ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

エピローグ 二人分の時間


 それから五年が経った。五年という時間を、音姫はもう「一瞬」とは呼ばなかった。春に植えた花が夏に咲き、秋に枯れ、冬を越す。その繰り返しを五回。拓海と喧嘩して、仲直りして、旅行へ行き、風邪をうつし合い、何でもない夕食を何百回も食べた。千年の歴史書には残らない日々だった。最初の一年は、何をしても音姫が「記念日」にした。初めて二人で家具を買った日。初めて電球を交換した日。初めて拓海が洗濯物を色移りさせた日。

「最後のは記念にするな」

「大事件でした」

「白いシャツが薄桃色になっただけだろ」

「お気に入りでした」

 二年目になると、さすがの音姫も少し落ち着いた。結婚してから、一番大きな喧嘩をしたのもその頃だった。原因は驚くほどくだらない。拓海が勝手に、音姫の古い日記の一部をデジタル整理しようとしたことだった。

「触らないでください!」

 珍しく音姫が本気で怒鳴った。拓海も腹が立った。

「劣化してるからバックアップしようとしただけだろ!」

「頼んでません!」

「お前、何でも保存するくせに!」

「だからこそです!」

 音姫は日記を抱きしめた。

「これは、綺麗に残したいものじゃありません」

 拓海の手が止まった。日記の傷んだ角へ伸ばしかけた指を、ゆっくり引っ込める。泣き跡も、乱れた字も、破いたページも。それ自体が、音姫が生きた時間なのだ。保存するために整えれば、失われるものもある。

「……ごめん」

「私も、怒鳴ってごめんなさい」

 その日の夜、二人は日記の保存方法を一緒に考えた。原本はそのまま。必要な分だけ複製を作る。勝手に触らない。千年待った二人の結婚生活は、そんな地味なルールの追加で続いていった。三年目には、記録し忘れる日が出てきた。音姫は最初、それに気づいて青ざめた。

「昨日の日記、三行しかありません」

「十分だろ」

「昔は十ページ書けました」

「昔がおかしい」

 けれどそのうち、音姫は三行の日記を気に入るようになった。

『拓海くんと夕食。魚が少し焦げた。美味しかった』

 それだけの日。何も失わず、何も起こらず、誰も死なない一日。千年間の彼女が一番欲しかったのは、たぶんこういう短い記録だった。けれど音姫の日記は、昔より分厚くなった。

「最近、俺のこと七割どころじゃないだろ」

「安心してください。今は六割です」

「減った?」

「残り四割は、二人のことです」

 拓海は何も言えず、照れ隠しに窓を開けた。拓海と音姫は、小さな家に住んでいた。タワーマンションの最上階ではない。

「フロア全部とか、もういらないだろ」

「そうですね」

「普通の家がいい」

「普通、いいですね」

 海の見える、ただの一軒家。玄関には二人分の靴が並び、冷蔵庫には買い忘れ防止のメモが貼られている。洗面台には色違いの歯ブラシ。庭の隅には、甲太郎が来た時のためだと言って音姫が勝手に作った小さな池まであった。かつて彼女が千年かけて守ったものに比べれば、笑ってしまうほど小さな家だ。けれど、ここには保存するための過去ではなく、使って減っていく現在があった。食器は欠ける。床には傷がつく。写真の二人は少しずつ歳を取る。

 以前の音姫なら、欠けた食器は修復し、傷ついた床は交換し、写真は劣化しない媒体へ移しただろう。今は、欠けた茶碗を金継ぎして使っている。床の傷には「拓海が椅子を落とした跡」と小さく印をつけた。

「印つけるな」

「消したくないので」

「保存癖、治ってないじゃん」

「全部新品に戻さなくなったので進歩です」

 確かにそうだった。残すことと、変わらないよう固定することは違う。音姫はようやく、傷が増えることまで含めて暮らしだと知った。音姫はそれを、もう怖がらなかった。窓を開けると、潮の匂いがした。千年前、拓海が逃げた海と、同じ海。

「拓海くん」

「ん」

「今日、何の日か覚えてます?」

「結婚記念日」

「今年も正解ですね」

「毎年聞くなよ」

「最初の年は忘れかけてました」

「ぎりぎり思い出しただろ」

 音姫は笑いながら、朝食の支度をしていた。普通の卵焼き。普通の味噌汁。千年分の資産と権力を持つ女が、今は近所のスーパーで特売の卵を選んでいる。

「会社は?」

「後継者に譲りました」

「大丈夫なのか」

「何代もかけて育ててきた組織です。私一人が抜けても大丈夫です」

「気が長いな」

「得意分野なので」

 拓海は笑った。食卓に着くと、音姫がふと、拓海の頭を見た。

「拓海くん」

「何」

「白髪、見つけました」

「マジで?」

「一本だけです」

「お前の時と同じだな」

「はい」

 音姫は嬉しそうに、その一本をつまんだ。

「保存します」

「またかよ」

「今度は、二人分ですね」

 小さな透明ケースが、また一つ増えた。

『拓海、初めての白髪』

 隣には、人間に戻ったばかりの頃のラベル。

『音姫、人間に戻って最初の白髪』

 二つ並んだケースを、拓海はしばらく眺めていた。

「なあ、音姫」

「はい」

「俺たち、ちゃんと同じ速さで歳取ってるな」

「はい」

「これから、しわも増えるし、腰も痛くなるし、いつか死ぬ」

「はい」

「それでいいんだよな」

 音姫は、拓海の手をそっと握った。

「はい」

「怖くないのか」

「怖いです」

「でも」

「でも、一人で千年生きる方が、もっと怖かったので」

 窓の外、海がきらきらと光っていた。

 その日の午後、二人は少し遠出をした。未来の墓地公園。かつての墓地は、時代の変化とともに何度も改葬され、今は静かな記念公園になっている。音姫が案内した先に、小さな石碑があった。

『浦部家』

 拓海の両親の名が刻まれている。音姫が千年かけて守り続けた、数少ない「変わらないもの」の一つだった。

「ここ、残しておいてくれたのか」

「はい」

「大変だっただろ。千年」

「大変でした」

 即答だった。

「でも、拓海くんが帰ってきた時に。手を合わせる場所がないと、きっと困ると思ったので」

 拓海はしゃがみ込み、石碑へそっと触れた。

「親父、母さん」

 声が震える。

「遅くなった」

 返事はない。当然だ。けれど、隣に音姫がいることで、その沈黙は寂しいだけのものではなかった。

「二人とも、最後まで音姫のこと褒めてた?」

「はい」

「なんて」

「『息子より、よっぽどしっかりしてる』と」

「おい」

「『できれば本当の娘になってほしい』とも」

「先取りしすぎだろ」

 音姫は静かに笑った。

「今、叶いました」

「そうだな」

 拓海は手を合わせた。謝る言葉は、もう手紙を読んだ日に全部言った。だから今日は、別のことを報告する。

「ちゃんと生きてるよ」

 それだけ言った。

 帰り道、音姫は珍しく何も記録しなかった。墓地の写真も撮らない。拓海が何を言ったかも端末へ入力しない。

「書かなくていいの?」

「覚えていたいので」

 かつて初めてキスをした日に言った言葉と同じだった。全部を残さなくても、なくならない思い出がある。家へ着くと、音姫が先に玄関を開けた。拓海は靴を脱ぎながら、何となく言う。

「ただいま」

 音姫が振り返った。千年前、たった一度言うために千年待った言葉を。今度は何でもない夕方に、何でもない笑顔で返す。

「おかえりなさい」

 今度の「おかえりなさい」は、千年ぶりではなかった。たった数時間ぶりだった。それが、二人には嬉しかった。

 夕方、庭先に一匹の亀がやってきた。

「久しいのう」

「甲太郎」

「元気そうじゃな」

「おかげさまで」

 甲太郎は縁側に上がり、二人を見比べた。

「良い顔になったのう、二人とも」

「そうか?」

「うむ。あの日、逃げ回っておった若造とは思えぬ」

「あの日のことは触れるな」

 音姫が横から口を挟んだ。

「甲太郎さん、竜宮城の封印庫は安全ですか」

「三重封印、警備亀二十四匹、鍵は竜宮城の主預かりじゃ」

「定期監査に行きます」

「そこまで信用がないのか、わしは」

「千年付き合った結果だろ」

 甲太郎の情けない声が、夕暮れの庭に響いた。拓海はその様子を見ながら、静かに笑った。千年前、逃げるために選んだ道の先に。こんな、ありふれた夕方が待っているとは、思いもしなかった。

「音姫」

「はい」

「これからも、よろしく」

「はい」

「短い時間だけど」

「短くないです」

 音姫は拓海の肩に頭を預けた。

「二人分の時間なので、ちゃんと長いです」

 拓海はその言葉を聞いて、海を見た。昔の自分は、時間さえ過ぎれば面倒なものは全部消えると思っていた。違った。時間は何も消してくれない。だから今は、今日のことを今日のうちに言う。

「音姫」

「はい」

「好きだよ」

 音姫が目を丸くした。

「急ですね」

「今日の分」

「では、私も」

 音姫は拓海の肩に額を寄せた。

「今日も大好きです」

「知ってる」

「明日も言います」

「うん」

「明後日も」

「千年分まとめて言うのは禁止な」

 音姫は笑った。

「拓海くん」

「ん?」

「明日も、一緒に帰りましょう?」

 千年前なら、どう逃げるかを考えた言葉だった。今は、答えに迷わない。

「ああ。一緒に帰ろう」

 歩き出しかけて、拓海はふと庭に置かれた音姫の端末へ目をやった。画面には、甲太郎が来る前に開いていたらしい文書の題名が表示されている。

『緊急時対応手順書・第十八版』

「なあ、音姫」

「はい」

「これ何?」

 音姫の視線が、ほんの少しだけ泳いだ。

「家庭用の非常時対応手順です」

「何の非常時?」

「災害、事故、通信障害、それから……拓海くんが予定時刻を大幅に過ぎても帰宅しない場合など」

 拓海は端末を手に取った。八百四十二ページ。

「長っ!」

「千年分の反省を踏まえて、かなり削りました」

「削ってこれ!?」

 最初のページを開く。第一条。

『本人へ連絡する。返事がない場合も、直ちに交友関係の身辺調査を開始しない』

 拓海は読み上げてから、音姫を見る。

「……一応、進歩はしてるんだな」

「はい。第二条では一時間待ちます」

「短くない?」

「では二時間」

「交渉制なのかよ!」

 音姫は悪びれもせず笑った。千年染みついたものは、全部きれいには消えないらしい。それでも、以前とは違う。怖くなった時に最初から相手を縛るのではなく、まず連絡する。調べる前に待つ。待てなくなったら、怖いと口にする。拓海は深くため息をつき、それから音姫の手を握った。

「八百四十二ページは今度一緒に減らすぞ」

「一緒なら、検討します」

「そこは即答で減らせ!」

 夕暮れの砂浜を、二人分の足跡が並んで続いていった。
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