Wednesday ~ Tracks: Season Collection
Episode 1.「雨の水曜日」
静かな雨が降りはじめたあの日の午後、僕は生まれて初めて一目惚れという体験をした。
淡い水色の傘を差し、雨に微かに煙るその娘の横顔はとてもキレイだった。
女の子を好きになるときはその娘の持っている雰囲気や仕草、そして色んな話をして分かってくる趣味や好きなモノ、考え方や価値観、性格なんかを全部ひっくるめ、段々とその娘のことが気になりはじめ、その結果、好きという気持ちが芽生えていくものなんだと、過去の経験も含めずっと今まで思っていた。
でも、それは違った。
あの日、キミを見つけた。キミに出逢った。その瞬間、僕は魔法にでもかかったように一目でキミが好きになった。
キミにもっと会いたい。キミをもっともっと知りたい。
そんなふうに思えるほど、キミの姿は僕の心に、瞳に鮮やかに焼きついたんだ。
そう、あの日は雨の降る水曜日だった。
この街にやって来たのは昨年、暮れも押し迫ったころだった。急な欠員補充の辞令を喰らった僕は、引っ越し先の住環境や地理も把握しないまま1LDKマンションの賃貸借契約を法人契約で締結してこの地へとやって来た。
年末が近いということもあり、一人者の僕は転勤に伴う休暇を僅か二日しか貰えなかった。
独身だから荷物も少ないだろうし、二日あれば大丈夫でしょ? と総務部の担当者に電話口であっさり言われた。
一日を引越しの搬出と搬入で使い、もう一日を後片付けと役所への転入届、ガスの開栓などで終えると、次の日にはもう新しい職場でたくさんの仕事が待っていた。
しかし、新しい営業所の所長がなかなか話の分かる気配りの出来る人で、仕事納めの日に「引っ越し早々、お疲れさまでした。年始はゆっくり休んでいいから」と、年始休みをプラスで三日もくれた。
休みが増えたことは嬉しかったが、両親がいる仙台へ帰る予定も立てていなかったし、何処かに遊びに行くという予定もなかった。
年末とお正月の三が日は部屋に篭って本を読んだり、録画していたドキュメンタリー番組や映画を見たりしてだらだらと過ごし、近くのショッピングセンターに生活必需品や食料の買出しに出掛けたのは新しい年が来て四日目の午後近くだった。
そろそろこのあたりで生活のリズムを取り戻さなければ、と思っていた僕は朝七時に起きて朝食を済ませ、洗濯や掃除をした。引越し時は時間の余裕が無く、簡単な掃除しか出来なかったので、かなり念入りな掃除をした。賃貸とはいえ部屋中がすっきり明るくなると気分がいい。自分の手際良さに満足した僕は、鼻歌交じりに寒風の吹く街へと愛車で出掛けた。
この街で一番大きなショッピングセンターは今、流行のアウトレットモールだった。何でも揃うから便利ですよ、と新しい営業所の同僚が教えてくれたものだ。その言葉どおり様々なショップや専門店があり、核テナントは大手のGMSだった。
ただ、家族連れで賑わう店内は年始休みでごったがえしていて、とてものんびりと買い物を楽しむどころではなかった。
僕は目的の品物をさっさと買い求めると、逃げるようにしてショッピングセンターを出た。一度マンションに戻り、荷物を片付けて早めの昼食を取った。
さて、午後は何をして過ごそうかとソファにごろりと横になったところで、あと三日も休みがあることを思い出した。こんなに休みがあると、今日が何日で何曜日なのかも分からなくなる。
ましてお正月、松の内の間は毎日が日曜日のように思えてしまう。寝転がったままぼんやりと窓に映る冬枯れた木々を見ていると、雲の間から幾つもの薄日が差し込んでいた。
神々しさえ感じるその光景を見ていると、ちょっと辺りを散策してみようという考えがふと浮かんだ。
新しい街を好きになるには、まず街を知ることからだ。この街で何か新しい出来事が待っているのかも知れない。
北欧では天使の梯子とも言われるその光は、僕に外へ出てきなさいと言わんばかりにキラキラと金色に煌いていた。
アウトレットモールと違い、住宅街はとても静かだった。人通りもなく、散策にはもってこいという感じだ。
もともと僕は賑やかな場所よりは静かな場所、一人で落ち着けるところを好む。だからなのか、あてのない散策をしていても人気のない公園やひっそりとした場所にある喫茶店や古本屋などを探してしまうので、いつのまにか裏通りの路地を歩いていることが多かった。
でも、今日のように土地勘もない、人通りもない路地を歩き廻り、この年齢で迷子になってマンションに戻れないということだけは避けたい。電柱に貼られている番地や目印になる家屋などを確認しつつ、路地を幾つも曲がって歩いていると、広葉樹に囲まれた公園の入り口に辿り着いていた。
道はそこで左右に広がる形のT字路になっている。住宅地の外れ、どん詰まりにある公園なんて珍しいなと思い、公園の入り口に立って辺りを見渡した。入り口にあたる道は目の前にある、今、来た道だけで抜け道になるような路地は見当たらなかった。
背にした公園は静まり返っていて、鳥の声と木々のざわめく音だけが奥深くから微かに聞こえるだけ。直感的にこれはいい場所を見つけたと感じた。近隣の人たちもあまり利用することがなく、きっとお正月が終わっても今のように静かな佇まいのままだろう。
僕は早速踵を返し、石畳で出来た遊歩道へと向かった。
園内は手入れが行き届いていて空き缶や古雑誌などのゴミも見当たらず、公衆トイレにはよくある落書きもなく清潔さが保たれていた。小さな小川というか渓流も流れていて、風情を感じさせる水音が耳に心地良い。
欅や桂、山桜などの広葉樹に囲まれた静かな小道を抜けると公園の中央に出た。それほど大きくはないけれど石畳の真ん中に小洒落た噴水があり、立ち木のそばには幾つかのベンチが設けてあった。春先には緑の匂いに囲まれて本を読んだりするには良い場所だ。
僕はベンチに腰掛け、大きな伸びをして空を見上げた。すると、さきほどまで薄日が差していた空が何時の間にか黒い雲に覆われていた。ここに来るまで空は木々に覆われていたから気付きもしなかった。
今にも泣き出しそうな空を見上げて、「こりゃ、ひと雨来るなぁ」と、僕が何気なく呟くと同時に一陣の風が梢を大きく鳴らした。低気圧の到来。と、すぐに分かった。空気中に雨の香りが漂っている。傘なんて持って来ているはずもなく、僕は慌ててベンチから立ち上がっていた。
お気に入りの場所になりそうな公園を見つけたことが収穫だったな、と思いながら歩いてきた遊歩道を戻りはじめたとき、一粒の雨が頬に当たった。
「え……、もう降ってきたのか?」
鈍色の空をもう一度見上げると、たくさんの雨粒が糸を引くようにゆっくりと落ちてきていた。
さあぁという石畳を叩く音とともに降り出したたくさんの雨が辺りの風景を変えていく。
雨粒はきらきらと煌きながら空中に銀色の線を描きはじめている。
乾いていた石畳にはモノトーンの落書きをしていく。
周りは雨にうっすらと煙り、幻想的な世界へと変わっていった。
雨は嫌いじゃない。雨音の調べも、雨の匂いも好きだ。
何よりも街がひと時の間、静寂に包まれて落ち着く感じがとても好きだ。
雨にまつわる映画も『雨に唄えば』とか『シェルブールの雨傘』に心打たれた。
でもこの冬の最中、ジーン・ケリーになったつもりでいても、傘を持たずに雨に打たれればまず間違いなく風邪を引いてしまう。残りの休みを寝込んで過ごすなんてまっぴらごめんだ。
僕は遊歩道を外れ、比較的大きな枝振りの欅を見つけ、その下で雨宿りすることに決めた。幸いにもその大きな欅の根元には雨はたいして落ちてはこなかった。大きく広がる枝葉は天然の傘のようだ。
「やれやれ……と。しばらくここにいるのが正解だろうな」
ジーンズのポケットに突っ込んであったタオル生地の小さなハンカチで濡れた顔や服を拭いた。
雨雲は低く立ち込めてはいるが、上空に風があるせいか流れていくのが早い。そんなに長くは降り続かないように思えた。
雨は静かに降り続く。
辺りはひっそりと静まり返り、メロディを紡ぐような雨垂れの音しか聞こえてこなかった。僕はジーンズが汚れることを気にも留めず、木の根元にしゃがみ込み、その音に耳を傾けた。