Wednesday ~ Tracks: Season Collection

 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。

 思っていたよりも降り続く雨の糸を見ていた僕の耳に聞き覚えのあるメロディが微かに聞こえてきた。
 雨音に混じりながらそのメロディは少しずつ近づいてくる。聞き取れるくらいになったとき、気が付いた。

 それはとてもキレイな発音の英語で『雨にぬれても』を歌っていたのだ。しかも透きとおるようなキレイなメゾ・ソプラノで。

 歌声とともに石畳の遊歩道にメゾ・ソプラノの主が見えてきた。淡い水色の傘を差してはいるが、空を見上げて雨を楽しむように歩いている。その隣には彼女の歌に合わせるかのようなステップを踏んでふにふにと歩くコーギー犬がいた。

 彼女は遊歩道から外れた木の下に僕がいることに気付かず、『雨にぬれても』を歌いながら目の前を通り過ぎようとした。

 そのとき、雨に微かに煙る水色の傘越しに彼女の横顔が見えた。
 その瞬間、胸がとくん、と鳴り何かが心に柔らかく触れた。
 風がうなじを通り過ぎるように、髪をなびかせていくように……、胸の中が何かにそっと押された気がした。

 後で分かったことだが、それは僕が一目惚れという種類の恋に落ちた瞬間だったのだ。

 雨に煙る彼女の横顔はとても可憐で、僕は思わず弾けるように立ち上がっていた。
 ずっと座ったままだったので、いきなり立ち上がったことで立ちくらみがした。よろけたはずみで欅の幹に背中をぶつける。
 その衝撃で枝の葉に溜まっていた雨がバケツをひっくり返したように僕の頭上へと降り注いだ。


 ざばぁぁぁぁ、という大きな音とともに、僕は全身濡れ鼠と化していた。勿論、その音で彼女とコーギー犬は何事かと立ち止まり、頭から雨の雫を垂らしている僕を呆然として見つめていた。

 そのときの僕は、羞恥心とか情けないとかそんなことは一切思わなかった。
 彼女がこちらを向いてくれたおかげで顔を真正面から見ることが出来た。ラッキーだ。そう思っていた。
 彼女はびっくりしたように大きな目を見開いて僕を見つめている。コーギー犬は口を半開きにしたまま、その場に座り込んでいた。

「た……大変! ずぶ濡れですよ」

 柔らかなのに、ガラス細工のように繊細で透きとおるようなメゾ・ソプラノの声にドキリとした。
 小首を傾げ、少しだけ心配そうな表情をしている彼女はそう、まるで聖母のようだった。優しげな瞳に桜色をした形の良い柔らかそうな唇。なんと言えばいいのか、少女の可憐さと微かな大人の色香が見事に混ざり合っている、そんな感じだった。

「へ……平気、平気です」

 僕はそう言った瞬間、大きなくしゃみをしていた。雨は小降りになりつつあったが、風が出てきている。濡れた服を通して冷たい空気が体中を走り抜けた。

「おおっ、寒っ!」
「大丈夫ですか? そのままじゃ風邪を引いてしまいます。えっとタオル、タオルは……」

 彼女は持っていた小さな手提げから淡い黄色のタオルを取り出した。

「こちら、使って下さい」

 コーギー犬とともに、彼女は小走りに僕のところまでやって来てそのタオルを手渡してくれた。

「あ……どうもありがとう。助かります」

 僕はタオルを頭から被り、ズブ濡れになっている髪や顔を拭いた。顔を拭いているとき、タオルから何やら動物臭のような臭いがすることに気が付いた。タオルをよく見ると、白や薄茶色の毛が所々についている。思わず彼女の隣で僕を見上げているコーギー犬を凝視した。犬の毛も白と薄茶色の毛並み。間違いない。僕は苦笑いをしながら彼女に尋ねた

「あの……これって、もしかして犬用のタオル?」

 一瞬、きょとんとした表情を見せた彼女だったがタオルを見つめたあと、あっと小さな声を上げた。

「ご、ごめんなさい。チェリーの涎とか拭いたの忘れていました……」

 恥ずかしそうに呟いた彼女がとても可愛らしい。何気ない仕草、たったそれだけなのに全てを許せる気がするのは何故だろう。

「気にしない、気にしない。犬用のタオルでもこうして濡れた髪とか拭けたし。おかげで助かったよ。ありがとう」

 僕の言葉に彼女はほっとしたように、はにかんだ笑みを見せてくれた。僕もつられてにこりと微笑み返す。でもそこまでだった。次に一体、何を話せばいいのか僕は分からなくなっていた。何だか胸が痛い。ドキドキして息苦しい。

「えっと。あの、その……」

 笑いながら訳の分からない独り言を呟き、何か話そうと考えた。だが、考えれば考えるほど何が何だか分からなくなっている。
 するとコーギー犬が僕のそばへとことこやって来て、何やらくんくんと匂いを嗅ぎはじめた。そうだ、この犬を話題にすればいい。

「このコーギー、チェリーって言ってたから女の子かな」

 僕はコーギー犬の前にしゃがみ、そっと手のひらを差し出した。犬はくんくんと手の匂いを嗅いだあと、恐る恐るだが手のひらを舐めはじめた。よし、これでとりあえず友好関係が成立だ。
 僕は差し出していた手を犬の顎にやり、うりうりと顎の下を撫でてやる。コーギー犬はうっとりと気持ち良さそうに目を細めた。

「はい、女の子です。でも、いつもは人見知りする子なのにこんなに大人しいなんて」

 彼女は僕と犬の頭上にふわりと傘を傾けながら一緒になってしゃがみ込んだ。彼女の顔が僕の目の前にある。急接近だ。
 ふわりといい匂いがする。柑橘系のコロン? それともシャンプーの香り? 又、胸の鼓動がばくばくと激しくなる。落ち着かなければ……。

「僕のこと気に入ってくれたのかな? チェリーって名前、さくらんぼの意味?」

 彼女はくすっと微笑むと、細くしなやかな髪を耳に掛けながら首を小さく横に振った。

「ホントの名前はさくらです。桜の花は英語でCherry blossoms。だから私、チェリーって呼んでいるんです」
「なるほど、そっか。もう少ししたら、お前と同じ名前の花が咲く季節になるな」

 そう話し掛けてチェリーの頭をぐりぐりと撫でると、犬はくぅんと小さく鳴いた。束の間の沈黙が流れる。でもそれは決して気まずいものではなく、どちらかと言うとほんわかする居心地の良い沈黙だった。つぶらで無垢なチェリーの瞳が僕と彼女の間をいったりきたりしている。
 こういう時間の流れも悪くないなと思っていたのだが、しゃがんでいる足元から冷気がひたひたと漂ってくるのが分かった。このままこうしていると彼女に風邪を引かせてしまうかも知れない。
 でも、その前に自分が風邪をこじらせそうだ。この出会い、この時間が勿体ないけれど、ここはひとまず撤退したほうがいいだろう。

「あの……僕は杜宮 匠って名前です。よければキミの名前も教えて欲しいです」

 目一杯の勇気を出して言葉にした。何食わぬ顔をして。でも、耳朶や頬は赤かっただろう。雨に濡れて体は冷たかったのに顔は火照り、頭はショート寸前のように熱を帯びていたから。

 彼女は少時、躊躇うような表情を見せたが、すぐに優しく微笑むとガラス細工が奏でる音のような透き通る声で呟いた。

「わたしは櫻井 彩です。彩ると書いてあやと読みます」

 うん、可愛い娘にはやっぱりステキな名前がついているんだ。僕は一人納得した。

「じゃあ、櫻井さん。このタオル洗ってから返します。明日もこの時間、チェリーの散歩でここに来ますか?」
「あ、はい。お休みの間は、だいたいいつもこの時間に散歩に来ています」

 その言葉を聞き、僕はこくりと頷いた。

「明日、この先の噴水の前でタオルをお返しします。風邪、引かないように。じゃ‼」

 僕は立ち上がると同時に又、大きなくしゃみをした。確実に風邪をこじらせそうだった。こうしてはいられない。早く帰って熱い風呂に入り、風邪薬飲んで暖かい部屋で大人しくしていよう。でないと明日、彼女に会うことが出来ない。


 僕は黄色のチェリー用タオルを手に雨の中、脱兎のごとく走り出した。一度だけ振り返ると、彼女が小さく手を振っているのが見えた。無性に嬉しかった。明日、また彼女と会えると考えるだけで胸がときめく。

 僕は後ろ向きで走りながら大きく手を振り返した。雨に煙る彼女の姿と傘が少しずつ小さくなり、やがて見えなくなった。




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