神の手と呼ばれた私は、今日も旦那様を寝落ちさせたい ~極上ヘッドスパで癒していたら、旦那様が極上スパダリに進化しました~
 シエラがアルベルトの書斎へ呼ばれたのは、朝食を終えて間もなくのことだった。

 扉を開けて中へ入ると、アルベルトだけでなく、ベアトリスとエリザも揃っていた。
 三人の姿を認めた瞬間、胸の奥がざわつく。シエラは数歩だけ室内へ進み、扉の傍で足を止めた。

 「この度、我がカーティス家はミューゼル公爵家との婚姻を結ぶことになった」

 執務机の向こうから、アルベルトが淡々と告げた。

 「ミューゼルって……“あの”屍人公爵の!?」

 真っ先に声を上げたのはエリザだった。

 ミューゼル公爵家。
 その名を知らない者は、アルセリア王国にはほとんどいない。

 およそ百年前、アルセリア王国は隣接する魔国から流れ込む瘴気と魔族の脅威によって、滅亡寸前まで追い詰められたとされている。
 その危機から国を救ったのが、大魔術師ギデオン・ミューゼルだった。

 伝承によれば、ギデオンは国土全体を覆う巨大な浄化結界――清浄の天蓋(せいじょうのてんがい)を築き、人々に平穏を取り戻したという。
 その功績によってミューゼル家は公爵位を与えられ、以降も多くの優れた魔術師を輩出してきた。

 しかしその一方で、ミューゼル家には昔から不吉な噂がつきまとっていた。
 歴代当主の多くが心身を病み、若くして命を落としているのだ。中には正気を失い、自ら死を選んだ者もいたという。
 そのため、偉大な魔術師の血筋でありながら、いつしか人々からは“呪われた家系”とも囁かれるようになっていた。

 それでも、清浄の天蓋は今なおアルセリア王国を覆い、瘴気や魔物の脅威から人々を守っている。
 ただし、ギデオンがたった一人でこれほど巨大な結界を築いたという逸話については、後世に誇張された英雄譚ではないかと疑う者も少なくなかった。


 そして、その疑いをいっそう強めているのが、現当主であるテオドア・ミューゼルだった。
 二十四歳になる彼は、長身でありながらひどく痩せていた。頬はこけ、肌は血の気を失ったように青白い。
 魔術師として認められてはいるものの、使うのは初級魔術ばかりで、偉大な魔術師の血を引く公爵としてはあまりにも頼りないと陰で嘲る者もいた。

 いつしか彼には、ひとつの蔑称までついていた。
 それが――屍人公爵。

 「そんな……私は絶対に嫌よ!」

 エリザは青ざめた顔で首を振った。

 「いくら公爵家だって、あんな死人みたいな男に嫁ぐなんて! 私まで呪われたらどうするのよ!?」
 「落ち着け、エリザ」
 「落ち着けるわけないでしょう!?」

 エリザは身を乗り出すようにして、アルベルトへ詰め寄った。

 「私は魔力調律を持っているのよ? もっと相応しい殿方を選べるわ!」

 もっとも、エリザがそこまで嫌がるのも無理はなかった。
 テオドアの病的な容貌は幼い頃から続き、年を重ねるごとに悪化しているという。その原因さえ分からないことが、彼をいっそう不気味な存在に見せていた。

 とはいえ、ミューゼル公爵家は王国でも有数の名門だ。
 たとえ魔術師としての才に恵まれていないとしても、王家がその当主を放っておくわけにはいかないのだろう。

 そこで婚姻相手として選ばれたのが、魔力調律を持つ娘のいるカーティス伯爵家だった。
 正式な要請には、『カーティス伯爵家の令嬢を、ミューゼル公爵の妻として迎えたい』とだけ記されていた。

 エリザの名はない。
 それでも、テオドアの不調を考えれば、王家が想定しているのは魔力調律を持つエリザだと誰もが受け取った。

 「この私が、“屍人公爵”なんかのために人生を使わなくちゃいけないなんて、絶対に嫌!」
 「そうですわ」

 ベアトリスも当然のように同意した。

 「エリザほどの才能を持つ娘ですもの。もっと将来のあるお相手との縁談に恵まれるはずです」

 アルベルトはすぐには答えなかった。
 今やエリザの魔力調律は、カーティス家にとって大きな価値を持っている。
 その力を求める魔術師は少なくなく、いずれはより有力な家との縁をもたらす可能性もある。

 アルベルトが、その価値を手放したくないと考えていることくらい、シエラにも分かった。
 しばしの沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。

 「……王家が求めているのは、あくまで“カーティス伯爵家の令嬢”だ」

 その瞬間、アルベルトの視線がシエラへ向く。
 続いて、ベアトリスとエリザもこちらを見た。

 「……え」

 嫌な予感が、はっきりと形を持った。

 「シエラ」
 「……はい」
 「お前がミューゼル公爵へ嫁げ」

 シエラは目を見開いた。

 「私、が……?」
 「異論は認めん」

 答えは、それだけだった。
 ベアトリスは驚く様子すら見せなかった。むしろ、それが当然の結論であるかのようにシエラを見る。

 「ようやく、あなたもこの家の役に立てるわね」

 先ほどまで青ざめていたエリザも、ほっとしたように息をついた。

 「よかったじゃない、お姉様。公爵夫人になれるのよ?」

 その声には、自分が嫁がずに済んだ安堵が滲んでいた。
 アルベルトは、シエラの意思など初めから必要としていないようだった。

 「エリザの代わりになれるだけでも、ありがたいと思え」

 これでは、まるで生贄だ。
 誰もに求められるエリザを守るために、シエラがその身代わりとして差し出される。

 けれど、それは今に始まったことではなかった。
 エリザが欲しがったものを譲り、エリザが嫌がるものを引き受ける。
 ずっと、そうして生きてきた。
 だから今回も、何も変わらない。

 それの同時に、ごく小さな感情が芽生えていることに気づいた。

 (……この家を、出られる)

 その先に何が待っているのかは分からない。
 誰もが恐れる屍人公爵との結婚だ。幸せな未来など期待できないと分かっているのに。

 それでも、ここではない場所へ行ける。
 それは、希望とも呼べないほど淡い期待だった。
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