呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません

第十話 恋というもの

 恋とは楽しいものだと、いつだったか誰かがそう言っていたけれど。息を潜め、組んだ腕の中に顔を埋めながらフィオナは思う。恋はいつだって辛いものだ。辛く寂しい、悲しいもの。

 確かに幸福を感じる瞬間がないわけではないけれど。笑いかけてくれた時、楽しくお喋りをした時、手作りのお菓子を食べてくれた時――そのひとときは、確かに幸せだった。幸せが胸いっぱいに溢れ、でもそれはすぐに、心を締め付けるような切なさに変わる。どんなに傍にいても、どんなに笑い合っていても、どんなに愛し合っていても。しかしその先が存在することは、決してないのだから。

 その上彼は――。薔薇の甘く優雅な芳香に紛れ、淑やかな笑い声が春風に運ばれてくるのを聞きながら、フィオナは唇を噛み締め、もっともっとと顔を埋める。耳まですっぽり隠れてしまうくらい奥に。そうしないと、心がぐちゃぐちゃに醜く歪んで、爆発してしまいそうだった。

 分かっている――分かっているはずなのに。彼は王太子であり、この国の未来を背負う若き太陽であることなんて、重々分かっているはずなのに。いつもラフな格好で、飄々とやって来てはのんびりと寛ぎ、まるで“普通の人”のように過ごす彼は、しかし一国の王太子であることに違いはない。まるで子どものように無邪気に笑ったり、時には悪戯――だいたい標的はアレン――をしたり、森の入口に立つ看板を面白がったり、小川に入って小魚を捕まえようとしたりしていても。それでも彼は、とても立派な、この国で最も尊い人間なのだ。王都の外れの森に棲む一介の魔女なんかとは、まるで比べ物にならないほど身分の高い人。

 だからはじめから、親しくなるべきではなかったのだ。依頼は仕方なかったとしても、薬を用意し、問題が解決されたその時にはもう、関係を断っていればよかった。フィオナのことなどまるで考えず、様々な用事を繕っては――今では殆どないけれど――足繁く通ってくる彼を、問答無用で門前払いしておけば、深入りすることなく、余計な感情を抱くことはなかったはずだ。分かっていた。そんなことは分かっていた。理解してもいた。けれど、

 ――ここは居心地が良いんだ。

 あのアイスブルーの瞳にやさしく見つめられると、あたたかな微笑みを向けられると、どうしてもそうすることが出来なくなる。せめぎ合う理性と感情が、あっという間に一方へ――もちろん感情の方へ――傾いてしまうのだ。だから彼を追い返すことが出来ないし、拒むことも出来ない。そうすればそうするほ苦しみは増してゆくだけだと、本能が――或いは過去の記憶が――必死に警鐘を鳴らしているにもかかわらず。だからある意味で、“恋”とは恐ろしいものだとフィオナは思う。結ばれることもなければ、万が一奇跡的にそうなったとしても、どちらにしろ未来はないと知っているのに。それでも“今”に縋って、それに甘えてしまっている。分かっているくせに。理解しているくせに。“どうなるか”を、身を以て知っているくせに。それでも、それでも――。

 ――触れられないというのは、実に苦しいものだな。

 彼のことを、嫌いになれない。彼のことを、突き放すことが出来ない。好きになってしまったから。愛してしまったから。どうしようもないほど、心の底から。もう二度と恋なんてしないと思っていたはずなのに。もう二度と誰かを愛したりなんかしないと思っていたのに。もう二度と大切な人なんて作らないと誓いすらしたのに。

 彼の頭の中から記憶を消し去るのが一番よいのだと分かっていても、彼の記憶の中から、思い出の中から消えてしまうのが、たまらなく怖い。消えたくない。いなくなりたくなんかない。あのアイスブルーの瞳でいつまでも見つめていてほしい。あのあたたかな微笑みをいつまでも向けていてほしい。たとえ想いが届かないのだとしても。彼の中に同じ想いがなくとも。

 彼の中にいたい。でも、彼の中から消えてしまう方がよい。いつもそのせめぎ合いだった。全く正反対の考えが、感情が、いつも心の中でぶつかり合っている。見つめられると拒めなくなるのに、一人になると消してしまいたくなる。何もかもがぐちゃぐちゃだった。だから尚の事、この恋はとても苦しい。苦しくて、そして何にも――

「フィオナ嬢?」

 唐突に頭上から落ちてきた声に、フィオナはハッとして、慌てて顔を上げる。いつの間に傍まで歩み寄っていたのか、そこには騎士団の制服に身を包んだアレンが立っていた。そんな彼は、フィオナの顔を見るや否や、ぎょっとした顔で目を見開かす。

「ど、どうなさったんですか!?」
「え?」

 ズボンのポケットからハンカチを取り出し、アレンはフィオナと目線の高さを合わせるように腰を屈めてからそれを差し出した。理由がわからず、フィオナはただ呆然としながら、真っ白いハンカチとアレンの顔を交互に見遣る。けれどもその瞬間に、ぽろり、と何かが頰を滑り落ちる感覚がして、フィオナはそこで漸く自身が泣いていることに気が付いた。

「す、すみませんっ! あ、あの……これはべつに、その……」

 うまい言い訳がすぐに見つけられず、尻すぼみになった声はやがて消え、フィオナは口籠る。そんな彼女から目だけを逸らし、ちら、と中庭を盗み見たアレンは、やがて深々と――呆れのたっぷり滲んだ――溜息を吐き出して、それからやさしくフィオナへ微笑みかけた。

「ご安心下さい。あれはまあ、なんというか、役目みたいなものですから」
「役目……?」

 フィオナの問いに、アレンはただにっこりと笑みを深めながら頷くだけで、意味を答えてくれることはしなかった。

「ここだと他の人が通るので、お部屋へご案内します。……立てますか?」

 本当は手を差し出そうとしたのだろう。一瞬だけ動き、けれどもすぐに引っ込められた右手を視界の端に捉え、フィオナは申し訳なく思いながら苦笑をこぼす。御者とは違い、アレンには友人に近しい感覚がある。もちろん騎士団の若き天才であり王太子の従者である彼を“友人”などと称すには、あまりにもおこがましすぎるけれど。それでも身近な存在だと感じている。一緒にお茶を飲み、一緒にお菓子を食べ、出奔癖のある主人の愚痴を呆れながら――でもちょっと楽しそうに――話したりする、ちょっとだけ近い仲。けれどそんな彼にたとえ触れても、アレンの中からフィオナの記憶が消えることはない。アレンはそれを知っている。知っているけれど、だからこそ気を遣ってくれているのかもしれなかった。

「ええ、大丈夫です。すみません、こんなお見苦しいところを……」

 急いで立ち上がり、フィオナはスカートに付いた汚れを片手で叩く。

「僕が中庭側を歩くので、フィオナ嬢は僕の影に隠れて歩いて下さい。……見つかると、少し厄介なので」

 何が厄介なのかフィオナには分からなかったけれど、呆れたように小さく笑うアレンのかんばせを見て、それを問うことはやめておいた。

 言葉通りにアレンが中庭側に立ち、その逞しい大きな体の影に身を潜ませ、回廊の先にある扉へ向かって一歩ずつゆっくりと進んでゆく。本当は小走りで――なんなら全速力で――駆け抜けたかったけれども、そうするのはどう考えても怪しく、仕方なく平静然とした足取りで白い廊下を、足音を立てずに歩む。フィオナの歩幅を考慮し、アレンはいつもよりも少しだけ歩幅を狭め、歩む速さも合わせてくれている。その心遣いが、とても嬉しかった。早くここを去りたいという気持ちはあっても、彼のやさしさがとても有り難かった。
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