呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません
第十三話 月下の逢瀬
まるで絵画に描かれたお姫様と王子様のようだった。色鮮やかに、精緻な筆使いで描かれた、惚れ惚れするほど華麗で気品の高い絵画。
アレンから届けられた報告書を捲りながら、フィオナは脳裏に焼き付いたあの日の光景を回顧し、そっと目を細める。温室のガゼボで、彼らは向かい合ったまま暫く話し込んでいた。どんな話をしていたのかは分からないけれども、おおよそ政治的な難しい話題だったのだろう。シリウスは時折険しい顔をしていた。遠目からも分かるほど眉根を寄せて。けれどもアメリアはそんな彼とは対象的に、常にやさしい微笑を湛えていた。溜息をこぼすシリウスを気遣うように、はたまた、労うように。そんな二人の情景が、今もくっきりと眼に焼き付いて離れない。もう十日も前のことだというのに。たっぷり時間は過ぎたはずなのに。何度も寝て、何度も起きて、何度も夜を迎えて、何度も朝を迎えたはずなのに。網膜にありありと焼き付いたそれは、明瞭な輪郭を保ったままいつもそこにある。時には夢の中まで追いかけてくるほど、鮮明に。
そもそも――。気になるページに栞を挟み、肺いっぱいに吸い込んだ空気を、細く長くゆっくりと吐き出しながらフィオナは思う。そもそもあの光景が“普通”なのだ、と。女神の生まれ変わりとまで謳われるほど絶世の美人である公爵令嬢と、国の未来を背負う若く勇敢な、そして類稀な美貌をも兼ね備えた王太子。絵画の題材にするならぴったりだ。あの光景を前にすれば、どんな画家も、その一瞬一瞬を切り取ろうと筆を走らせたに違いない。それくらい、二人はお似合いだった。美男と美女。何より彼らは身分が釣り合っている。爵位もなく、一介の魔女でしかないフィオナなど、比べるまでもない。
休憩用に淹れていたダージリンティーはすっかりぬるくなっていて、澄んだ赤褐色だった水面は薄く濁り、一口飲んでみるとたちまち口の中かが渋みでいっぱいになった。鼻から抜ける香りも全く芳醇ではない。仕方なく僅かに残った紅茶を一思いに飲み干して、空になったティーカップを片手にキッチンへ向かう。一歩足を踏み入れると、すぐにテーブルの上に置かれた真っ赤な林檎が目にとまり、フィオナはその瞬間、自身が空腹であることに気が付いた。どうやら報告書を読み耽りすぎて、時間の経過をすっかり忘れてしまっていたらしい。ワークトップの前に設けられた小窓から外を覗くと、とっぷりと暮れたミッドナイトブルーの空に、まん丸い形をした青白い月が浮かんでいた。
アレンが持ってきた報告書――医者が綴った診療録――によると、試験薬を試した傷病人たちは、みな無事に快方へ向かっているという。期待していた効能もきちんと発揮されているようで、治療に良い影響を与えているそうだ。今のところ副作用らしいものの発現もなく、そのことにフィオナはとても安堵する。試験薬を何度も飲んだ身体は、薬に対してある程度の“慣れ”が出来てしまっている。故にそうでない人間とは、現れる症状が違う場合も少なからずあるからだ。
シリウスは医者の進言をもとに、試験薬のうちのひとつ――試した中で最も効果が良かったもの――を量産することに決めた。既にアレン伝いに、必要な材料と量、そして工程を記したものを用意してほしいと連絡が来ていたので、急いで紙に認め、数日前に送り返したばかりだ。これで調薬が出来る人間であれば誰でも作ることが出来るだろう。しかし、魔力が必要な部分についてはどうしようもないので、一部の薬草だけはフィオナが煎じ、そこに魔力を溶かしたものを定期的に届ける手筈になっている。
実際は王城の近くで手伝うのが一番良いのだろうけれど。真っ赤な林檎を愛用の果物ナイフで丁寧に剥きながらフィオナは思う。実際アレンからも、そういう提案はされていた。何なら王城の中に専用の部屋を一つ用意するから、と。それはアレンというよりシリウスの提案で、彼は至極真面目だと言っていたけれど、しかしフィオナはその誘いを受けることはしなかった。王城のような人の多いところでは、常に気を遣わなければいけない上に、何よりシリウスの近くにいるというのは、嬉しくあると同時にとても辛いものでもあるからだ。
あの日以来――王城で会って以来――、シリウスとは顔を合わせていない。風の噂によれば、どうやら魔獣の根城が見つかったようで、近々討伐作戦が実行されるというから、その対応に追われているのかもしれない。彼は王太子であると同時に、騎士団を纏め上げる団長だ。今回の作戦では、もちろん前線へ出向くことになるだろう。いくらアレン共々“剣聖”と讃えられる騎士とはいえ、対峙するのは人間ではなく魔獣だ。すんなり決着がつくとは考え難い。
「……久しぶりに教会にでも行こうかしら」
ぼそりと呟き、八等分にカットした林檎をひとつ、口いっぱいに頬張る。たっぷり詰まった密の甘さと、じゅわっと広がる爽やかな果汁が、つい頰が緩んでしまうほどたまらなく美味しい。あんなにたくさん――木箱から溢れそうなほど山積みだった――林檎も、あと残り僅かだ。最後はタルトタタンしよう、と、もう一切れ摘みながらフィオナは思う。色々作った林檎のお菓子の中で、シリウスが気に入ったのがタルトタタンだった。ソテーしたたっぷりの林檎とほろ苦いカラメルの絡み合う、祖母直伝のタルトタタンを。
夕食とは言い難いけれど、林檎をひとつまるまる食べ終えて十分お腹は満たされたので、報告書の続きを読もうと居間へ戻ったフィオナは、そこでふと、馬の蹄の音が聞こえたような気がした。砂利の混じった土を踏む、あの重たい足音。随分と久しぶりに耳にするその音に、フィオナはたちまち、胸の中がぱあっと明るく弾けるのを感じた。そうなるともういても立ってもいられず、足早に――ほぼ無意識に――玄関へと歩み寄る。扉には小さな覗き穴がついているけれど、そこを覗く必要はないだろうという確信が不思議と沸いて、フィオナはつい笑みがこぼれてしまう。あんな光景を――シリウスとアメリアの、まるで絵画のように美しい情景を――目の当たりにしても、彼らとは身分に大きな差があるのだと突きつけられても。苦しくて、辛く思うこともたくさんあるけれど。それでも彼に逢えることが、嬉しくて嬉しくてたまらない。
錠を解き、扉をゆっくり引き開くと、玄関のポーチへと続く一本道の途中に、シリウスは愛馬――真っ白い艷やかな毛並みをした馬――を連れて立っていた。
「今日は綺麗な満月だな」
そう言いながら近場の木に手綱を括り付け、シリウスは颯爽とした足取りでフィオナの傍へと歩み寄ってくる。月下で見る彼の姿は、筆舌に尽くしがたいほど神々しく、フィオナは思わず見惚れ、息を呑む。青白い光に照らされた白銀が仄かに輝き、やわらかな毛先が穏やかな風にのって微かに揺れている。
神の創造物――。いつだったか、誰かがそう喩えているのを聞いたことがあるけれど。確かにそれは、言い得て妙だとフィオナは思う。シリウスも――そしてアメリアも、二人共神が創造した無二の存在だからこそ、あんなにも美しいのだろう。もはや“美しい”という言葉で表すことすら物足りないと思えてしまう。
アレンから届けられた報告書を捲りながら、フィオナは脳裏に焼き付いたあの日の光景を回顧し、そっと目を細める。温室のガゼボで、彼らは向かい合ったまま暫く話し込んでいた。どんな話をしていたのかは分からないけれども、おおよそ政治的な難しい話題だったのだろう。シリウスは時折険しい顔をしていた。遠目からも分かるほど眉根を寄せて。けれどもアメリアはそんな彼とは対象的に、常にやさしい微笑を湛えていた。溜息をこぼすシリウスを気遣うように、はたまた、労うように。そんな二人の情景が、今もくっきりと眼に焼き付いて離れない。もう十日も前のことだというのに。たっぷり時間は過ぎたはずなのに。何度も寝て、何度も起きて、何度も夜を迎えて、何度も朝を迎えたはずなのに。網膜にありありと焼き付いたそれは、明瞭な輪郭を保ったままいつもそこにある。時には夢の中まで追いかけてくるほど、鮮明に。
そもそも――。気になるページに栞を挟み、肺いっぱいに吸い込んだ空気を、細く長くゆっくりと吐き出しながらフィオナは思う。そもそもあの光景が“普通”なのだ、と。女神の生まれ変わりとまで謳われるほど絶世の美人である公爵令嬢と、国の未来を背負う若く勇敢な、そして類稀な美貌をも兼ね備えた王太子。絵画の題材にするならぴったりだ。あの光景を前にすれば、どんな画家も、その一瞬一瞬を切り取ろうと筆を走らせたに違いない。それくらい、二人はお似合いだった。美男と美女。何より彼らは身分が釣り合っている。爵位もなく、一介の魔女でしかないフィオナなど、比べるまでもない。
休憩用に淹れていたダージリンティーはすっかりぬるくなっていて、澄んだ赤褐色だった水面は薄く濁り、一口飲んでみるとたちまち口の中かが渋みでいっぱいになった。鼻から抜ける香りも全く芳醇ではない。仕方なく僅かに残った紅茶を一思いに飲み干して、空になったティーカップを片手にキッチンへ向かう。一歩足を踏み入れると、すぐにテーブルの上に置かれた真っ赤な林檎が目にとまり、フィオナはその瞬間、自身が空腹であることに気が付いた。どうやら報告書を読み耽りすぎて、時間の経過をすっかり忘れてしまっていたらしい。ワークトップの前に設けられた小窓から外を覗くと、とっぷりと暮れたミッドナイトブルーの空に、まん丸い形をした青白い月が浮かんでいた。
アレンが持ってきた報告書――医者が綴った診療録――によると、試験薬を試した傷病人たちは、みな無事に快方へ向かっているという。期待していた効能もきちんと発揮されているようで、治療に良い影響を与えているそうだ。今のところ副作用らしいものの発現もなく、そのことにフィオナはとても安堵する。試験薬を何度も飲んだ身体は、薬に対してある程度の“慣れ”が出来てしまっている。故にそうでない人間とは、現れる症状が違う場合も少なからずあるからだ。
シリウスは医者の進言をもとに、試験薬のうちのひとつ――試した中で最も効果が良かったもの――を量産することに決めた。既にアレン伝いに、必要な材料と量、そして工程を記したものを用意してほしいと連絡が来ていたので、急いで紙に認め、数日前に送り返したばかりだ。これで調薬が出来る人間であれば誰でも作ることが出来るだろう。しかし、魔力が必要な部分についてはどうしようもないので、一部の薬草だけはフィオナが煎じ、そこに魔力を溶かしたものを定期的に届ける手筈になっている。
実際は王城の近くで手伝うのが一番良いのだろうけれど。真っ赤な林檎を愛用の果物ナイフで丁寧に剥きながらフィオナは思う。実際アレンからも、そういう提案はされていた。何なら王城の中に専用の部屋を一つ用意するから、と。それはアレンというよりシリウスの提案で、彼は至極真面目だと言っていたけれど、しかしフィオナはその誘いを受けることはしなかった。王城のような人の多いところでは、常に気を遣わなければいけない上に、何よりシリウスの近くにいるというのは、嬉しくあると同時にとても辛いものでもあるからだ。
あの日以来――王城で会って以来――、シリウスとは顔を合わせていない。風の噂によれば、どうやら魔獣の根城が見つかったようで、近々討伐作戦が実行されるというから、その対応に追われているのかもしれない。彼は王太子であると同時に、騎士団を纏め上げる団長だ。今回の作戦では、もちろん前線へ出向くことになるだろう。いくらアレン共々“剣聖”と讃えられる騎士とはいえ、対峙するのは人間ではなく魔獣だ。すんなり決着がつくとは考え難い。
「……久しぶりに教会にでも行こうかしら」
ぼそりと呟き、八等分にカットした林檎をひとつ、口いっぱいに頬張る。たっぷり詰まった密の甘さと、じゅわっと広がる爽やかな果汁が、つい頰が緩んでしまうほどたまらなく美味しい。あんなにたくさん――木箱から溢れそうなほど山積みだった――林檎も、あと残り僅かだ。最後はタルトタタンしよう、と、もう一切れ摘みながらフィオナは思う。色々作った林檎のお菓子の中で、シリウスが気に入ったのがタルトタタンだった。ソテーしたたっぷりの林檎とほろ苦いカラメルの絡み合う、祖母直伝のタルトタタンを。
夕食とは言い難いけれど、林檎をひとつまるまる食べ終えて十分お腹は満たされたので、報告書の続きを読もうと居間へ戻ったフィオナは、そこでふと、馬の蹄の音が聞こえたような気がした。砂利の混じった土を踏む、あの重たい足音。随分と久しぶりに耳にするその音に、フィオナはたちまち、胸の中がぱあっと明るく弾けるのを感じた。そうなるともういても立ってもいられず、足早に――ほぼ無意識に――玄関へと歩み寄る。扉には小さな覗き穴がついているけれど、そこを覗く必要はないだろうという確信が不思議と沸いて、フィオナはつい笑みがこぼれてしまう。あんな光景を――シリウスとアメリアの、まるで絵画のように美しい情景を――目の当たりにしても、彼らとは身分に大きな差があるのだと突きつけられても。苦しくて、辛く思うこともたくさんあるけれど。それでも彼に逢えることが、嬉しくて嬉しくてたまらない。
錠を解き、扉をゆっくり引き開くと、玄関のポーチへと続く一本道の途中に、シリウスは愛馬――真っ白い艷やかな毛並みをした馬――を連れて立っていた。
「今日は綺麗な満月だな」
そう言いながら近場の木に手綱を括り付け、シリウスは颯爽とした足取りでフィオナの傍へと歩み寄ってくる。月下で見る彼の姿は、筆舌に尽くしがたいほど神々しく、フィオナは思わず見惚れ、息を呑む。青白い光に照らされた白銀が仄かに輝き、やわらかな毛先が穏やかな風にのって微かに揺れている。
神の創造物――。いつだったか、誰かがそう喩えているのを聞いたことがあるけれど。確かにそれは、言い得て妙だとフィオナは思う。シリウスも――そしてアメリアも、二人共神が創造した無二の存在だからこそ、あんなにも美しいのだろう。もはや“美しい”という言葉で表すことすら物足りないと思えてしまう。