ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

第15話 四十七の空席


 結婚式の準備で、音姫が最初につまずいたのは招待客の数だった。

「三百十二……いえ、この人を入れるなら三百十三……」

 海辺の小さな式場。窓の向こうには、拓海が千年前に逃げた海が広がっている。テーブルの上には席次表の試作が何枚も散らばり、音姫はその中央で頭を抱えていた。

「会社関係だけでそんなに呼ぶの?」

「違います。私が千年の間にお世話になった方々です」

「生きてる人?」

「ほとんど亡くなっています」

「じゃあ席次表って言うな」

 音姫は真剣だった。拓海の両親。自分の両親。引き取った子供たち。その配偶者。仕事を助けてくれた人。戦争の時に海岸を守るため一緒に残った部下。何百年も前の医師。言葉が変わるたび古い日本語を教えるのを手伝ってくれた研究者。名簿は増える一方だった。

「全員に席を置いたら、海岸が式場になるぞ」

「だから困っているんです」

「誰を呼びたいの?」

 音姫の手が止まった。

「選べません」

「うん」

「誰かを削ったら、その人との時間が軽かったみたいで嫌です」

 拓海は散らばった名簿を一枚ずつ見た。名前の横には短いメモがある。『最初の会社で会計を教えてくれた人』『三百年目、海岸の測量を手伝った人』『五百年目の冬に一緒に雪かきをした家族』。音姫にとっては、どの一行にも人生がある。

「じゃあ、削るのやめよう」

「でも席が」

「席を何のために置くのか決めるんだよ」

 音姫が顔を上げた。

「全員を順位つけて選ぶんじゃない。式に来られない人の中で、ここに『家族の席』を作る。お前が母親になったり、姉になったり、本当に同じ家で暮らした人たち。その人たちは何人?」

 音姫は別の帳面を開いた。数える必要はなかったらしい。

「四十七人です」

「じゃあ、四十七席」

「他の人たちは?」

「名前を消す必要ないだろ。別に名簿を作ろう。花でも写真でも、置き方はいくらでもある」

 音姫は長いこと黙ってから、ぐしゃぐしゃになった席次表を一枚畳んだ。

「四十七……」

「多いな」

「千年ですから」

「その一言で大体説明できるのずるいよな」

 音姫がようやく笑った。

◇

 式の前夜、拓海は誰もいない会場へ一人で来た。海へ向くように、四十七脚の椅子が並んでいる。まだ写真も花も置かれていない。ただ名前札だけが、一脚ずつ座面の上に載っていた。拓海は端から順に名前を読んだ。知らない名前ばかりだった。けれど、音姫の日記で見た人もいる。写真で顔を知っている人もいる。音姫が千年を一人きりで歩かずに済んだのは、この名前の一つ一つが彼女の時間へ入ってくれたからだ。四十七人目まで読み終え、拓海は最初からもう一度読んだ。

「……そこ、読み方違います」

 背後から声がした。拓海が振り返る。扉の隙間から、音姫が顔だけ出している。

「聞いてたのかよ!」

「途中から」

「入ってこいよ」

「邪魔したくなかったので」

「じゃあ訂正だけするな」

 音姫は笑いながら中へ入ってきた。

「何してたんですか」

「明日、名前間違えたら失礼だろ」

「会ったこともないのに?」

「だからだよ」

 音姫の笑顔が少しだけ崩れた。拓海は四十七席を見渡した。

「俺がいなかった間、お前と一緒にいてくれた人たちだから。せめて名前くらい、ちゃんと呼びたい」

 音姫は何も言わなかった。ただ、少し離れた椅子の名前札をまっすぐに直した。

◇

 式当日、海は穏やかだった。秋の風が白い布を揺らし、潮の匂いが花の香りへ混じる。参列者は多くない。拓海の学校からは相沢たちが来ており、音姫の会社からは後継者になった役員と、長く彼女を支えた数人だけが席についている。甲太郎は式を進行する役目を任され、朝から「人前で読む文が長すぎる」と文句を言っていた。生きている参列者の少し横に、海を向く四十七の空席が並んでいた。一脚ごとに、小さな写真か名前札が置かれている。幼いまま亡くなった子。

 音姫より先に白髪だらけになった子。宇宙開拓へ出た子。音楽家になった子。普通の家庭を作り、普通に老いた子。そのうち一つの席には、古い絵の複製が立てかけられていた。海岸を背に立つ若い音姫を描いた絵で、絵の中の彼女は今と同じ顔をしているのに、どこかひどく疲れて見える。

「この絵は?」

 拓海が聞くと、音姫は写真の代わりに絵をそっと撫でた。

「二百年目に引き取った小春という子です。絵を描くのが好きでした」

 小春は幼い頃、紙さえあれば海ばかり描いていた。成長して画家になり、遠い街へ住むようになってからも、毎年一度だけ音姫のいる海岸へ帰ってきたという。

「私が変わらないから、毎年同じ場所に同じ人を描けるのが面白いって」

「音姫をモデルに?」

「はい。最初の頃は下手でした」

「本人に言ったの?」

「言いました。怒られました」

「そりゃそうだ」

 音姫は少し笑った。

「最後に来た年は、杖をついていました。それでも砂浜まで降りて、この絵を完成させたんです」

 絵の隅には、老女の震えた字で短い署名がある。

『来年は、母さんの方が少しくらい歳を取っていますように』

 拓海の視線は、絵の隅の署名から動かなかった。喉の奥が熱くなり、一度だけ息をのみ込む。

「叶わなかったんだな」

「その時は」

 音姫は自分の手を見る。今は細かな傷も残る。白髪も少しずつ増えている。

「でも、今は叶っています」

 少し先の席で、相沢が何の話か分からないまま静かに頭を下げた。会社の後継者も、四十七の席へ視線を向けている。空席は、誰もいない場所ではなかった。そこに座れない人たちの時間を、今いる人たちが想像するための場所になっていた。拓海は一番端の札で足を止めた。

『たくみ』

 自分と同じ名前。

「三百年目に拾った子です。男の子でした。名前を聞かれた時、とっさに」

「俺の名前を?」

「はい」

 写真の中では、十歳ほどの少年が青年になり、家族を持ち、最後には皺だらけの老人になっていた。

「七十二歳まで生きました」

「最期、何て言った?」

 音姫は少しだけ笑った。

「『母さん、俺の名前、誰かの代わりだったんだね』って」

 拓海の喉が詰まった。

「気づいてたのか」

「はい。だから、ごめんなさいと言いました」

「その子は?」

「『いい名前をもらえて、光栄だったよ』って笑ってくれました」

 しばらく波の音だけが聞こえた。拓海はその席の前へしゃがんだ。

「会いたかったな」

「はい」

「俺がいなかった千年の中で、お前と一緒に生きてくれてたんだな」

 音姫は答えず、ただ拓海の手を握った。拓海は残りの席も見渡した。

「ありがとう」

 四十七人全員へ向けて言った。

「俺がいなかった千年、空っぽだったわけじゃなかったんだな」

 音姫は海を見た。

「はい。寂しかったです。でも、空っぽではありませんでした」

 その答えを聞いて、拓海はようやく少しだけ救われた。式の途中、拓海はポケットから古い便箋を取り出した。母から千年越しに受け取った手紙だ。全文を読むつもりはない。最後の一行だけ、もう一度目で追う。

『あなたの人生を生きてください。今度は、逃げずに』

「親父も母さんも、ここにいたら笑うかな」

「お父さまは泣くと思います」

「親父が?」

「結構、涙もろかったです」

「知らなかった」

「お母さまは、たぶん『遅い』って」

「それは音姫と同じだな」

 二人で笑った。

 やがて甲太郎が誓いの言葉を読み上げた。古風な文面を途中で二度噛み、相沢が肩を震わせて笑いを堪えている。

「拓海殿は、音姫様を……死が二人を分かつまで……いや、この場合はもう普通の人間じゃから合っておるのか……とにかく、大切にすると誓うか」

「雑になってるぞ」

「誓うか!」

「誓います」

「音姫様は――これは聞くまでもない気もするが、一応、誓うか」

「誓います。千年前から」

「では、ここからが本題じゃ」

「本題?」

 甲太郎が別の紙を取り出した。音姫の顔が嫌そうに引きつる。

「音姫様。嫉妬した時、勝手に身辺調査を始めぬと誓えるか」

「……誓います」

「位置情報は?」

「本人の許可を取ります」

「連絡が遅くて不安になった時は?」

 音姫は少し考えた。

「検索する前に、本人へ聞きます」

「調べかけた時は?」

「端末を閉じます。それでも怖かったら、怖いと言います」

 参列者から小さな笑いが起きた。

「甲太郎さん、今日だけ少し嫌いです」

「千年付き合った者の務めじゃ」

 次に甲太郎が拓海を見る。

「拓海殿。嫌なことを嫌だと言わず、突然海の底へ逃げぬと誓えるか」

「限定の仕方が具体的すぎるだろ」

「帰宅が遅れる時は?」

「連絡します」

「逃げたくなった時は?」

 拓海は音姫を見る。

「その前に話します」

 音姫の目に涙が浮かぶ。

「泣くなよ。まだ指輪交換してないぞ」

「これは千年分ではなく、今日の分です」

「便利だな、その分類」

 笑いながら交わした誓いは、永遠の愛よりずっと地味だった。けれど二人には、その方が必要だった。好きであることだけでは、誰かを大切にはできない。愛し方を間違えた時に話し直せること。怖くなった時に相手を縛るのではなく、怖いと言えること。逃げたい時に時間へ丸投げせず、自分の口で伝えること。それが、二人が千年かけて覚えた約束だった。指輪を交換する。音姫の指に、小さな光が収まった。

「これ、日記に貼ります」

「指輪を?」

「拓海くんの手の温度も、記録しておきたいので」

「意味わからん記録方法やめろ」

 甲太郎が咳払いした。

「千年を数えるのは、もう終わりにせい。今日からの時間を、二人のものとして数え直すとよい」

 音姫が目を丸くした。

「では、今日が一日目ですね」

「ああ」

「日記を新しくします」

「また増えるのか」

「今度は『待った記録』ではありません」

 音姫は拓海を見る。

「一緒に生きた記録です」

 海風が、四十七の空席と、生きて参列している人々の間を同じように吹き抜けた。千年分の日記を消す必要はない。待った時間も、失った人も、間違えた愛し方も、無かったことにはならない。ただ、その続きはもう「待つ日々」ではない。

 その日、二人の時間はようやく一日目を迎えた。
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