あのころの風景 ~ September Blue

2. 必然の想い


2. 必然の想い

 初めて見る異国の、仏蘭西の風景と鮮やかな色彩は私の琴線に触れていた。

 最初に訪れたのは、ありきたりだけどモンマルトルの丘だった。細い路地や階段が入り組む、ノスタルジックな情緒あふれる街を見たかったからだ。

 似顔絵や風景画を描いている画家たちの間をすり抜け、小さな雑貨店などを覗きながらクレパスで色付けたような古き良きパリの眺望を満喫し、サクレ・クール寺院の階段を登ろうとしたときだった。

「綺麗な黒髪ですね。とても素敵だ」

 日本語でそう声を掛けられた。ふいに声がしたほうを向くと、私を見て驚いたような表情を浮かべたあなたに又、出逢った。

 それは初めて見る彼の顔だった。
 驚いた表情のあとに見せた照れと戸惑いの混じったような表情。
 でも私は彼よりも不思議そうな顔をしていただろう。

 彼は懐かしそうな眼差しと曖昧な笑みを浮かべ、あの美しく細く長い指をそっと私へと伸ばした。
「ほんとうにキレイな髪と瞳だね。一度……、撮らせてくれないかな」

 そんな言葉を躊躇いがちに呟いた彼は、風になびく私の髪を梳くようにその指を、音を奏でるように青い空に向けた。あの時と同じように。

 二度目の出逢いも九月の青い風の中。そう、この出逢いは必然だった。
 そんな不思議な感覚と思いが残った。また、何処かで逢えたらいいね、の言葉は現実となっていた。



 この日を境に私たちの距離は一気に縮まり、お互いのアパートメントを行き来するようになった。
 彼の1LDKのアパートメントは五階建て。一階には雑貨店がテナントとして入居しており、クロワッサン通りに面していた。古い建物だったが広く整理整頓された彼の部屋は居心地が良かった。

 私のアパートメントはサンティエ通りにあった。小さな生地店が入居している1LDKの陽当たりがあまり良くないアパートメントで、治安も良いとは言い難かった。ただ、両隣に住む住人は同じ留学生同士の気さくな女性だったから、いつしか彼女たちとの関係は深まっていった。

 異国での一人暮らし。言葉も風習も違う環境の中、顔見知り程度だったとはいえ母国語で会話が出来、尚且つ年齢も同じだったことは有難かった。
 私たちは頻繁に互いのアパートメントを訪れ、小さなキッチンで一緒に日本食を作り、お隣の住人と祖国の料理の食べ比べなども楽しんだ。

 街のざわめき、人々の会話は仏蘭西語に英語。生活をする上での日常は全て日本とは違った。アパートメントに彼と一緒にいるときだけが寛げる静かな日常だった。

 そんな思いもあってか、性は違うけれどお互いの内面を曝け出すことに時間はそう掛からなかった。
 きっと、異国で生活をするうえでの寂しさや不安を、私は彼の存在で紛らわしたかったのかも知れない。
 でも、そんなふうに思うことより、私の中で彼の存在は日に日に大きくなっていったのだ。

 しばらくの間、私たちの話は尽きなかった。高校を卒業してから何をしていたのか。お互い、どうして仏蘭西に来たのか。今は何をしているのか。どんな生活を送っているのか。将来、どうなりたいのか。夢はあるのか。私の生い立ち、彼の生い立ち。さまざまなことを語り合った。時間が経つのを忘れるくらいに……。

 そう、魂の半分が惹かれあうようにいつしか私たちの心は繋がっていた。

 そんな想いを胸に私は幾つかの作品を描いた。彼の存在が色彩の中で息付くように。私たちがサクレ・クール寺院の階段で出逢ったこと。


 それは必ずそうなることが当たり前だったように、それよりほかになりようのないことは明らかだった。
 

 モンマルトルの丘が幾度かの模様替えを繰り返したころ、私は留学期間を終えて日本へ帰ることになった。
 時を同じくして彼もまた、新しく創造される世界をフィルムに収めるため異国の地へと旅立つことになった。

 その日のシャルル・ド・ゴール空港、ロワシーの地は旅立つ私たちを見送るように青い風が吹き渡っていた。 空港の第一ターミナルで私たちは別れを惜しんだ。二人で笑い、語り合った日々が走馬灯のように甦る。まるで魂の半分が何処かへと消えていくような思いがあった。

 私が東京、羽田へ向かうANAのチェックインカウンターへ歩きはじめたとき、彼が私を背後から抱きしめた。まるで恋人同士のように。

 初めて抱き締められ、感極まった私は彼の腕の中を泳ぐように振り向き、その唇に自分の唇を重ねた。
 初めてのキス。初めて触れた彼の体の一部。ときめき、恥じらい、切なさと辛さが混ざり合う初めてのキス。
 抱き締められた腕から離れるとき、彼が小さく呟いた。

「また、必ず何処かで逢える。あのときと同じように。それまで元気で」と。

 彼はその一言だけを私に残し、連絡先さえ教えてくれなかった。
 もしかしたら永遠の別離になるかもしれないのだと気付いた私は、人目を憚ることなく涙を流していた。
 そう、心の奥底でいつの間にか私は彼を愛していたのだ。



 あれから十年という歳月が流れた。

 お互いに出逢えないまま、何時しか私は三十路を過ぎていた。変わり映えしない、いつもの風景は平々凡々な幸せでもあった。

 この年月の間、私は有難いことに幾つかの賞をいただき、それなりの名誉と地位、収入を得ていた。
 しかし、どれだけ褒め称えられようと、どれだけ作画にのめり込もうとも、どれだけ異性から言い寄られようと、心の底から嬉しい、楽しいと思えるようなことはなかった。

 常に忘れられない彼が心の片隅にいたからだ。

 あのモンマルトルの丘を描いた自分の作品を見るたびに、彼が私にくれた作品のひとつでもあるモンマルトルの丘からパリの眺望をフィルムに収めたパネル写真を見るたびに、懐かしさと一度だけのキスの感触を思い出すことが出来た。

 魂が繋がっている私と彼の作品。油絵と写真の違いはあれど、ふたつでひとつの対の作品。この対の作品を見るたびに、ときめき、恥じらい、切なさと辛さといったあの時の、あのころの風景が幾つのもの色に塗られて甦る。信頼と絆で結ばれていた、かけがえのない私たち二人の時間。

 そして彼が残した「また、必ず何処かで逢える」という言葉を胸の奥に仕舞い、信じていた。
 そんな想いを抱き締めながら、幾つもの夜を超える日々を過ごした。


 
 ある日、懇意にしている画廊のオーナーから、なかなかいい作品を展示していると噂になっているから行ってごらんよと、とあるギャラリーの招待チケットをプレゼントされた。

「風景寫眞」と銘打たれたその作品展に何故か心惹かれた。
 もしかして……との考えが脳裏を過ぎったのだが、チケットに彼の名は印刷されていなかった。

 今、何処でどんな作品を撮っているのだろう。

 彼は取り分け風景写真を好んで撮っていた。
 降り注ぐ光や風、空に雲、まばゆい陽光に季節ごとに模様替えを繰り返す木々などを何時間も見つめ、自分の思い描いた色になったとき、それをフィルムに収めていた。

 私は時折、彼の一眼レフカメラのファインダーを覗いて思っていた。どうしてこの街が、この色彩がファインダー越しに覗くだけでこんなに光溢れる、色鮮やかな風景になるのだろうと。

 彼は彼で、どうして絵具でこんな色を出せるの。ほんとうに油絵って不思議な色を表現出来るんだね、と首を傾げていた。



そんなことを思い出しながら、私はそのギャラリーへと足を運んだのだった。


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