
「お前にはもう」
叔父は、優しく言った。
「俺しか家族いないんだから」
胸が苦しくなった。
お父さん。
お母さん。
いない、
もう。
いない。
その事実を改めて突きつけられた気がした。
「……うん」
「だから俺の言うこと聞いてればいい」
「……分かった」
「いい子だな」
頭を撫でられる。
陽菜は笑おうとした。
「……うん」
その夜。
部屋に戻った陽菜は机の引き出しを開けた。
1枚の写真。
卒業式の日に3人で撮った写真。
陽菜が真ん中。
両隣に涼、海人。
3人とも笑っている。
スマートフォンが震えた。
涼。
『明日一緒に帰ろ』
続いて。
海人。
『3人でな』
陽菜は写真を見た。
メッセージを見る。
そして返信した。
『もちろん!』
少し考えていつものように。
笑っている猫のスタンプも送った。
翌日。
涼と海人に聞かれたら。
何もないと言おう。
叔父さんは。
疲れているだけ。
自分を引き取ってくれた。
学校にも通わせてくれている。
ご飯も食べさせてくれる。
家にいてくれている。
それなのに。
悪く言うなんてできない。
何より。
もし叔父までいなくなったら。
今度こそ。
自分は。
どこへ行けばいいのだろう。
陽菜は写真の中の2人を指で撫でた。
「……大丈夫」
小さく。
呟いた。
「大丈夫だから」
翌日。
涼と海人はその言葉を初めて聞くことになる。
そして。
これから先。
何度も。
何度も。
聞くことになる。
――大丈夫。
3人の中で。
一番信用してはいけない言葉に。
いつか。
なるとも知らずに。
待ち合わせ場所へ行くと、陽菜はもう来ていた。
「おはよう!」
昨日のことなど何もなかったように笑っている。
「珍し」
海人が言った。
「何が?」
「お前が一番早い」
「私だってやればできるんですー」
「毎日やれ」
「嫌ですー」
涼が穏やかに笑う。
「朝から元気だね」
「涼くん眠そう」
「昨日ちょっと遅くまで起きてたから」
「夜更かし?」
「ううん、勉強」
「真面目!」
いつもの朝。
3人で出かけた。
図書館で宿題をして。
昼にファストフードを食べて。
ゲームセンターへ寄った。
陽菜は笑っていた。
昨日の夜自分の家で言われたことを、二人には話さなかった。
話すほどのことではないと思った。
叔父の言うことはもっともだ。
仕事から疲れて帰ってきて、知らない子どもが家にいたら休まらない。
涼と海人は叔父にとっては他人なのだから。
だから、次から外で遊べばいい。
それだけだった。
夏休みが終わり、2学期になった。
3人の日常は続いた。
ただ、少しだけ変わった。
「今日、陽菜ん家行く?」
涼が聞くと、陽菜は一瞬だけ黙った。
「今日は無理かな」
「なんかあるの?」
「叔父さん疲れてるから」
「そっか」
「公園行こう!」
「いいよ」
その日は公園へ行った。
次も。
その次も。
気づけば。
陽菜の家で遊ぶことはなくなった。
九月。
「陽菜」
夕食中、叔父が箸を置いた。
「最近、帰り遅くないか?」
「え?」
「今日何時だった?」
「17時半くらい」
「中学生の女がそんな時間までうろつくな」
陽菜は少し驚いた。
まだ外は明るかった。
友達と一緒だった。
「涼くんと海人くんと――」
「誰と一緒かは聞いてない」
声が強くなったのが分かり、陽菜は口を閉じる。
「ごめんなさい」
「18時前には家にいろ」
「……うん」
「返事」
「はい」
叔父はまた食事を始めた。
「お前のこと心配して言ってるんだからな」
「うん」
「女の子なんだから。何かあってからじゃ遅いだろ」
「……うん」
「分かればいい」
その言葉を聞くと、陽菜は少し安心した。
心配してくれている。
怒られたのではない。
大事にされているのだ。
そう思ってしまった。
翌日。
「じゃ、今日あっちの公園行くか」
海人がそう言うと、陽菜は少し困ったように笑った。
「ごめん。私、先帰るね」
「は?」
「門限」
「何時?」
「18時前」
海人が時計を見るも、まだ16時半だった。
「余裕じゃん」
「でも宿題もあるし」
「昨日まで普通に遊んでたじゃん」
「今日からちゃんとするの!」
「じゃあね!」
走っていく陽菜に、涼が手を振る。
「また明日」
「うん!」
海人は遠ざかる背中を見ていた。
「……なんだよ」
「門限くらい普通じゃないの?」
涼が言う。
「まあ」
普通だ。
中学生の姪に早く帰ってこいと言う保護者。
何もおかしくない。
「行こ、海人」
「……おう」
10月。
「スマホ」
夕食後、叔父が手を出した。
陽菜は瞬きをする。
「え?」
「見せて」
「なんで?」
「最近ずっと触ってるだろ」
「友達と話してるだけだよ」
「だから、それを確認する」
「……え?」
叔父の顔から、笑顔が消えた。
「俺はお前の保護者だぞ」
「でも……」
「何?」
陽菜はスマートフォンを握った。
「……友達との話だから」
「俺に見られて困ることでも話してるのか?」
「違うけど」
「じゃあ見せられるだろ」
理屈が分からなかった。
でも、
反論する言葉も見つからなかった。
「陽菜」
「……はい」
スマートフォンを渡すとすぐに、叔父はメッセージを開いた。
クラスメイト。
部活動。
そして。
3人のグループ。
画面を上へ滑らせていく。
『明日何時?』
『10時!』
『陽菜は絶対遅れる』
『遅れませんー!』
『この前15分遅れた』
『あれは寝坊じゃない!』
『何だったんだよ』
『……寝坊』
叔父が鼻で笑った。
「くだらないな」
胸が少し痛んだ。
「……返して」
「まだ見てる」
「叔父さん」
「なんだ?」
「……返して」
叔父が顔を上げ、目が合った。
陽菜は、怖いと思った。
初めてだった。
「誰のおかげで、そのスマホ使えてると思ってる?」
「…………」
「料金払ってるの、俺だろ」
それは違う。
父と母が残したお金がある。
そう言いかけた。
でも、言わなかった。
「……ごめんなさい」
叔父はしばらくしてスマートフォンを返した。
「俺はお前が変なことに巻き込まれないようにしてるだけだ」
「……うん」
「お前のためだよ」
「うん」
部屋へ戻り、ベッドへ座る。
スマートフォンを開く。
海人からメッセージが来ていた。
『明日朝練あるから先行く』
陽菜は文字を打つ。
『了解! 頑張ってね!』
送信。
いつもの文章。
いつもの自分。
叔父に見られたことは。
書かなかった。
11月。
涼は陽菜が変わったと思い始めていた。
大きくではない。
本当に、少しだけ。
以前より早く帰る。
以前よりスマートフォンを気にする。
遊びに誘っても断ることが増えた。
でも、学校では笑っている。
3人でいるときも変わらない。
「陽菜」
昼休み、涼が優しく陽菜に聞く。
「ん?」
「なんかあった?」
「何が?」
「最近」
「何もないよ?」
即答だった。
「本当に?」
「ほんと」
陽菜は何でもないように笑う。
「叔父さんとは?」
一瞬。
ほんの一瞬。
笑顔が止まった。
「普通だよ」
海人がそれを見ていた。
「……陽菜」
「なに?」
「スマホ貸して」
「え?」
「時間見る」
「自分のあるでしょ」
「充電切れた」
「涼くんの見れば?」
「陽菜の方が近い」
海人が手を伸ばすと、陽菜は反射的にスマートフォンを胸へ抱いた。
「やだ……!」
3人とも止まった。
「何だよ……」
海人が言う。
いつも、陽菜ははいはいと言いながらスマホを渡してくるのに。
「……なんでもない」
「なんでもない反応じゃないだろ」
「ほんとになんでもない!」
「陽菜」
涼も心配そうに見る。
「なにかあった?」
「ないって!」
声が少し大きくなった。
周りの生徒がこちらを見る。
陽菜は気づいて、笑った。
「ごめん。昨日ゲームしてて遅くなったから、眠いだけ」
「……そうなの?」
「うん」
涼はそれ以上聞かなかった。
海人は聞こうとした。
でも、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。
「ほら、戻ろ!」
陽菜が立ち上がり走っていく。
海人はその背中を見た。
また。
胸の奥に。
小さな棘が刺さった。
その日の夜。
宮原家。
「海人、風呂!」
「あとで!」
「あとで言うて入らないじゃない!」
「入るって!」
「十分以内!」
「はいはい!」
テレビを見ながら返事をすると、父親が横から笑った。
「お前、母さんに怒られてばっかだな〜」
「おとんもだろ」
「俺は大人だから」
「昨日ゴミ出し忘れて怒られてた」
「それは言うな」
母親の声が飛んでくる。
「2人とも聞こえてるからね!」
「はい!」
父と息子の声が揃う。
海人は笑った。
そのとき。
スマートフォンが光った。
涼。
『陽菜、なんか変じゃない?』
海人の笑顔が消える。
『俺も思っとった』
涼。
『叔父さんかな』
海人の指が止まる。
夏。
ビールの件。
『あんまり頻繁に呼ぶな』
それは陽菜から後になって聞いた。
門限。
スマートフォン。
今日の反応。
点だったものが。
少しずつ。
繋がり始める。
『明日聞こ』
送信する。
涼から。
『うん』
海人は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「海人!」
「分かったって!」
母親の声。
いつもの家。
いつもの夜。
海人はまだ知らなかった。
自分が今感じている違和感が、正しいことを。
同じ頃。
陽菜の家。
「これ、何?」
叔父が1枚の紙をテーブルへ置いた。
学校から配られた、進路に関する簡単な希望調査だった。
「まだ1年生だから、将来やってみたいことを書くやつ」
「これ」
叔父の指がひとつの欄を叩く。
『大学進学』
「大学行くつもりなの?」
「……行けたら」
「誰が金出すの?」
「お父さんとお母さんが、私のために貯めてくれてたって……」
その瞬間、叔父の顔が変わった。
「誰から聞いた?」
「え?」
「金の話」
「前に、お母さんが……」
「死んだ人間の話するなよ!」
怒鳴り声に陽菜の肩が跳ねた。
初めてだった。
ここまで大きな声を出されたのは。
「…………」
叔父も黙った。
「……悪い」
「…………」
「仕事で疲れてるんだ」
「……うん」
「急にお前を引き取って、俺だって色々大変なんだよ」
「……うん」
「分かるだろ?」
「うん」
「お前のこと嫌いで言ってるんじゃない」
叔父が陽菜の頭へ手を置いた。
体が少しだけ、固まった。
「家族なんだから」
「…………うん」
「俺しかいないんだぞ」
陽菜が顔を上げる。
「お前にはもう」
叔父は、優しく言った。
「俺しか家族いないんだから」
胸が苦しくなった。
お父さん。
お母さん。
いない、
もう。
いない。
その事実を改めて突きつけられた気がした。
「……うん」
「だから俺の言うこと聞いてればいい」
「……分かった」
「いい子だな」
頭を撫でられる。
陽菜は笑おうとした。
「……うん」
その夜。
部屋に戻った陽菜は机の引き出しを開けた。
1枚の写真。
卒業式の日に3人で撮った写真。
陽菜が真ん中。
両隣に涼、海人。
3人とも笑っている。
スマートフォンが震えた。
涼。
『明日一緒に帰ろ』
続いて。
海人。
『3人でな』
陽菜は写真を見た。
メッセージを見る。
そして返信した。
『もちろん!』
少し考えていつものように。
笑っている猫のスタンプも送った。
翌日。
涼と海人に聞かれたら。
何もないと言おう。
叔父さんは。
疲れているだけ。
自分を引き取ってくれた。
学校にも通わせてくれている。
ご飯も食べさせてくれる。
家にいてくれている。
それなのに。
悪く言うなんてできない。
何より。
もし叔父までいなくなったら。
今度こそ。
自分は。
どこへ行けばいいのだろう。
陽菜は写真の中の2人を指で撫でた。
「……大丈夫」
小さく。
呟いた。
「大丈夫だから」
翌日。
涼と海人はその言葉を初めて聞くことになる。
そして。
これから先。
何度も。
何度も。
聞くことになる。
――大丈夫。
3人の中で。
一番信用してはいけない言葉に。
いつか。
なるとも知らずに。