ヤンデレ浦島太郎 ~逃げた俺と、待っていた彼女~

第3話 千年間、あなたの帰る場所を作っていました


 音姫に連れて行かれたのは、未来都市の中心に建つ超高層住宅だった。最上階。しかも一部屋ではない。

「ここからここまで、全部です」

「フロア全部!?」

「はい」

「家賃どうなってんだ」

「持ち物なので家賃はありません」

「誰の」

「私たちの」

「さらっと共同財産にするな!」

 音姫は千年の間に、とんでもない資産家になっていた。

「待ってるだけで、なんで宇宙開発企業まで持つことになるんだよ」

「待つにもお金が必要だったので」

 最初の目的は単純だった。拓海が戻る海岸を誰にも奪われないこと。土地を買い、周辺も買い、海岸線の権利を守るため会社を作った。会社を守るため別の事業へ投資し、時代が変わるたび新しい技術を学んだ。

「途中から目的変わってない?」

「変わっていません。全部、拓海くんが帰ってきた時に困らないためです」

「俺一人の帰宅対策が経済圏になってるんだけど」

 音姫は首を傾げた。

「千年あれば、準備は念入りにできますから」

 その言葉の規模だけが、拓海の知っている幼なじみから完全に逸脱していた。最初は小さな薬種商。そこで資金を作り、やがて海岸を守るための不動産管理へ手を広げた。次に海運。時代が変われば電力。通信。宇宙開発。会社名は何度も変わったが、音姫は表舞台に出ず、戸籍と名義を定期的に変えながら資産を継承してきたらしい。

「千年あれば複利って怖いですね」

「お前が言うと洒落にならない」

 室内には拓海のための服。好物。ゲーム。本。未来の生活用品。さらには、千年前に残された通信バックアップから、拓海の当時のスマートフォン環境を再現する装置まであった。

「これ……」

 画面に、昔のホーム画面が表示された。父からのメッセージ。母からの着信履歴。友人とのくだらないやり取り。そして音姫からの大量の通知。拓海は笑いそうになって、笑えなかった。

「全部、保存してたのか」

「はい」

「どうやって」

「ご両親から、家に残っていた旧端末やバックアップを譲っていただきました」

 胸を殴られたような感覚がした。

「……会ったのか。親に」

「はい」

 音姫の声が小さくなる。

「何年も、何年も」

 拓海は何も言えなかった。音姫は棚から古びた写真を一枚取り出した。拓海の両親。二人とも年老いている。その間に立つ音姫だけが、高校生の姿のままだ。

「お父さまは九十二歳。お母さまは九十五歳まで生きました」

「……そうか」

「最後まで、拓海くんが帰ってくる可能性を信じていました」

 音姫は写真の裏側を指で撫でた。

「お母さまは、毎年あなたの誕生日にケーキを買っていました」

「毎年?」

「はい。最初の十年くらいは、ちゃんと大きいものを」

 音姫は少しだけ笑った。

「二十年を越えた頃から、小さいケーキになりました。二人では食べきれないからって」

 拓海は写真から目を離せなかった。

「お前もいたの?」

「呼んでいただきました」

「俺の誕生日に?」

「あなたが帰ってきた時、何歳の誕生日を祝えばいいのか分からないねって、三人で笑いました」

 笑える話のはずなのに、拓海の喉は詰まった。音姫は別の引き出しから、封筒を一通取り出した。紙は黄ばんでいる。何重もの保存膜に包まれ、千年の時間から守られていた。宛名には、見慣れた母の字で『拓海へ』とある。

「これは?」

「お母さまから預かりました。『あの子が帰ってきたら渡して』と」

 指が動かなかった。

「開けていいのか」

「あなたのものです」

 封を切る。中には便箋が二枚だけ。母は長いことを書いていなかった。

『拓海へ。帰ってきた時、私たちがいなくても、ごめんなさいと言わなくていいです。あなたが無事なら、それでいいです』

 一度、文字が滲んだ。

『ただ、帰ってきたら音姫ちゃんにちゃんとお礼を言いなさい。あの子は、あなたがいなくなってからもずっと私たちの家族でいてくれました』

 拓海はそこで読むのを止めた。息を吸っても、胸の奥まで入ってこない。

「ずるいだろ、これ」

「何がですか」

「死んだ後にこんなこと言われたら、反論できない」

 音姫は何も言わなかった。最後の一行を読む。

『あなたの人生を生きてください。今度は、逃げずに』

 拓海は便箋を顔に押し当てた。泣くつもりはなかった。千年遅れの叱り方は、あまりにも母親らしかった。拓海は写真を受け取った。指が震えた。自分は逃げた。音姫から。そのために竜宮城へ行った。軽い気持ちで「千年後なら最高」と言った。その選択の向こう側で、両親は息子の帰りを待って老いた。

「俺、最低だな」

「違います」

「違わないだろ」

「拓海くんは、頭では分かっていても、千年という時間を実感できていなかっただけです」

「それで許されるかよ」

「少なくとも」

 音姫は拓海の隣に座った。

「お父さまとお母さまは、あなたを恨んでいませんでした」

「お前は?」

 思わず聞いた。音姫が瞬きをする。

「何がですか」

「俺を恨んだ?」

 一秒。二秒。音姫は笑おうとした。けれど、拓海が「笑わなくていい」と言うと、その表情は途中で止まった。

「その質問は、まだ答えたくありません」

「そっか」

「ごめんなさい」

「いや」

 その答えだけで十分だった。恨まなかったはずがない。千年という時間を、本当に人間として過ごしたのなら。拓海は初めて、音姫の「待っていました」という言葉の中に、愛情だけではないものがあると知った。寂しさも、怒りも、後悔も。それでも最後に残ったのが「待つ」だったのだ。しばらく沈黙が続いた。

 やがて拓海は、部屋の奥にある扉に気づいた。

「あそこ何?」

 音姫の肩がわずかに揺れる。

「倉庫です」

「怪しい」

「普通の倉庫です」

「お前が普通って言うと怪しい」

 開けた。壁一面に本棚が並んでいた。分厚い冊子が、年代順に何千冊も。背表紙には年号。

『一年目』

『二年目』

『三年目』

 途中から西暦ではない時代名になり、また別の暦になり、最終的には未来の統一暦へ変わっている。

「……何これ」

「日記です」

「全部?」

「全部」

 拓海は一冊を抜いた。一日目。

『拓海くんがいなくなりました。明日には帰ってくると思います』

 三十日目。

『まだ帰ってきません。少し心配です』

 一年目。

『竜宮城では地上と時間が違うそうです。待ちます』

 十年目。

『拓海くんのお母さまに、そろそろ自分の人生を生きなさいと言われました。意味が分かりません。私は自分の人生を生きています。拓海くんを待つのが、私の人生です』

 五十七年目。その少し後の冊子には、拓海の母についての記録が続いていた。九十五歳になった母は、最後の冬、音姫の膝に頭を預けていたらしい。

『音姫ちゃん』

『はい』

『拓海が帰ってきたらね』

『はい』

『あんまり責めすぎないであげて』

『……約束できません』

『ふふ。そうよね』

 老いた母は笑った。

『でも、あなたも自分を責めないで』

 音姫の日記には、その時の返事が書かれていなかった。

 翌日のページ。

『お母さまが亡くなりました。今日から、拓海くんを知っている家族は私だけです』

 拓海は、その一文を何度も読み返した。家族。音姫はいつの間にか、自分の両親にとって本当にそういう存在になっていた。そして両親がいなくなったあとも、家の鍵と写真と墓を引き受けた。待つ相手の家族まで見送って、それでも待つ。その異常さと優しさを、もう「重い」の一言では片づけられなかった。

『今日は拓海くんのお父さまの葬儀でした』

 そのページには、いつもより細かな記録が残されていた。黒い喪服を着た音姫が、九十二歳になった拓海の父の隣で撮った最後の写真。写真の中の老人は、音姫の手を握って笑っている。日記には会話まで書かれていた。

『音姫ちゃん、あいつが帰ってきたら、怒ってやってくれ』

『私がですか』

『俺たちの分までな』

『私は、たぶん泣いてしまいます』

『じゃあ、泣いたあとで怒ればいい』

 その翌日の記述。

『お父さまが亡くなりました。拓海くん。私は約束したので、帰ってきたら怒ります。でもたぶん、先に泣きます』

 拓海はページの端を掴んだまま、しばらく動けなかった。千年後の自分が読むことなど、誰も保証できなかった文章。それでも音姫は、伝言を途切れさせなかった。拓海は本を閉じた。

「もういい」

 音姫は黙っている。

「これ、全部……俺のこと?」

「全部ではありません」

「よかった」

「七割くらいです」

「全然よくない」

 思わずツッコんだ。音姫が小さく笑った。その笑顔を見て、拓海も少しだけ笑った。だが日記の棚の向こうに、もう一つの部屋があった。そこには、拓海の肖像画が並んでいた。百年前。二百年前。三百年前。時代ごとの画材と技法で、同じ十七歳の拓海が描かれている。

「怖っ!」

「練習していたら上手になりました」

「千年間俺の顔描いてたの!?」

「忘れたくなかったので」

 その横には、小さな木箱が一つだけ置かれていた。中にあったのは、色褪せた折り紙の亀だった。

「亀の甲太郎さんを真似て作りました。寂しい時、話し相手が欲しくて」

「紙だぞ」

「返事はしません。でも、名前を呼べたので」

 拓海は、それ以上は聞かなかった。肖像画の向こうには、まだ開けていない箱や記録がいくつも残っていた。拓海は手を伸ばしかけて、やめた。今日はもう、十分だった。千年という時間を、少し分かったつもりになっていた。けれど拓海が触れたのは、まだ入口にすぎなかった。部屋を出ようと思えば、出られた。音姫は鍵をかけてもいない。千年前の拓海なら、その事実に安心して、逃げ道の位置だけ確認していただろう。けれど今は、玄関ではなく音姫を見た。

「明日、どこか案内してくれ」

 音姫が目を丸くした。

「……はい」

 それは拓海が千年後の世界で初めて、自分から選んだ「明日」だった。
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