ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~
第2話 千年後で「おかえりなさい」
竜宮城での時間は、拓海が想像していたより快適だった。食事はうまい。部屋は広い。海底なのに風呂まである。何より、誰も拓海の帰宅時刻を把握していない。
「自由だ……」
最初の一週間、拓海は心から自由を満喫した。ところが一か月もすると、妙な感覚が生まれた。静かすぎるのだ。
朝、スマートフォンを見る。当然、圏外。音姫からのメッセージは来ない。
『おはようございます。今日は七時四十二分の電車が空いていますよ』
そんな連絡もない。
『お昼、ちゃんと野菜食べました?』
来ない。
『今、女の人と話してましたよね?』
もちろん来ない。清々するはずだった。なのに時々、画面を見てしまう。
「習慣って怖いな」
ある日、甲太郎が「地上見の間」という部屋へ拓海を連れていった。丸い水鏡の向こうに、地上の景色を映せる場所らしい。
「見たい時代を指定できる。ただし、おぬしの場合は気をつけよ」
「何が?」
「こちらの一日は、向こうでは数年じゃ。昨日のつもりで覗けば、季節どころか町そのものが変わっておる」
拓海は水鏡の前に立った。手を伸ばせば、故郷の海岸が映る。そう思った瞬間、指が止まった。もし母が年を取っていたら。もし父がいなくなっていたら。もし学校が取り壊されていたら。知りたいくせに、知るのが怖かった。
「やめとく」
「よいのか」
「どうせ一年したら戻るんだろ。なら、その時まとめて驚く」
甲太郎は何も言わなかった。拓海は冗談めかして笑い、部屋を出た。扉が閉まったあと、水鏡には誰もいない海岸が映っていた。自室に戻った拓海は、届くはずのない通知欄をもう一度下へ引っ張った。圏外の表示は変わらない。自由は静かだった。静かすぎて、ときどき自分が世界から消えたように感じた。食堂では鯛の姿をした給仕が「おかわりはいかがですか」と尋ね、庭では発光するクラゲが季節代わりの灯籠のように揺れている。面白い。珍しい。退屈もしない。
それでも、誰も拓海の「いつもの」を知らなかった。味噌汁のわかめを最後に食べることも、考え事をすると右の眉を触ることも、テスト前だけ机を片づけ始めることも。知っていたのは、地上に置いてきた人たちだった。そして、その中で一番細かく知っていたのが、よりによって音姫だった。半年が過ぎた頃には、拓海は地上へ戻る準備を始めた。竜宮城には、地上の未来に適応するための教育設備があった。甲太郎曰く、昔から「帰ったら時代が変わりすぎて生活できない」という苦情が多かったらしい。
「浦島太郎対策かよ」
「顧客満足度は大切じゃ」
「竜宮城に顧客って概念あるんだな」
未来の言語。授業は想像以上に容赦がなかった。千年後の共通語は、拓海の日本語を基礎にしてはいるものの、発音も語彙もかなり変わっている。端末の操作は手ではなく視線と指先の微細な動きが中心で、最初の一週間は照明をつけるだけで三回誤作動させた。
「未来人、生活難易度上げすぎだろ」
「未来人からすれば、おぬしが不器用なだけじゃ」
「亀に言われたくない」
歴史の授業だけは、途中から拓海の口数が減った。自分が生きていた時代が「古典情報時代」として教材の一章にまとめられている。知っている国名が消え、知らない戦争が起こり、海岸線が変わり、宇宙に都市ができる。年表の数字が進むほど、家族や友人が存在した時間が左端へ追いやられていった。千年という数字が、少しずつ人の顔を持ちはじめた。それでも拓海は、帰還をやめなかった。今さら怖くなったからといって、竜宮城に永遠に隠れる方がもっと怖かった。貨幣。交通。身分証明。端末操作。
拓海は一年分の学習を詰め込んだ。そして地上時間で千年が経過する直前。甲太郎から小さな箱を渡された。漆黒の木箱。表面には波と月の模様。
「玉手箱じゃ」
「本当にあるんだ」
「地上へ戻るまで開けてはならぬ」
「地上に着いたら?」
甲太郎は少し迷った。
「……必要な時まで、大切に持っておけ」
妙な言い方だった。だが拓海は深く考えなかった。千年後。それだけで頭がいっぱいだった。甲太郎の背に乗り、海面を目指す。光が強くなる。次の瞬間、潮風が頬を打った。
「……帰ってきた」
だが、そこは拓海の知っている海岸ではなかった。水平線の向こうに、巨大な塔が浮かんでいる。空には音もなく飛ぶ乗り物。道路は淡い光を帯び、人々の服装も微妙に違う。海岸線そのものが埋め立てられ、かつて学校があった方向には雲に届きそうな建造物が並んでいた。拓海は足を止めた。知っているものを探して視線をさまよわせても、どこにも引っかからない。喉の奥が乾いて、声が出るまで少し時間がかかった。
「本当に……千年なんだな」
拓海は反射的にポケットへ手を入れた。千年前のスマートフォンがある。竜宮城で何度も充電してもらった、傷だらけの端末。画面をつける。日付表示は、最後に地上で使った日のままだった。壁紙には、家の近所で撮った夕焼け。たった一年しか古くなっていない端末の向こう側で、世界だけが千年先へ行ってしまった。
「ただいま」
誰にともなく呟いた。返事はない。その沈黙が、竜宮城の静けさよりずっと重かった。胸の奥に、予想していなかった感情が湧いた。自分の家はない。学校もない。友人もいない。父も母も。知っている人間は、誰一人として。
「……そっか」
自分で選んだことだ。分かっていたはずだった。なのに実際に目の前からすべてが消えてみると、千年という数字が初めて重さを持った。甲太郎が隣で黙っている。拓海は無理に笑った。
「まあ、仕方ない。ここから新しい人生だ」
「拓海殿」
「なんだよ」
「その……」
「今さら説教ならやめてくれ。俺が決めたんだから」
「いや、そうではなく」
甲太郎の視線が、拓海の背後へ向いた。
「……わしは、先に帰ってもよいか?」
「なんで急に」
「きゅ、急用を思い出した」
「亀の急用って何だよ」
甲太郎は答えなかった。そのまま海へ飛び込んだ。
「おい!」
逃げた。明らかに逃げた。嫌な予感がした。そのとき。
「拓海くん」
一年経っても、絶対に聞き間違えない声だった。拓海の全身が固まる。ゆっくり振り返る。制服ではない。白いワンピースに薄い上着。髪型も少し違う。けれど顔は。あの日と、何一つ変わっていなかった。音姫が立っていた。微笑んでいた。目には涙が浮かんでいた。
「おかえりなさい」
その言葉は、未来都市の騒音を一瞬だけ遠ざけた。拓海にとっては一年ぶりの声だった。音姫にとっては千年ぶりに本人へ届いた言葉だった。彼女は笑っていた。けれど、完璧ではなかった。口元はいつもの形なのに、呼吸が浅く、握った両手の爪が掌へ食い込んでいる。「おかえりなさい」と言い終えたあと、音姫はようやく息を吐くように肩を落とした。その仕草が、拓海には妙に引っかかった。拓海は口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「……なんで?」
「はい?」
「なんでいるんだよ!」
未来人たちが振り返った。音姫は涙を拭いながら、少し困ったように首を傾げる。
「待っていたからです」
「千年だぞ!?」
「はい」
「人間の寿命って知ってる!?」
「もちろん」
「じゃあなんで!」
音姫は、ごく普通のことを報告するように言った。
「人魚を食べました」
拓海の思考が止まった。
「……は?」
「正確には、人魚の肉を少量」
「いや量の問題じゃない!」
「不老不死になれるという伝承が本当か、最初は半信半疑だったんですけど」
「試すな!」
「成功しました」
「成功って言うな!」
音姫は嬉しそうだった。
「拓海くんが千年後に帰ってくるなら、私も千年待てばいいだけでしょう?」
「だけ、で済ませる時間じゃない!」
「大丈夫です」
「何が!」
「待つのは得意になりました」
その一言だけ、笑顔が少し揺れた。軽い調子のままなのに、その目だけが笑いきれていない。拓海は反射的に何か返そうとして、やめた。自分にとっては一年だった時間を、目の前の少女は千年と呼んでいる。その差をどう受け取ればいいのか、今の拓海にはまだうまく形にできなかった。音姫は一歩近づく。
「千年ぶりですね」
「俺は一年しか経ってない」
「私は千年です」
「その圧やめろ」
音姫は袖を掴んだまま、すぐには歩き出さなかった。
「拓海くん」
「何」
「このまま、私の家へ来てもらってもいいですか」
「お前の家?」
「はい。見せたいものがあります。でも、嫌なら今日はやめます」
拓海は少し驚いた。千年前の音姫なら、「来ますよね」と結論から決めていたはずだ。今は、拓海の答えを待っている。
「……行く」
「本当に?」
「本当。聞きたいことも山ほどあるし」
音姫の指先がわずかに緩んだ。
「ただし、嫌になったら俺が言う。勝手に大丈夫だって決めるな」
「はい」
「俺も黙って逃げない」
音姫は一瞬、目を見開いた。そのあと、袖を掴んでいた手を一度離した。逃げないと決めるだけでは足りない。音姫にも、追わずに待つ練習が必要なのだ。二人とも、普通の距離の取り方を知らなかった。
「では、改めて」
音姫は、今度は袖の端をそっとつまんだ。昔と同じ仕草なのに、力は入っていなかった。
「一緒に来てくれますか」
「……行くよ」
音姫の顔が、ようやくほどけた。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、拓海はなぜか少しだけ安心した。